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奴隷令嬢、最強への成り上がり  作者: 南蛇井


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32/50

苛烈な未来へ

夜の帳が降りると、ギルドの裏手にある細い路地は、別の世界のような空気を纏った。

石畳は夕刻に降った雨の名残でまだらに濡れ、月光がそこに淡く反射している。

だが光は乏しく、濡れた石面に浮かぶのは、どこか冷ややかな鈍い輝きだけだった。

頭上を覆う建物の影が路地を一層暗くし、人の姿はひとつもない。

背後からは酒場の喧噪――笑い声や荒っぽい掛け声、グラスがぶつかる甲高い音――がかすかに届く。

だがその賑わいは、この狭い路地には入り込まない。

静寂が支配する空間は、まるで外界から切り離された箱庭のように、不気味な孤独感を漂わせていた。

濡れた石壁には灯りひとつなく、ただ夜風が吹き抜けるたび、冷たい湿気が肌を刺す。

その場に立つだけで、誰もが自然と声を潜める。

――秘密を交わすには、これ以上ない舞台だった。

路地裏の奥、月光の届かぬ陰に二つの影が向かい合っていた。

ひとりは、まだ騎士の名残を纏う壮年の男――ダリオ。

もうひとりは、上等な外套に身を包み、薄笑みを絶やさぬ貴族派の斡旋役だった。

「――奴隷の少女。あれを操れれば、派閥にとっては十分な駒となる」

低く囁かれた声は、路地の湿った空気を震わせる。

ダリオの瞳が揺れる。

かつては剣と誓いを糧に生きた騎士。だが今は落魄し、誰からも顧みられない男。

その胸中に、黒く甘美な響きが広がっていく。

(……これが、私の復権の道か。失った立場を、誇りを……再び手にできるのなら)

(たとえ卑しさに塗れようと……まだ“戻れる”のかもしれん)

喉がひりつき、握る拳に冷たい汗がにじむ。

背筋にまとわりつく罪悪感を振りほどくように、ダリオは視線を逸らした。

それでも、胸の奥で燻る渇望は消えない。

貴族社会へ――あの眩い舞台へ。

彼の迷いは、深い闇の底で揺れ続けていた。

「……その口ぶり、奴隷の少女を売り払うつもりか」

鋭い声が、路地裏の空気を切り裂いた。

闇の奥から現れたのは、獣じみた眼光を放つロウガ。

その存在感は、場のすべてを支配する嵐のようだった。

「ロ、ロウガ……!」

ダリオの背筋に冷たいものが走る。

ロウガは一歩、また一歩と歩み出るたびに石畳が軋むような圧を放ち、

彼の怒声が夜の静寂を粉々に砕いた。

「テメェ……麗華を売る気だったのか!」

まるで胸の奥に突きつけられた刃。

その問いは疑念ではなく、揺るぎない断罪の宣告だった。

ダリオの手は反射的に腰の剣へ伸びる。

だが次の瞬間、己の行為に愕然とした。

――剣を抜いたところで、何を守る?

守るべき誇りも、仕える主君も、とうに失ったはずではないか。

(私は……こんな卑しい真似を……!)

握りかけた柄から力が抜け、剣はカチャリと鞘の中で虚しく鳴った。

ロウガの眼差しは、その全てを見透かしている。

彼は麗華の“守護者”であると同時に、ダリオの心に潜む卑小さを照らす鏡だった。

――逃げ場は、もうない。

ロウガの怒声が、鋭い刃となって突き刺さる。

その威圧の前に、ダリオの身体は思わず後退り――やがて石畳に片膝をついた。

「ぐ……っ……」

声にならない呻きが喉を震わせる。

誇り高き騎士だったはずの自分が、今や奴隷の少女を取引材料にしようとした。

その事実が胸を押し潰し、呼吸すら苦しくさせていた。

「私は……」

言葉が途切れ、唇が震える。

「私は……また同じ過ちを繰り返すところだった……」

かつて誓った忠義を守れず、主君を救えなかった過去。

その傷が再び開き、痛烈な自己嫌悪が迸る。

雨に濡れた石畳に、滴るように彼の悔恨が落ちていく。

騎士の鎧を脱ぎ捨てたはずの男が、なおも「矜持」という亡霊に縛られている――その哀れな姿が露わになった。

(私は……弱い。どこまでも……)

崩れ落ちたその心は、もはや隠すことさえできなかった。

雨水がまだらに残る石畳を、軽やかな足音が踏みしめた。

密談の場に割って入るように、麗華の姿が現れる。

月光に照らされたその横顔は、奴隷の烙印を背負いながらも、どこまでも冷たく揺るぎない。

瞳は氷のように澄み、しかしその奥には燃えるような意思が宿っていた。

「――利用するなら、すればいい」

低く響いた声が、場の空気を一変させる。

ロウガも、貴族派の斡旋役も、思わず息を呑んだ。

「私は、それを力に変えるだけだ」

雨に濡れた路地に、その言葉が鋭く刻まれる。

まるで“奴隷”の立場を超え、逆に主として世界へ命じるかのように。

麗華は一歩、前へ。

その気配に押されるように、ダリオは顔を上げる。

「……だが――」

月光が彼女の髪を淡く照らし、影が路地を切り裂いた。

「私の意思を踏みにじるなら、容赦しない」

その瞬間、氷の刃が突き立てられたかのような緊張が走った。

麗華の言葉は、従属を強いる檻の中から響いたものではない。

むしろ“檻を打ち破る者”としての、揺るぎない宣言だった。

奴隷でありながら、彼女は確かに“主”であった。

路地裏に張りつめていた緊張が、麗華の宣言とともに鋭く凍りつく。

その言葉を浴びたダリオの胸に、忘れかけていた熱が甦った。

震える手を押さえながら、彼はゆっくりと膝を折る。

濡れた石畳に両手をつき、かつての騎士が示すべき礼を――誇りを失ってなお、最後に残された矜持を示す。

「……あなたこそ」

声は掠れ、しかし確かに響く。

「私が、再び剣を捧ぐべき主君だ」

その瞬間、路地裏にただ一人の“主”と“騎士”が生まれた。

斡旋役は唖然とし、ロウガは腕を組んで黙したまま、その光景を見つめる。

ダリオの瞳には、もはや打算も欲望も宿っていない。

あるのはただ、麗華という存在に心を折られ、そして救われた者の決意だった。

麗華はしばし無言で見下ろす。

やがて冷たい瞳の奥で、わずかに炎が瞬いた。

その光は、彼女が仲間を得た証であり――同時に、次なる嵐を呼び込む予兆でもあった。

雨水の残る石畳の路地に、三人の影が交錯する。

膝を折ったままのダリオの瞳には、もう迷いはなかった。

彼の心に巣食っていた「裏切りの芽」は、麗華の冷たい宣言に焼き尽くされたのだ。

ロウガは腕を組み、険しい眼差しを向け続ける。

「……チッ。簡単に信じる気はねぇぞ」

その声には依然として警戒が滲んでいる。だが同時に、彼もまた見てしまった。

麗華が“駒”ではなく、“仲間”へと男を変えた瞬間を。

麗華は答えず、ただ静かに立ち続ける。

その冷徹な横顔は、もはや奴隷という檻に縛られた存在ではなかった。

――この夜の出来事は、三人の絆の最初の礎となる。

だが同時に、それは後に訪れる「試練と裏切り」の前触れでもあった。

彼らの物語は、ここからさらに深く絡み合い、より苛烈な未来へと踏み込んでいく。


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