この邂逅は、単なる協力の始まりではない
闘技場での試験が終わり、麗華は控え室へと戻された。
そこは石造りの狭い一室。灰色の壁は冷たく、かすかに湿気を帯びていて、呼吸をするたびに土と鉄の匂いが鼻に残る。
高い位置に嵌め込まれた鉄格子の窓から、月明かりが斜めに差し込んでいた。光は床の石畳を淡く照らし、影を長く引き伸ばす。
遠くでは、他の受験者たちのざわめきが聞こえてくる。歓声と罵声、落胆と安堵――それらが混ざり合って届くたび、この部屋だけが異質なほど静まり返っていることが際立った。
麗華は腰を下ろした。背筋を伸ばしたまま、膝の上に手を置く。
汗と血にまみれた試験の記憶がまだ鮮明に残っているにもかかわらず、その表情に疲れや感情はほとんど浮かんでいない。
ただ、淡々と――まるで今の状況すら、すでに過ぎ去る過程の一部にすぎないと受け止めているかのように。
(……これで一歩。必ず頂点へ)
冷えた空気の中で、その誓いだけが炎のように胸の奥で揺れていた。
湿った石の匂いが漂う控え室。
麗華が月光の差す窓辺に身を置いたそのとき――背後から低い声が落ちた。
「……ああ、そうだ。まるであの方に似ている」
静けさに溶け込むはずの囁きが、奇妙な重みをもって耳に届いた。
麗華は瞬きもせず振り返る。
控え室の隅、影の中にひとりの男が腰をかけていた。
髭は伸び、衣は擦り切れている。だがその瞳だけは――疲れた兵士ではなく、かつての騎士が主君を見定める鋭さを宿していた。
「……何のことですか?」
麗華の声は淡々としていた。けれどその視線には警戒の色が浮かぶ。
見知らぬ男の言葉に、過去と真実を探ろうとする冷ややかな鋭さが重なった。
男はゆっくりと立ち上がった。
鎧を失った身でありながら、その歩みにはかつての騎士としての品格が残っている。
やがて、麗華の正面に立つと――真っ直ぐな眼差しを彼女に注いだ。
「かつて、私が仕えたご婦人……」
低く響く声には、懐かしさと痛切な哀惜が混じっていた。
「その方は誇りと気品に満ちておられた。どんな嵐の中でも、背筋を曲げることなく立ち続けていた。――あなたの立ち居振る舞いには、その面影がある」
麗華はわずかに眉を寄せる。
「……私は奴隷です。ただの試験の駒に過ぎません」
即座にそう告げた声は冷ややかで、感情を切り捨てるかのようだった。
だが――その言葉を受けても、男は迷いなく首を横に振った。
「いや……“駒”には宿らぬ輝きだ」
その声音には確信が宿っていた。
「私は、それを見誤らない」
湿った石壁に反響した言葉は、控え室の重苦しい空気を揺らし、麗華の胸奥に小さな波紋を生む。
男は、ゆっくりと片膝をついた。
石床の冷たさを厭わず、かつての主に捧げたであろう“騎士の礼”を、そのまま麗華に捧げる。
その姿は、錆びた鎧を失い、肩に栄光を失ったとしても――なお騎士であろうとする矜持そのものだった。
「麗華殿」
頭を垂れたまま、低く、しかし揺るぎのない声が響く。
「あなたに剣を捧げることは叶わぬ。だが、戦場を渡り歩いた経験ならば、貸せる。……あなたが進む道に、私を加えていただきたい」
控え室に沈む月光が、二人の影を重ねる。
麗華は、驚きにわずかに目を見開いた。
(……この男が、私に従うと?)
その表情の変化は一瞬だった。すぐに冷たさを取り戻し、ゆっくりと見下ろす。
「……私に従う、と?」
静かな問いかけが、石造りの部屋に響いた。
膝をついたままの男の影は、静かに揺れていた。
麗華には見えぬ角度で――その眼に、別の光が宿る。
(……この娘。使える)
沈黙の奥で、思惑が渦を巻く。
(奴隷でありながら注目を浴びる異端の存在。人々の視線を奪うその冷徹さ……もし私が“導く立場”に立てば――再び、貴族社会への足掛かりとなるやもしれぬ)
かつて失った名誉。
奪われた立場。
乾いた喉に潤いを求めるように、ダリオはその可能性を貪る。
だが表向きに見せるのは、忠誠の仮面。
「経験を貸そう」という言葉は、誇りに縋る老騎士のものにも聞こえるし、未来を見据える策士の囁きにも聞こえる。
協力の申し出は――忠義か、取引か。
その答えは、まだ完全には露わにならない。
湿り気を帯びた控え室の石壁に、月明かりが差し込む。
その光に照らされ、二つの影が交わった。
ひとりは、奴隷という檻を破ろうとする少女。
ひとりは、騎士の矜持を失いながらもなお立ち返ろうとする男。
互いに“利用”する意志を胸に秘めたまま、奇妙な共闘の幕が上がる。
麗華は冷たい瞳を伏せ、わずかに顎を引く。
ダリオは膝をついた姿勢のまま、その影に静かに身を重ねる。
この邂逅は、単なる協力の始まりではない。
のちの――裏切りと信頼を孕む因子。
二人の物語をより深く、より険しい道へと導く運命の分岐点。
石壁に映る影は静かに伸び、やがて一つの暗闇へと溶けていった。




