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奴隷市場の広場

――視界いっぱいに広がるのは、嗅ぎ慣れぬ匂いと、冷たい石畳だった。

道の両脇に並ぶ露店には、色とりどりの香辛料や獣の毛皮が吊るされ、香ばしい匂いと生臭さが入り混じって鼻を刺す。けれど、それ以上に異様なのは――。

檻だ。

檻の中に、人がいる。年端もいかぬ子供、荒くれた男、うつむく女――それぞれ首輪や足枷をつけられ、まるで獣のように並べられていた。

「……ここは……なに……?」

麗華は声にならない声で呟いた。

目に映るのは、優雅な衣服をまとった貴族風の男女や、油にまみれた商人たち。彼らは通りすがりに檻の中を覗き込み、ためらいもなく値踏みする視線を投げていた。

「安いな、これは働きそうだ」「いや、骨が細い。長持ちしねえ」

「女は競りに出したほうが高く売れるぞ」

耳に入る言葉は、物としか扱っていない調子ばかり。

その冷たい空気に、麗華の背筋がぞくりとした。

胸の奥がじわりと冷たくなり、吐き気すら覚える。

――ここでは、人間が商品だ。

喉が渇き、唇がひび割れる。

馬車の荷台の鎖に繋がれたまま、麗華は人混みを見つめて動けなかった。

目が合った貴族の女が、薄く笑って彼女を指さしたような気がした。

「見下されてる……」

体温が急に下がったような錯覚に、麗華はうなじを押さえる。

そこには、冷たく重い鉄の首輪――奴隷の証が確かにあった。

石畳に影を落とす荷車。その下、薄暗い隙間に麗華は押し込まれていた。

鉄の鎖が首輪から延び、荷車の車軸に繋がれている。逃げ場はない。足を動かすたびに、赤く擦れた痕に鈍い痛みが走った。

「……なんで、こんな……」

声に出したつもりだったが、かすれた喉から漏れたのは息だけだった。

通りを歩く人々のざわめきが耳に入る。

「見ろよ、奴隷だ」

「こんなガキまで……」

「競りに出すのかねぇ」

大人の商人だけじゃない。遊びに来ているのだろうか、小さな子供が荷車の影を指さして笑っていた。純粋な無邪気さが、逆に突き刺さる。

麗華は目を逸らそうとした――けれど首輪が重くて、ただうつむくしかない。

熱い石畳から立ち上る匂いと、遠くから漂う香辛料の刺激臭。世界がやけに生々しく、逃げられない現実感だけが増していく。

見ないでよ……

心の奥で叫んでも、視線は止まらない。

馬車の影に潜む自分が、獲物のように見られていることを、麗華は痛いほど感じていた。

麗華は馬車の影に押し込まれたまま、鉄の首輪に繋がれた体を縮こまらせていた。

近くで男たちの声がする。

奴隷商人が、別の商人と何やら立ち話を始めていた。

「なぁ、聞いたか? 最近この街に“転生者”が現れたらしいぞ」

「おお、あの噂か。貴族の養子になったガキだろ? 妙な知識をひけらかしてるって話だ」

「それだけじゃねえ。ギルドに登録したばかりで、もうAランクになった少女がいるとか……化け物だな」

……転生者……?

麗華の胸がざわめく。

妙な知識――あり得ないほどの急成長――それは、あのバスにいた誰かの姿と重なった。

足首につながれた鎖が、無意識に小さく震える。

麗華は必死に耳を澄ましながらも、声を上げることはできなかった。

まさか……私以外のみんなも……ここに……?

商人たちは噂話を笑い飛ばすだけで、麗華の存在など見向きもしない。

しかし、その何気ない会話が、彼女の心に不穏な影を落としていった。

檻付き馬車の中は、陽射しを遮ってはくれるが、逃げ場のない視線からは守ってくれなかった。

麗華は首輪に繋がれたまま、荷車の影で体育座りをしている。

鉄格子越しに通りすぎる人々の視線が突き刺さる。

粗末な身なりの子供が指を差して笑った。

「ねえ、お母さん。あれが奴隷?」

「見ちゃだめ!」母親が慌てて手を引く。だが、興味津々の目は最後まで麗華を離さなかった。

商人たちは値踏みするような目でちらりと彼女を見ては、「まだ若ぇな」とか「骨格は悪くない」とか、商品としての評価しかしない。

麗華は唇を噛みしめた。

どうして……私が……こんな目に……

彼女のプライドを支えていた現世の常識――成績、容姿、カースト――そんなものが、ここでは何の意味も持たなかった。

鎖が小さく鳴るたび、その事実が胸に突き刺さる。

鉄格子の向こうで、人々のざわめきと市場の喧騒が遠ざかるように感じられた。

麗華は俯いたまま、熱い涙が頬を伝うのを止められなかった。

檻付き馬車の影の中、麗華はただ膝を抱えてうつむいていた。

喧騒の中から、ふと耳に入った商人たちの声が胸をざわつかせる。

「聞いたか? この街に“転生者”が現れたらしいぞ」

「おう、貴族の養子になった少年だろ? 妙な知識で騎士団に気に入られたとか……」

麗華の頭の中で、ひとりの顔が浮かぶ。

――あの、教室の隅でいつも小さくなっていた男子。

名前もろくに覚えていなかったクラスメイト。

「才能を認められた……?」

胸がひどくざわめき、首輪が喉に食い込む。

なんで……なんであの子が……

私のほうが、ずっと上だったのに。勉強も、見た目も、人間関係だって……

視線を落とせば、手首から伸びる鎖がいやでも現実を突きつけてくる。

ここでは誰も私を知らない。カーストも、立場も……全部、意味がない。

太陽に熱された鉄格子が頬に触れ、じりっと焼ける。

麗華は目を閉じ、必死に涙を堪えた。

しかし胸の奥で――プライドが崩れていく音だけは、どうしても止められなかった。

麗華が耳をそばだてていると、不意に鎖が乱暴に引かれた。

「何を聞き耳立ててやがる」

奴隷商人の怒声と同時に、体が前につんのめり、膝が石畳に打ち付けられる。

「いっ……!」思わず声が漏れたが、その瞬間、通りすがりの通行人が鼻で笑った。

「見ろよ、奴隷がなんか言ってるぞ」

「喋れるだけマシじゃねえか」

ひそひそ声と嘲りが混じる。麗華は必死に言い返そうと唇を動かした。

ちがう……私は奴隷なんかじゃない……!

けれど、かすれた喉から出てきたのは情けない息だけだった。

鎖の金属音が耳に響く。

重い鉄の首輪が、喉の奥にずしりとのしかかる。

――あの商人の言う通りだ。

首輪一つで、私は“人間じゃない”。

胸の奥がひやりと冷えていく。

かつて誇りだった自分の名前や立場が、何の意味もないことを、いやでも思い知らされていた。

昼下がりの陽射しが、石畳にじりじりと照りつけていた。

香辛料の刺激的な匂いと獣臭が入り混じり、むっとした熱気が市場を覆う。

怒鳴り声や値切りの喧騒、鉄を打つような硬い音が絶え間なく響く中、麗華は檻付きの馬車の中で膝を抱えていた。

鎖が足首に絡みつき、ほんの少し動かすだけで金属音が耳を刺す。

荷車の影に停められた馬車は、通りすがりの視線から完全に隠れることはなく、ときおり好奇の眼差しが鉄格子越しに差し込んでくる。

逃げ場はない。できるのは耳を澄ますことだけ。

……ここはどこ?

どうして私がこんなところに……。

市場を歩く商人たちの会話が、ひときわはっきりと届いてくる。

遠くの喧騒とは違い、すぐ近くで立ち止まった二人の声。

「――今度の市は貴族が来るらしい」

「戦力になる奴隷が高く売れるって話だな」

麗華は、首輪の擦れる感触に無意識のうちに喉を震わせた。

足を組み替えることさえ許されないこの檻の中で、彼女にできるのは、ただ聞くことだけだった。

馬車の中は薄暗く、熱気がこもっていた。

麗華は鉄格子の隙間から市場の路地を見つめながら、ただ鎖の重みに耐えていた。

ふと、すぐ近くで声がする。奴隷商人が別の商人を呼び止め、雑談を始めたらしい。

麗華の耳は、自然とそちらへ傾いていた。

「――最近、この街に“転生者”が現れたらしいな」

「おいおい、またかよ。今度は誰だ?」

「貴族の養子になった少年がいてさ、やけに妙な知識を持ってるって評判だ」

「ほう、頭の回るやつか。それと……聞いたか? ギルドに登録したばかりの少女が、もうAランクに上がったとか」

「本当なら化け物だな。普通じゃあり得ねえ」

……転生者?

貴族の養子……Aランクの少女……?

麗華の胸がざわつく。聞き覚えのある響きの会話に、息が詰まる。

「――名前はたしか……杉原とか言ったか?」

「南雲もいたな。どっちも評判らしいぜ」

何気なく交わされる商人たちの会話。

だが、その一言が麗華の胸を鋭く刺した。

……杉原? 南雲?

あの子たちが――?

現世では、特別目立つ存在じゃなかったはずの同級生。

それが今、この世界で「貴族の養子」だの「Aランク冒険者」だのと囁かれている。

……どうして? なんであの子が貴族に?

……ギルドのAランク? ありえない……私よりも……?

胸の奥で、プライドがきしむ音がした。

鎖に繋がれた自分の姿と、遠くで噂されるクラスメイトたちの栄光――その落差が、容赦なく麗華を締め付ける。

鎖が手首に食い込み、ほんの少し動くだけで金属が擦れる音が響く。

通りすがりの視線は、値踏みするような冷たさしかない。

なんで……私は奴隷で、あの子は……。

あの教室じゃ、私のほうが“上”だったのに……。

胸の奥がざらつく。

かつては見下ろしていたはずの同級生の名前が、この街では栄光とともに囁かれている。

一方の自分は――檻付きの馬車で、好奇の目にさらされる見世物だ。

どうして? 何が違うの……?

答えの出ない問いが、鎖の重さと一緒に心を押し潰していく。

荷車の影。鎖に繋がれたまま、麗華は身じろぎもできず耳だけを澄ます。

「――らしいぜ、この街に“転生者”が現れたってよ」

「貴族の養子になった少年だとか……“杉原”って名前だったか?」

「へえ。妙な知識を持っててさ、連中の間じゃちょっとした噂だ」

「あともう一人……“南雲”って少女が、ギルド登録した途端にAランクだとよ」

「本当なら化け物だな」

ふざけ半分の声。値踏みする笑い。

誰も麗華に話しかけてはいない。だが――その名が、胸を鋭く刺す。

……杉原? 南雲? どうして……。

同じ教室にいた顔が、石畳の異世界の市場で、見知らぬ栄光とともに語られている。

鎖に繋がれ、見世物にされている自分。

貴族や冒険者として称賛される同級生たち。

ここでは、あの教室の“序列”なんて通用しない。

私が上で、あの子たちが下――そんなの、何の意味もない……。

無言のまま、唇だけがわずかに震えた。

市場の喧噪は遠ざかり、鉄の首輪の冷たさだけが現実を訴えてくる。

荷車の影に漂う熱気の中、二人の商人が短く別れの言葉を交わした。

「じゃあな、また市で会おう」

軽い足音が石畳を叩き、やがて喧噪に飲まれていく。先ほどまで耳に刺さっていた会話の断片も、まるで霧が晴れるように遠ざかった。

残ったのは、奴隷市場特有のざわめき――客の声、値踏みする視線、荷車の軋む音。鼻をつく香辛料の匂いと、獣臭が入り混じって、昼下がりの空気を重たく満たしている。

麗華の周囲には、再び日常の喧騒だけが戻ってきていた。

鎖で繋がれた麗華の檻付き馬車の前を、人々が絶え間なく行き交う。

だが、誰一人として彼女に言葉をかける者はいなかった。

物珍しげに覗き込む客も、退屈しのぎに指を差す子供も――ほんの一瞬目を向けるだけで、すぐに別の見世物へと関心を移していく。

麗華は荷車の影に座り込んだまま、鎖の冷たさだけを感じていた。

動くことも、声を上げることも許されない。ただ、次に売り場へ並べられる時を待つ“商品”として置かれているだけ。

喧騒の中で、麗華だけが完全に取り残されていた。

麗華の喉がかすれ、声にならない息が漏れる。

「……どうして……私だけ……」

「……こんなところに……」

指先に力を込めて鎖を握りしめる。錆びた鉄の感触が、容赦なく現実を突きつけるだけだ。

握りしめても、爪が食い込んでも、何も変わらない。

ただ、昼下がりの奴隷市場のざわめきが無情に響いていた。

市場の喧噪は途切れず、遠くの笑い声や呼び声が耳に刺さる。

だが麗華の意識は、冷たい泥の底に沈むように静かだった。

――ここじゃ、あの教室の序列なんて関係ない。

――私が“上”だったはずなのに……。

視線の先にあるのは、檻付きの荷車の影。そこに繋がれた自分。

未来はひとつ――奴隷として並べられること。

誰にも気づかれないまま、麗華の思考は深く沈み、

昼下がりの陽射しだけが、無情に彼女の影を伸ばしていった。


昼下がりの陽射しが石畳を白く照らしていたが、麗華が押し込められているのは奴隷市場の裏手──荷車の影に止められた檻付き馬車の中だった。

陽は強いのに、ここだけは薄暗く、熱気がこもる。風はほとんど通らず、湿った埃と香辛料の匂い、それに獣の獣臭が入り混じって鼻を刺す。

市場のざわめきは途切れない。客引きの声、値切る声、獣の鳴き声……あらゆる音が混ざり合い、途方もない喧噪となって響いていた。

けれど檻の中は不自然なほど静かだ。鎖につながれたままの麗華にできることは、せいぜい外の様子をうかがうことだけだった。

昼下がりの陽射しが石畳を照り返し、熱気がじわりと肌を刺す。

奴隷市場の裏手、表通りの喧噪が届くには届くが、どこか隔絶された空気が漂っていた。

檻付きの馬車が荷車の影にひっそりと停められている。通りから見えないその場所には、香辛料の濃い匂いと、獣臭、そして鉄錆のにおいが重く淀んでいた。鼻をつく異臭は、麗華に今の自分がどこにいるのかをいやでも思い出させる。


昼下がりの陽光が容赦なく石畳を焼きつけていた。奴隷市場の裏手、荷車の影は一応の避暑になってはいるが、そこに漂う空気は決して涼しくない。香辛料の刺激臭と獣臭が入り混じり、さらに鉄の錆びた匂いが鼻を刺す。

檻付きの馬車は軋みをあげて止まっており、鎖につながれた麗華はその中で息を潜めていた。市場の表通りからは人いきれと喧噪がかすかに流れ込むが、裏手のこの場所は半端な静けさに満ちている。

太陽の光は強いのに、影はじめじめと薄暗い。そこはまるで、世界から切り離された牢獄のようだった。

荷車の影に停められた檻付き馬車の中。鎖で首を繋がれた麗華は、昼下がりの重い熱気の中でじっと身を縮めていた。

――そのとき、外から人の声がした。

「……杉原って少年、聞いたことあるか? 騎士団に入るらしいぞ」

「へぇ、無名の平民だろ? よほど腕が立つんだな」

世間話に過ぎない、気の抜けた調子。だが、麗華の心臓が跳ねる。

(……杉原? あの地味な子が……?)

檻の中で身じろぎもせず、無意識に耳を澄ます。喉がひとりでに鳴った。

「……杉原?」

無意識に、かすれた声が喉の奥から漏れた。

(あの地味な子が……?)

(学園じゃ、誰の目にも映らなかったはずなのに……)

胸の奥で、じわりとざわめきが広がる。嫌な汗が背筋を伝い、視界がきゅっと狭まるような感覚。

“私のほうが上だった”――そう信じて疑わなかった序列が、音を立てて崩れていく。

鎖の冷たさが、いまの立場を突きつける。麗華は拳を握りしめ、唇をかみ砕きそうなほど噛んだ。

檻の隙間から差し込む陽光は、容赦なく麗華の鎖を照らし出していた。鉄の輪が肌に食い込み、動くたびに鈍い痛みを訴える。

通りすがりの客が一瞥し、「珍しいな」とでも言いたげな視線を投げていく。子供でさえ好奇の目で覗き込み、すぐに飽きて去っていく。――ただの“商品”を見る目だ。

(私が“上”だったのに……)

(なんであの子が……騎士見習いなんかに……)

胸の奥で、ざらついた感情がかき混ぜられる。学園で築き上げた序列も、人気も、この世界では何の価値も持たない。

(ここでは……誰も私を知らない。カーストも、立場も……全部、意味がない……)

麗華は鎖を握りしめる。冷たい鉄が指に食い込むほど強く。けれど、現実は何ひとつ変わらない。

檻の中は、昼下がりの陽射しに焼かれて息苦しいほどだった。麗華の足首には分厚い鉄鎖が巻かれ、動くたびに鈍い痛みが走る。

通りすがりの客が、物珍しそうに一瞥しては去っていく。子供ですら遠巻きに指をさし、「ほら、奴隷だ」と笑っている。麗華はその視線を避けるように、唇を噛んだ。

――杉原が、騎士団に? 才能を認められただって?

(私が“上”だったのに……なんであの子が……)

(ここでは誰も私を知らない。カーストも、立場も……全部、意味がない……)

胸の奥で、不快なざわめきが渦を巻く。学園で見下していた“地味な同級生”が、この世界では称賛されている――その一方で、自分は鎖に繋がれ見世物だ。

麗華は檻の床に爪が食い込むほど拳を握りしめた。冷たい鉄の匂いが指先に移る。だが現実は、何ひとつ変わらない。

胸の奥で黒い感情が絡み合い、麗華の呼吸は浅くなる。

――嫉妬。

――屈辱。

――そして、言葉にならない不安。

学園で築き上げてきた序列や立場は、ここでは何の意味も持たない。優越感を支えていた土台が音を立てて崩れていく。

(私が……“上”だったはずなのに……)

(どうしてあの子が騎士団で、私は檻の中……?)

鎖の重みが、未来を予告する。

――このまま市場に並べられ、値札をつけられ、買われていくのだ。

誰かの所有物として、名前すら奪われて。

現世の価値観が砂の城のように崩れ落ちるのを、麗華ははっきりと感じていた。

胸のざわめきはもはや怒りではなく、冷たい現実への恐怖だった。

「じゃあな、また市で会おう。」

軽い声とともに、二人の商人の足音が石畳に吸い込まれていく。

裏路地に残ったのは、市場の遠いざわめきと、檻の鉄格子がきしむ音だけ。

麗華は膝を折り、鎖を握りしめた。冷たい鉄の感触が皮膚に食い込む。

(……どうして……私だけ……)

(……こんなところに……)

声にならない吐息が喉で震え、陽の光は届かない荷車の影に溶けていく。

市場のざわめきが、次に訪れる“出品の時”を無情に告げていた。

「じゃあな、また市で会おう。」

奴隷商人が軽く手を振り、二人の笑い声と足音が石畳の向こうへ遠ざかっていく。

その余韻を飲み込むように、再び市場のざわめきが満ちてきた。

呼び込みの声、荷車の軋む音、香辛料の鼻を刺す匂い――すべてが麗華のいる檻とは無関係に流れていく。

鎖の先で彼女は微動だにせず、ただ視線を落とした。

誰もこちらを見ていない。

見ていたとしても、それは一瞬だけの好奇心――“商品”を眺める視線でしかない。

檻の影に取り残された麗華は、乾いた喧噪の中で静かに息を殺した。

檻の外から、不意に怒声が飛んだ。

「おい、何を聞き耳立ててやがる!」

麗華が顔を上げる間もなく、首輪につながれた鎖が乱暴に引かれた。

喉元が締まり、息が詰まる。

「っ……!」

視界が揺れ、麗華の身体は檻の中で前のめりに倒れこむ。

膝が床板を打ち、鈍い痛みが走った。

カシャリ、と鎖が鳴り、鉄の響きが狭い車内に鋭く反射する。

胸の奥でざわめいていた感情も、息苦しさに押し潰されるようだった。

鎖を引かれた衝撃で喉を押さえたまま、麗華は荒い呼吸を繰り返す。

その様子を、通りすがりの客がちらりと覗き込んだ。

「おい見ろよ、奴隷が何か言ってるぞ」

「犬みたいに鎖につながれてやがる」

子供がくすくすと笑い、大人は鼻で笑うだけで通り過ぎていく。

一瞬の視線――それは好奇心と軽蔑だけで、同情の色などひとかけらもなかった。

馬車の中に残るのは、ひりつくような屈辱と、鎖の金属臭だけだった。

麗華は喉を押さえながら必死に言葉を探した。

「ちが……う……やめて……」――そう訴えたいのに、かすれた空気しか漏れない。

息が詰まり、胸が焼けるように痛い。唇だけが震え、声にはならない。

悔しさと恐怖が混じり、視界の端がにじむ。

鎖を握りしめて力を込めるが、硬い鉄は冷たく無情に指先を押し返すだけだった。

喉の奥が焼けつくように痛むのに、声が出ない。

「……何も……言えない……」

鎖は冷たく、首輪はただの飾りではない。

あの商人の嘲りが胸の奥でこだまする。

――そうだ。私は……。

首輪ひとつで、私は“人間じゃない”。

胸の奥で響いたその言葉は、自分の声ですらないように冷たかった。

誇りもプライドも、教室で積み上げてきた“立場”も、

音を立てて崩れ落ちていくのがわかる。

商人は麗華の方を一瞥し、不機嫌そうに吐き捨てた。

「大人しくしてろ」

鎖を乱暴に放り出すと、そのまま足音だけを響かせて立ち去っていく。

通りすがりの視線も、もう麗華には向けられない。

市場のざわめきだけが、荷車の影にぼんやりと戻ってきた。

麗華は檻の床に手をつき、震える指先を見つめた。

――何もできない。何も言えない。

鎖の冷たさが、嫌でもその現実を突きつけてくる。

陽光がかすかに揺れ、影が濃くなる。

やがて次の喧騒が訪れる前触れのように、

遠くから奴隷市の呼び声がかすかに響いてきた。


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