「頂点」に至るための足場
轟音とともに、巨体の変異種が地面へ崩れ落ちた。
その頭蓋を叩き割ったロウガの拳は血飛沫に濡れ、なおも獣のような呼吸を荒げている。
「……終わりだ」
試験官が掲げた旗が振り下ろされる。
その合図が、地獄のような試験の終結を告げた。
一瞬、誰も声を発さなかった。
戦場に広がるのは、鉄臭い血の匂いと、火薬の焦げた硝煙の残り香。
地面に散らばる死骸と、立ち尽くす受験者たち。
重苦しい沈黙が、息を呑んだように空間を支配していた。
――静寂。
その静寂を破ったのは、観客席のどよめきだった。
「……倒したのか……?」
「いや、まさか……全部、あの采配で……?」
やがて小さなざわめきは波紋のように広がり、会場全体を震わせていく。
生き残った受験者たちは、誰もが互いの顔を見合わせ、まだ実感が追いつかない。
だが、目を逸らしたい現実は一つ――。
この戦場を収めたのは、誰あろう、“奴隷”と蔑まれた少女の声だったのだ。
「……くそっ、あんな奴隷の言うことなんか、聞いてたまるか!」
血に濡れた剣を握りしめ、受験者の一人が歯ぎしりをする。
その顔は怒りと屈辱に染まっていた。
だが、彼の叫びに続く者は少なかった。
多くの受験者は唇を噛み、沈黙を守る。
心の奥底で否定できない真実が、彼らの声を奪っていた。
――麗華の指揮がなければ、自分は死んでいた。
その事実は、誰よりも彼ら自身が知っている。
独断専行した仲間は無残に倒れ、戦場から運び出されていった。
生き残った者たちは皆、奴隷の少女の冷徹な采配に命を救われたのだ。
仲間を失った者の視線は、とりわけ重かった。
憎悪と嫉妬、そして理解したくもない尊敬が入り交じる複雑な眼差しが、麗華へと突き刺さる。
そのどれもが鋭い刃となり、彼女を刻もうとする。
だが、麗華は表情ひとつ崩さず、その視線を正面から受け止めていた。
奴隷の身でありながら、戦場を制した者だけが持つ、揺るぎない静かな眼差しで。
静まり返った観覧席に、やがてざわめきが走り始めた。
「……見たか? 奴隷が、戦場を仕切っていたぞ」
「信じられん。あれがなければ、全滅していただろう」
冒険者たちが顔を見合わせ、低い声で感想を漏らす。
それは驚愕だけではない。嘲笑と否定の色を含みながらも、根底には確かな畏怖が混じっていた。
「あの冷たい眼差し……ただの奴隷じゃない。まるで戦場に取り憑かれた猛禽のようだった」
「……尋常じゃない執念だ。名前を……あの女の名前を、覚えておこう」
彼女の存在を軽んじることは、もはやできなかった。
観客の間に広がるその小さな波紋は、やがて大きなうねりへと変わっていく。
――奴隷の少女、麗華。
その名を、誰もが無意識のうちに心へ刻み込み始めていた。
戦場の余韻がまだ残る中、クラスメイトたちは互いに顔を見合わせ、押し殺すように声を漏らした。
「……ふん、奴隷のくせに出しゃばって。勝手に采配しただけだろ」
「そうだ、どうせまぐれだ。俺たちが本気を出していれば……」
嘲笑が飛ぶ。だがその声音はどこか空虚で、裏に潜む動揺を隠しきれていない。
「……でも、実際に助かったのは事実だろ……?」
「お前、まさか認めるつもりか? 奴隷の女なんかを」
否定と肯定がせめぎ合い、心は分裂していく。
助けられたという現実が、彼らの胸に重くのしかかっていた。
羨望。
劣等感。
憎悪。
複雑な感情が絡み合い、彼らは結局、声を荒げることもできず、陰口に留めるしかなかった。
それは彼ら自身が、麗華の力を無意識に認めてしまっている証でもあった。
観客席の最上段。重厚な椅子に腰を下ろしたギルド幹部たちは、戦場を睨みながら低声で言葉を交わしていた。
「……資格外の存在にしては、突出した指揮能力だな」
「まるで修羅場を幾度も潜り抜けてきた将軍の眼差しだ。奴隷の身分でなければ、即戦力として迎え入れたいところだが……」
別の幹部が、顎に手を添えて唸る。
「あれを放置すれば、いずれ派閥争いの火種になる。既存の冒険者や貴族の子弟たちにとって、あの存在は目障りでしかない」
「だが無視もできん。この資質……いずれ利用する価値があるかもしれん」
視線は自然と、無言で前方を見据える麗華の姿へと集まる。
奴隷の首輪をつけた少女――しかしその背には、誰もが認めざるを得ない「支配者の影」が差していた。
彼らの胸中で、新たな思惑が静かに動き出す。
それは麗華にとって、栄光か破滅か、まだ誰も知ることのない未来の分岐点だった。
歓声とも嘲笑ともつかぬざわめきが闘技場を覆っていた。
観客席からは畏怖の混じった声、仲間の中には悔しげな吐き捨て、そして幹部たちは密やかな思惑を巡らせている。
――だが、麗華の表情は微動だにしなかった。
冷たく張り詰めた眼差しで前を見据え、ただ静かに立ち尽くす。
心の奥で、誰にも聞こえぬ声が響く。
(……これで一歩。私は這い上がる。この首輪も、檻も、すべて打ち砕く。その先にあるのは――頂点。ただそれだけ)
唇は震えず、眼差しも揺れない。
けれどその胸中には、燃え盛る炎のような執念が確かに息づいていた。
奴隷の少女ではなく――未来を切り開く支配者としての影を、観る者すべてに無意識のうちに刻みつけながら。
血と土の匂いがまだ漂う闘技場に、妙な沈黙が落ちていた。
奴隷という烙印を抱えながら、戦場を支配した少女。
その存在感は、誰もが口にしたくても言葉にできぬほど異質だった。
観客の目は三つに分かれる。
――悔しさを隠せず、憎悪の視線を向ける者。
――底知れぬ執念に気圧され、ただ畏怖を覚える者。
――そして、あの瞳の奥に潜む何かを見抜こうとする好奇の者。
いずれの感情も、すべてが麗華という一点に収束していた。
石造りの天井から落ちる影が、彼女の背を長く引き延ばす。
まるで舞台が暗転するかのように、闘技場の空気は重く沈み込み――
こうして、奴隷の少女が刻んだ「異質の証」は、昇格試験という舞台の幕を閉じながら、確かに人々の心に残された。
巨躯のオーガが咆哮し、戦場を震わせた。
その正面に立ちはだかるのは、ただ一人。
「うおおおおおッ!!」
ロウガが獣の咆哮にも似た叫びをあげ、全身の筋肉を爆ぜさせるように突進する。
その動きはまさしく猛獣。鋼のような腕が振り下ろされるたび、オーガの骨が軋み、血飛沫が宙を舞った。
受験者たちは思わず息を呑む――その豪腕と速度は、人の域を逸していた。
だが、その獣を「矛」として操る声があった。
「左脚を狙って! 膝を砕けば動きは止まる!」
「次、後衛は一斉に射撃! ――今よ!」
麗華の指示は冷徹で、迷いがなかった。
その声は、戦場に響くたびに兵を動かす軍師の号令のように、確かな秩序を刻み込む。
ロウガは言われた通り、変異種の膝に渾身の拳を叩き込み、巨体がぐらりと傾ぐ。
すかさず後衛の魔法弾と矢が集中し、肉を裂き、悲鳴を上げる。
彼女の視線は氷の刃のように鋭い。
それは奴隷の首輪をつけた女ではなく――まさしく戦場を支配する指揮官の眼差しだった。
観客席の冒険者たちが、ざわつきを抑えきれず声を漏らす。
「……なんで奴隷が指揮を……」
「だが、あの采配がなければ全滅していたぞ」
ギルド幹部は顎に手を当て、瞳に冷たい光を宿した。
「恐ろしく冷静だ。まるで……戦場を知る者の目だ」
その瞬間、麗華という存在はただの「奴隷」ではなく、戦場を震わせる異質の核として刻まれた。
試験の終了を告げる鐘の音が、広間に鈍く響き渡った。
次の瞬間、空気が弾ける。観衆のざわめき、仲間たちの安堵や落胆の声が、渦となって麗華の周囲を取り巻いた。
だが――彼女は、微動だにしない。
無数の声は、耳に届いているはずだった。勝敗を論じる声、驚嘆を叫ぶ声、そして恐怖を隠せぬ小さな悲鳴。
それらすべてを、麗華は冷ややかに切り捨てるように沈黙で受け止めた。
彼女の顔に浮かぶのは、ただの「無表情」。
だが、その無機質なまでの静けさこそ、誰よりも異様な存在感を際立たせていた。
視線は前だけを射抜く。
終わったばかりの試験の結果にも、取り巻く喧騒にも、一切揺らぐことなく。
――(これで一歩……這い上がる。この檻を壊す。そして、必ず頂点に――)
胸中に燃える炎は、外から見ればただの冷たい仮面。
しかし、その奥底に潜む執念だけが、彼女の眼差しに硬質な光を宿していた。
観衆は誰ひとり、軽々しく彼女に近づこうとしない。
静止したその視線は、もはや同じ「受験者」のものではなかった。
試験を越え、もっと大きな何かへと向かう――その片鱗を、誰もが直感していた。
鐘の音が消えると同時に、広間を満たすのは渦巻くざわめきだった。
「奴隷がでしゃばりやがって」
「だが……あの采配は本物だ」
「助かったのは事実だ……」
嘲笑と畏怖、そして動揺。
三者三様の声が重なり合い、波のように押し寄せる。
だが――麗華の目には、それはただの濁流にすぎなかった。
(……くだらない)
冷えきった心の声が、喧騒を一刀のもとに切り捨てる。
その耳には確かに届いている。
けれど、何一つ価値ある響きではない。
彼女にとって必要なのは、ただ「頂点」に至るための足場だけ。
それ以外の言葉は、無意味な雑音に過ぎない。
麗華は微動だにせず、前を見据える。
周囲の人々がどう騒ごうと、その眼差しが揺らぐことはなかった。
――観衆の中には、ぞくりと背筋を冷やす者もいた。
笑い飛ばしたはずなのに、次の瞬間には口をつぐんでいた。
「無表情」――その仮面の奥に潜む執念を、誰も正面から見据えることができなかったからだ。




