自分の力で生き残れるように
地を這うような低い唸りが、麗華の背筋を凍らせた。
振り返るよりも早く、視界に銀色の牙が飛び込んでくる。
――来る。
心臓が大きく跳ね、鼓動の音が世界を埋め尽くす。
狼の跳躍は鮮やかで、空気を裂く風圧さえ頬に感じられた。
剣を握る手は震えているのに、肝心の体はまるで縫い止められたかのように動かない。
足に力を込めろと叫ぶのに、膝は言うことを聞かず、重く沈んでいる。
時間が、伸びた。
目の前に広がるのは、ただ迫りくる巨大な牙。
反射も防御も何一つできない――。
(……体が……動かない!)
恐怖に縛られたまま、麗華は狼の影に飲み込まれようとしていた。
牙が麗華の喉元に食い込む――その瞬間。
鋭い影が視界を横切った。
「おいっ!」
地を蹴ったロウガが、間一髪で割り込む。
伸ばした脚がうなりを上げ、飛びかかる狼の腹を正確に捉えた。
ドガッ――!
鈍い衝撃音と共に、狼の巨体が弾き飛ばされる。
空中を回転し、背から木に叩きつけられた獣は、そのまま力なく崩れ落ち、二度と動かなかった。
「危なっかしいな……まだ死ぬなよ!」
狼を蹴り飛ばした姿勢のまま、ロウガが荒い息で吐き捨てる。
麗華は目を見開き、ただその背中を見上げるしかなかった。
胸の奥で、心臓が爆ぜるように脈打つ。
麗華は胸元を押さえた。
荒い呼吸の下で、心臓が喉までせり上がってくる。
――ドクン、ドクン。
鼓動がやけに大きく響き、耳の奥で反響する。
(……また……守られてるだけ……!)
目の前で暴れ回るロウガの背中が、余計にその思いを突きつけてくる。
巨斧を振るうたび、血と土煙が舞い、敵が吹き飛ぶ。
その隣で、自分は剣を握り締めたまま立ち尽くすしかない。
(このままじゃ……私は、足手まといのままじゃ……!)
唇を噛み、剣を握る指に力を込める。
震える腕が、自分の無力さを否応なく訴え続ける。
けれど――諦めるわけにはいかなかった。
麗華は震える手で剣を握り直した。
汗で滑りそうになる柄を、指先が必死に食い込むように押さえ込む。
足はまだ震えている。それでも――膝を折らず、必死に前へと向き直った。
(……生き残りたいなら、戦うしかない……!)
胸の奥で渦巻く恐怖を押し殺し、視線を狼へと固定する。
逃げることも、守られるだけで終わることも、もうごめんだ。
剣先がわずかに揺れる。だがその刃先は、確かに敵へ向けられていた。
麗華の剣筋は、まだ不格好だった。
呼吸も荒く、手の震えも止まらない。
だが――その瞳の奥には、確かな光が宿り始めていた。
弱さに押し潰されそうになりながらも、それでも前に立つという意志。
それは、守られるだけの少女ではなく、“戦う冒険者”へと変わろうとする兆しだった。
唸り声を上げて再び円を描く狼たち。
ロウガは巨斧を肩に担ぎ直し、口の端を吊り上げる。
麗華は震える息を整え、剣を構え直す。
戦場の空気が、再び張り詰めた。
次の一撃――その瞬間が、二人にとっての転換点になる。
森の奥――戦いの余韻だけが残る。
地面には無数の狼の死骸が横たわり、踏み荒らされた落ち葉と泥に赤黒い血が染み込んでいた。
鉄の匂いと湿った土の臭気が入り混じり、息をするだけで喉が焼けつくようだ。
さっきまで唸り声と咆哮が渦巻いていた森は、嘘のように静まり返っている。
木々の隙間から差し込む光はどこか冷たく、ただ風が死体を撫でる音だけが耳に残った。
――カァアア……。
遠くで一羽のカラスが鳴く。
その声が、戦いの終わりを告げる鐘の音のように響き渡った。
ロウガは肩で息をしながらも、その巨体を揺らすように大斧を担ぎ直した。
額には汗がにじんでいるはずなのに、疲労の色よりも、どこか狩りを終えた獣のような満足感が滲んでいる。
「ふぅ……片付いたな!」
豪快な笑みと共に放たれた声は、血と死臭に満ちた空間に不思議と明るさを与える。
まるで惨状すら、彼にとっては爽快な狩りの成果に過ぎないとでも言うように。
麗華が悔しさに唇を噛みしめていると、不意に肩にずしりとした感触が落ちた。
ロウガの大きな手だ。荒々しい戦士の手つきなのに、その一撃は不思議と温かい。
「戦えるようになるまで、俺が守ってやる」
豪快な声色なのに、そこにはからかいも見下しもない。
ただまっすぐな信頼と、同じ道を歩む仲間としての覚悟が宿っていた。
「相棒なんだからな」
何気ない一言――しかし麗華の胸に響いたのは、重い鎖を断ち切るような力強さだった。
ロウガの言葉に、麗華は一瞬だけ息を呑んだ。
胸の奥に熱いものが込み上げ、視線が自然と足元へと落ちる。
握る剣は震えたまま――だが、その震えは恐怖だけではなかった。
ゆっくりと、彼女は拳を握り直す。
(必ず……強くなる)
(守られてるだけの私じゃなく、自分の力で生き残れるように……!)
その誓いは、まだ小さな灯火に過ぎない。
だが確かに、麗華の心に“逆襲の炎”が宿り始めていた。
木々の隙間から差し込む柔らかな陽光が、静まり返った森を淡く照らす。
戦いの痕跡を包み込むように、光は温かく地面へと降り注いでいた。
その中を歩き出す二人の影が、並んで長く伸びていく。
まだ頼りなく、今にも揺らいで消えてしまいそうな影。
けれど――それは確かに、“冒険者としての第一歩”を刻んでいた。




