おい、まだ死ぬんじゃねぇぞ!
森に足を踏み入れた瞬間、空気の色が変わった。
昼下がりの陽光は木々の枝葉に遮られ、差し込む光はまるで細い糸のように途切れ途切れ。昼間のはずなのに、森の奥は深い影に覆われ、湿り気を帯びた土と落ち葉の匂いが鼻を突いた。
足元には、踏みしめるたびにしっとりと沈む落ち葉の絨毯。耳を澄ませば、どこか遠くから低い唸り声が漏れてくる。獣が、こちらを待ち構えている――そんな予感が空気に混じっていた。
麗華は小さく息を呑む。
(……これが、討伐の現場……)
背筋に冷たいものが走り、心臓の鼓動が早まる。だが、彼女は震えそうになる指を剣の柄に添え、ぎゅっと握りしめた。逃げ道を探すような弱気を振り払い、前だけを見据える。
冒険者としての第一歩は、すでに始まっていた。
草むらがガサリと揺れた。
瞬間、薄暗い森の闇に――ぎらりと光る黄色い眼。ひとつ、ふたつ。ぞろぞろと現れる影はすぐに数頭となり、やがて十数頭もの狼が姿を現す。濡れた毛並みを逆立て、低い唸り声を響かせながら、円を描くように二人を取り囲んでいく。
その殺気は、森の空気そのものを震わせた。
麗華の喉がひゅっと鳴り、思わず後ずさりそうになる。だが、その隣で――
「おお、歓迎が手厚ぇな!」
ロウガは獰猛な笑みを浮かべ、むしろ楽しげに前へと踏み出した。大斧を肩に担ぎ、その姿は狩られる獲物ではなく、まるで狩りを楽しむ獣そのもの。
「さぁ、狩りの始まりだ!」
彼の声が、森の中に響き渡った瞬間、狼たちの牙が一斉に閃いた。
轟ッ――!
ロウガの巨斧が唸りを上げ、唸り声と共に迫ってきた狼をまとめて薙ぎ払った。重い一撃が大地を震わせ、二匹、三匹と獣たちが弾き飛ばされる。
土煙が舞い上がり、血の鉄臭い匂いが鼻を突く。それでもロウガは眉一つ動かさず、いや、むしろ口元を大きく吊り上げた。
「ハッハァ! いいぞ、もっと来い!」
斧を担ぎ直し、突っ込んでくる群れに真正面からぶつかる。狼の牙も爪も恐れず、ただ圧倒的な膂力と闘志で押し切っていく姿は、まるで戦場そのものを楽しむ獣。
周囲に広がるのは恐怖ではなく、豪快さと力強さ。
ロウガにとって戦いは危険ではなく――何よりの娯楽だった。
麗華も遅れて腰の剣を抜いた。
だが――。
「っ……重っ……!」
思わず喉の奥から声が漏れる。想像していたよりはるかに刀身は重く、腕に力を込めても振りが鈍い。呼吸が乱れ、踏み込みは浅く、狙った軌道から外れて地面を掠めただけ。
ガキンッ――!
狼の牙が間近に迫る。避けきれず、剣を振り抜いた反動で体勢が崩れる。足元の落ち葉に滑り、腰が後ろへ落ちそうになった。
(……こんなの、当たるわけ……! 私は……足手まとい……!)
胸の奥で悔しさが熱を帯びる一方、冷たい恐怖が背筋を走った。隙を晒した自分に、狼が今まさに飛びかかろうとしていた。
牙が目前に迫る――。
狼の喉奥から響く唸り声と共に、麗華の視界いっぱいに牙が広がった。
(あ……来る――!)
時間が引き延ばされたように、動けない。剣を持つ腕は力なく震え、足も地面に縫いつけられたかのように動かない。
その瞬間――。
「おい、まだ死ぬんじゃねぇぞ!」
豪快な声とともに、視界を覆う影。ロウガが割り込んできた。
ドゴォッ!
彼の足が一直線に伸び、飛びかかった狼の顎を捉える。獣の体が宙を舞い、木の幹に叩きつけられて呻き声を上げた。
血の匂いと土煙の中、ロウガは肩越しに麗華を振り返る。牙の危機などものともせず、豪快に笑みを浮かべていた。
ロウガの蹴り飛ばした狼が木の根元に崩れ落ちると同時に、別の獣たちが低い唸り声を響かせながら飛びかかってきた。
「ハッ、次はどいつだ!」
ロウガは巨斧を大きく振り上げ、迫り来る影をまとめて薙ぎ払う。轟音とともに血飛沫が散り、獣たちの断末魔が森に木霊する。その豪快な戦いぶりに、群れ狼ですら一瞬たじろぐほどだった。
一方、麗華は――。
震える両手で剣を構えるものの、一歩も踏み出せない。目の前に迫る狼の気配に、ただ心臓の鼓動だけが耳を打ち続ける。
(……また守られてる……!)
(何もできてない! このままじゃ、私は……足手まといのままじゃ……!)
喉が焼けつくように乾き、体は鉛のように重い。それでも彼女の視線だけは、血煙の向こうで獰猛な笑みを浮かべるロウガの背中を追い続けていた。




