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奴隷令嬢、最強への成り上がり  作者: 南蛇井


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14/50

この男に鎖を渡したら、終わりだ

部屋の静寂を破るものはない。

外の風が窓をわずかに揺らす音と、ランプの炎がしゅうと吐く微かな息だけが、耳にやけに大きく響いていた。

麗華の指先が、机の上でひときわ鋭く動いた。

無造作に転がっていた炭筆を取り上げ、紙片の端をなぞる。

かすかな擦過音が、まるで耳元で鳴ったかのように妙に大きく響く。

胸の奥では、嫌悪と生きたいという本能がせめぎ合っていた。

「頼るなんて……」と吐き捨てたい衝動と、それでも動かなければ終わるという現実が、心を押し潰すように交錯する。

視線は紙の上を鋭く走り、散らばった情報を睨みつけるように追う。

気づけば炭筆の先が候補者たちの特徴を次々と書き留めていた。

文字は不揃いで荒いが、そこには迷いの中に芽生えた“選別”の意思が刻まれていた。

炭筆の先が、紙片の上を迷いなく走った。

──ジーク(打算)、ダリオ(誠実?)、カイル(策士)、ロウガ(単純)。

名前の横に短い特徴を殴り書きしていくたび、紙がかすかに沈み、先端が擦れる音が部屋に鋭く響く。

その音はただの記録ではなく、まるで「決断」を一画ずつ刻みつける音のように麗華の耳に届いた。

胸の奥に重くのしかかっていた焦燥は、まだ消えない。だが、炭筆を動かす手が止まることはなかった。

偽装の主人役──選ばなければ、生き残れない。

書き殴られた紙片は荒れた文字で埋まり、そこに麗華の迷いと意志がそのまま刻み込まれていった。

炭筆の先が、ためらいなく紙片の中央に滑り込む。

力強く刻まれた二文字──「主人役」。

その瞬間、ランプの炎がしゅっと揺らぎ、机の上に長い影が奔った。赤みを帯びた光が紙面を照らし、その文字がまるで血に染まったかのように浮かび上がる。

胸の奥に巣くう迷いは消えていない。だが、その迷いの底に、確かに“動こうとする意志”が芽を出していた。

炭筆を握る指先に汗がにじむ。紙片の上で二文字が、不吉な光に脈打つように見えた。

──これで、逃げ道はなくなった。

ランプの炎に赤く照らされた「主人役」の文字だけが、静かな部屋で不気味な存在感を放っていた。




夜の路地裏は、雨の名残をまとってしっとりと濡れていた。

石畳に落ちる街灯の橙色の光が、水たまりでゆらりと揺れ、まるで街全体が息を潜めているかのようだ。

軒先の窓には明かりひとつなく、人気も気配もない。

遠くから酒場の笑い声がかすかに届くが、この狭い路地までは届かず、ただ静寂だけが支配していた。

路地裏には、不気味な静けさが満ちていた。

耳を澄ませば、はるか遠くで酒場の喧騒がかすかに揺れて聞こえる。しかしこの場所までは届かず、ただ冷たい風だけが石畳を撫でていく。

風が水たまりの表面を震わせ、橙色の街灯の光が細かく砕けて揺れた。

足音をひとつでも立てれば、たちまちこの沈黙を裂いてしまいそうな──そんな張りつめた緊張が路地を満たしていた。

麗華は呼び出された路地裏へ向かいながら、自然と歩幅を狭めていた。

濡れた石畳に足音が吸い込まれていく──はずだったが、水たまりを踏むたびに、小さな波が広がる音が自分の足元から確かに響く。

胸の奥がざわつく。

……気取られたくない。けど、音がやけに大きい……

背筋を這う冷たい空気に、警戒心がさらに研ぎ澄まされていく。

麗華の視線が、闇に沈んだ路地を素早く走る。

濡れた石畳を縁取る建物の影──積まれた木箱──無造作に転がる麻袋──。

……潜んでいる者はいないか……

ひとつひとつを射抜くように確認しながら進む。

街灯の橙光がわずかににじみ、影が不規則に揺れるたびに、胸の鼓動が速くなる。

胸の奥に、冷たいものが張りついたまま離れない。

来るはずだ……けど、信用できる相手じゃない。

足を進めるたび、その声が脳裏で反響する。

なぜ呼び出してしまったのか──微かな後悔が、夜気より重く肩にのしかかる。

街灯の橙光が濡れた石畳ににじみ、麗華の影だけが頼りなく揺れていた。

かす、かす、と規則正しく響く革靴の音。

濡れた石畳がその一歩ごとに低く応える。

闇の奥からゆっくりと近づいてくる気配──声はない。

誰なのかはわかっているはずなのに、姿が見えるまで一言も発さないその沈黙が、かえって不気味さを増幅させていた。

かす、かす……濡れた石畳を踏む革靴の音が闇の奥から近づいてくる。

声をかけるでもなく、ただ無言で歩み寄る足音だけが響く。

街灯のにじむ橙色の光に、その輪郭がゆっくり浮かび上がる。

ランプも持たず、影に溶けた男の口元には薄い笑み。

瞳だけがぎらりと光を返し、夜気の冷たさを一層際立たせた。

麗華は反射的に肩を強張らせる。

「……やっぱり来た」

胸の奥に生まれたのは安堵ではない。

嫌悪と警戒──その二つが鋭い棘となって心を刺す。

濡れた石畳が、ジークの足取りに合わせてかすかに鳴った。

一歩進むごとに路地の闇が押し広げられ、麗華の目がその輪郭を捉えていく。

薄笑いの形が、街灯の滲む光の中で徐々に鮮明になる。

「……来てくれたか」

低く呟く声が湿った空気を切り裂いた。

麗華は返事をせず、ただ顎をわずかに引いて頷く。

その仕草だけで、これから始まるやり取りの重さが伝わる──

交渉はまだ口火を切られていないのに、すでに息苦しい緊張が路地を満たしていた。

濡れた路地に、二人だけの声が落ちる。

「協力してやってもいいが──見返りは当然だ。」

ジークの声は驚くほど柔らかい。だがその奥底には、鈍い刃のような響きが潜んでいる。

麗華は返さない。ただじっと睨み返すだけ。沈黙が、湿った空気に重く貼りついた。

「金でも情報でもいい。……ああ、ついでに少し“運んで”ほしい物があってね。」

口元は笑っているのに、瞳だけが冷たく光る。濡れた石畳に街灯の光が揺れ、その目の反射が不気味に煌めいた。

「君の計画にとっては、悪い話じゃないだろ?」

言葉が途切れる。路地裏の静寂がふたたび支配し、返事を強いるような間が生まれる。

水滴の落ちる音さえ響くほどの沈黙。麗華の胸がひりついた。

ジークの瞳が、濡れた石畳に反射する街灯の光を鋭く弾いた。

口元には余裕の笑みが浮かんでいる──だが、その目はひとかけらも笑っていない。

油断ならない光。取引を餌にして相手を絡め取る、狡猾さそのもの。

麗華の背筋を冷たいものが這い上がる。胸の奥で警鐘が鳴った。

――この男に鎖を渡したら、終わりだ

ジークはそれ以上言葉を重ねず、ただ視線だけで圧をかけてきた。

夜気が張りつめ、濡れた路地の匂いまで重く感じられる。

麗華は冷ややかに目を逸らし、短く吐き捨てるように答えた。

「……取引はしない」

踵を返そうとした瞬間、背後から気怠げな声が追いかけてくる。

「気が変わったら──いつでも呼んでくれ」

街灯の光が揺れ、石畳に落ちた影が歪む。

その一言が胸の奥に棘のように残り、静寂の中で不気味な余韻だけが響いた。

――この男に首輪を渡したら終わりだ。

胸の奥で、氷の棘のような声が突き刺さる。

協力だと? 違う。

こいつは、鎖を差し出すふりをして、それごと奪い取るつもりだ……。

言葉にはしない。だが、心の奥底で警鐘が鳴り響いていた。

背筋を伝う冷たいものは雨の名残ではない。不信が、もう限界まで膨れ上がっている証だった。


麗華はじっとジークの視線を受け止めた。

その眼差しの奥に潜む狡猾さを見抜きながら、静かに一歩後ろへ退く。

肺にたまった息を細く吐き出し、胸の緊張を押し下げると、冷ややかな声が夜気に溶けた。

「結構よ。他をあたって。」

その言葉には一切の揺らぎがない。

拒絶の意志を、はっきりと突きつける強さだけがそこにあった。

麗華が一歩退いた瞬間、足元の水たまりが小さく揺れた。

そのさざ波が街灯の橙色を乱反射させ、路地全体がわずかに歪んで見える。

ジークの口元に浮かぶ余裕の笑みも、その揺らぎの中で変化した。

ほんの刹那、笑みは凍りついたように鋭く、冷たい牙を覗かせる。

だが次の瞬間には、何事もなかったかのように狡猾な薄笑いへと戻る。

──まるで最初から、冷たさなど存在しなかったと錯覚させるように。

麗華はきっぱりと拒絶の言葉を残し、踵を返した。

湿った石畳に足音が響くたび、胸の奥にまだざらついた緊張が残る。

背を向けたその瞬間、背後から視線が突き刺さった。

ジークが追いかけてくる気配はない。だが──ただ無言で、彼女の後ろ姿を射抜くように見つめている。

口元は笑ったまま、何かを言いかけて飲み込んだように。

その仕草は、彼が次に動くときの危険な予兆であり、麗華の中で冷たい警鐘となって鳴り響いた。

──「この男と再び交われば、必ず火種になる」。

路地裏に残った湿った空気が、その確信をさらに濃くしていた。

「強情なお嬢さんだ……」

去り際、ジークの声が湿った路地に低く響いた。

「でも、気が変わったらいつでも来な。……“鎖”ってのは、見せびらかすだけでも価値があるもんだよ?」

意味深に放たれた言葉が、背後から絡みつくように麗華の耳に残る。

ぞわりと背筋に寒気が走った。

──あれは人の味方を装う蛇だ……。

喉の奥で吐息を押し殺し、麗華は踵を返して足早に路地を後にする。濡れた石畳を踏みしめるたび、心拍がいやに大きく響いた。

背後から低い口笛が追いかけてくる。軽やかで、あざけるような旋律。

だが麗華は決して振り返らない。ただ前だけを見据え、闇を抜けるように歩みを早めた。

路地の奥、街灯の薄明かりから外れた瞬間──ジークの姿は闇に吸い込まれるように消えた。

石畳には、雨に濡れた革靴の足跡だけが鮮やかに残されている。

絶対に関わっちゃいけない相手……。

胸の奥でそう呟いた瞬間、心臓がさらに強く脈打った。

安堵ではない。むしろ焦燥。

「別の候補を探すしかない」──その強い意志が、動揺を押し下げるように芽生える。

信頼できる“主人役”を求める必要性が、これまで以上に鋭く突きつけられていた。


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