この男に鎖を渡したら、終わりだ
部屋の静寂を破るものはない。
外の風が窓をわずかに揺らす音と、ランプの炎がしゅうと吐く微かな息だけが、耳にやけに大きく響いていた。
麗華の指先が、机の上でひときわ鋭く動いた。
無造作に転がっていた炭筆を取り上げ、紙片の端をなぞる。
かすかな擦過音が、まるで耳元で鳴ったかのように妙に大きく響く。
胸の奥では、嫌悪と生きたいという本能がせめぎ合っていた。
「頼るなんて……」と吐き捨てたい衝動と、それでも動かなければ終わるという現実が、心を押し潰すように交錯する。
視線は紙の上を鋭く走り、散らばった情報を睨みつけるように追う。
気づけば炭筆の先が候補者たちの特徴を次々と書き留めていた。
文字は不揃いで荒いが、そこには迷いの中に芽生えた“選別”の意思が刻まれていた。
炭筆の先が、紙片の上を迷いなく走った。
──ジーク(打算)、ダリオ(誠実?)、カイル(策士)、ロウガ(単純)。
名前の横に短い特徴を殴り書きしていくたび、紙がかすかに沈み、先端が擦れる音が部屋に鋭く響く。
その音はただの記録ではなく、まるで「決断」を一画ずつ刻みつける音のように麗華の耳に届いた。
胸の奥に重くのしかかっていた焦燥は、まだ消えない。だが、炭筆を動かす手が止まることはなかった。
偽装の主人役──選ばなければ、生き残れない。
書き殴られた紙片は荒れた文字で埋まり、そこに麗華の迷いと意志がそのまま刻み込まれていった。
炭筆の先が、ためらいなく紙片の中央に滑り込む。
力強く刻まれた二文字──「主人役」。
その瞬間、ランプの炎がしゅっと揺らぎ、机の上に長い影が奔った。赤みを帯びた光が紙面を照らし、その文字がまるで血に染まったかのように浮かび上がる。
胸の奥に巣くう迷いは消えていない。だが、その迷いの底に、確かに“動こうとする意志”が芽を出していた。
炭筆を握る指先に汗がにじむ。紙片の上で二文字が、不吉な光に脈打つように見えた。
──これで、逃げ道はなくなった。
ランプの炎に赤く照らされた「主人役」の文字だけが、静かな部屋で不気味な存在感を放っていた。
夜の路地裏は、雨の名残をまとってしっとりと濡れていた。
石畳に落ちる街灯の橙色の光が、水たまりでゆらりと揺れ、まるで街全体が息を潜めているかのようだ。
軒先の窓には明かりひとつなく、人気も気配もない。
遠くから酒場の笑い声がかすかに届くが、この狭い路地までは届かず、ただ静寂だけが支配していた。
路地裏には、不気味な静けさが満ちていた。
耳を澄ませば、はるか遠くで酒場の喧騒がかすかに揺れて聞こえる。しかしこの場所までは届かず、ただ冷たい風だけが石畳を撫でていく。
風が水たまりの表面を震わせ、橙色の街灯の光が細かく砕けて揺れた。
足音をひとつでも立てれば、たちまちこの沈黙を裂いてしまいそうな──そんな張りつめた緊張が路地を満たしていた。
麗華は呼び出された路地裏へ向かいながら、自然と歩幅を狭めていた。
濡れた石畳に足音が吸い込まれていく──はずだったが、水たまりを踏むたびに、小さな波が広がる音が自分の足元から確かに響く。
胸の奥がざわつく。
……気取られたくない。けど、音がやけに大きい……
背筋を這う冷たい空気に、警戒心がさらに研ぎ澄まされていく。
麗華の視線が、闇に沈んだ路地を素早く走る。
濡れた石畳を縁取る建物の影──積まれた木箱──無造作に転がる麻袋──。
……潜んでいる者はいないか……
ひとつひとつを射抜くように確認しながら進む。
街灯の橙光がわずかににじみ、影が不規則に揺れるたびに、胸の鼓動が速くなる。
胸の奥に、冷たいものが張りついたまま離れない。
来るはずだ……けど、信用できる相手じゃない。
足を進めるたび、その声が脳裏で反響する。
なぜ呼び出してしまったのか──微かな後悔が、夜気より重く肩にのしかかる。
街灯の橙光が濡れた石畳ににじみ、麗華の影だけが頼りなく揺れていた。
かす、かす、と規則正しく響く革靴の音。
濡れた石畳がその一歩ごとに低く応える。
闇の奥からゆっくりと近づいてくる気配──声はない。
誰なのかはわかっているはずなのに、姿が見えるまで一言も発さないその沈黙が、かえって不気味さを増幅させていた。
かす、かす……濡れた石畳を踏む革靴の音が闇の奥から近づいてくる。
声をかけるでもなく、ただ無言で歩み寄る足音だけが響く。
街灯のにじむ橙色の光に、その輪郭がゆっくり浮かび上がる。
ランプも持たず、影に溶けた男の口元には薄い笑み。
瞳だけがぎらりと光を返し、夜気の冷たさを一層際立たせた。
麗華は反射的に肩を強張らせる。
「……やっぱり来た」
胸の奥に生まれたのは安堵ではない。
嫌悪と警戒──その二つが鋭い棘となって心を刺す。
濡れた石畳が、ジークの足取りに合わせてかすかに鳴った。
一歩進むごとに路地の闇が押し広げられ、麗華の目がその輪郭を捉えていく。
薄笑いの形が、街灯の滲む光の中で徐々に鮮明になる。
「……来てくれたか」
低く呟く声が湿った空気を切り裂いた。
麗華は返事をせず、ただ顎をわずかに引いて頷く。
その仕草だけで、これから始まるやり取りの重さが伝わる──
交渉はまだ口火を切られていないのに、すでに息苦しい緊張が路地を満たしていた。
濡れた路地に、二人だけの声が落ちる。
「協力してやってもいいが──見返りは当然だ。」
ジークの声は驚くほど柔らかい。だがその奥底には、鈍い刃のような響きが潜んでいる。
麗華は返さない。ただじっと睨み返すだけ。沈黙が、湿った空気に重く貼りついた。
「金でも情報でもいい。……ああ、ついでに少し“運んで”ほしい物があってね。」
口元は笑っているのに、瞳だけが冷たく光る。濡れた石畳に街灯の光が揺れ、その目の反射が不気味に煌めいた。
「君の計画にとっては、悪い話じゃないだろ?」
言葉が途切れる。路地裏の静寂がふたたび支配し、返事を強いるような間が生まれる。
水滴の落ちる音さえ響くほどの沈黙。麗華の胸がひりついた。
ジークの瞳が、濡れた石畳に反射する街灯の光を鋭く弾いた。
口元には余裕の笑みが浮かんでいる──だが、その目はひとかけらも笑っていない。
油断ならない光。取引を餌にして相手を絡め取る、狡猾さそのもの。
麗華の背筋を冷たいものが這い上がる。胸の奥で警鐘が鳴った。
――この男に鎖を渡したら、終わりだ
ジークはそれ以上言葉を重ねず、ただ視線だけで圧をかけてきた。
夜気が張りつめ、濡れた路地の匂いまで重く感じられる。
麗華は冷ややかに目を逸らし、短く吐き捨てるように答えた。
「……取引はしない」
踵を返そうとした瞬間、背後から気怠げな声が追いかけてくる。
「気が変わったら──いつでも呼んでくれ」
街灯の光が揺れ、石畳に落ちた影が歪む。
その一言が胸の奥に棘のように残り、静寂の中で不気味な余韻だけが響いた。
――この男に首輪を渡したら終わりだ。
胸の奥で、氷の棘のような声が突き刺さる。
協力だと? 違う。
こいつは、鎖を差し出すふりをして、それごと奪い取るつもりだ……。
言葉にはしない。だが、心の奥底で警鐘が鳴り響いていた。
背筋を伝う冷たいものは雨の名残ではない。不信が、もう限界まで膨れ上がっている証だった。
麗華はじっとジークの視線を受け止めた。
その眼差しの奥に潜む狡猾さを見抜きながら、静かに一歩後ろへ退く。
肺にたまった息を細く吐き出し、胸の緊張を押し下げると、冷ややかな声が夜気に溶けた。
「結構よ。他をあたって。」
その言葉には一切の揺らぎがない。
拒絶の意志を、はっきりと突きつける強さだけがそこにあった。
麗華が一歩退いた瞬間、足元の水たまりが小さく揺れた。
そのさざ波が街灯の橙色を乱反射させ、路地全体がわずかに歪んで見える。
ジークの口元に浮かぶ余裕の笑みも、その揺らぎの中で変化した。
ほんの刹那、笑みは凍りついたように鋭く、冷たい牙を覗かせる。
だが次の瞬間には、何事もなかったかのように狡猾な薄笑いへと戻る。
──まるで最初から、冷たさなど存在しなかったと錯覚させるように。
麗華はきっぱりと拒絶の言葉を残し、踵を返した。
湿った石畳に足音が響くたび、胸の奥にまだざらついた緊張が残る。
背を向けたその瞬間、背後から視線が突き刺さった。
ジークが追いかけてくる気配はない。だが──ただ無言で、彼女の後ろ姿を射抜くように見つめている。
口元は笑ったまま、何かを言いかけて飲み込んだように。
その仕草は、彼が次に動くときの危険な予兆であり、麗華の中で冷たい警鐘となって鳴り響いた。
──「この男と再び交われば、必ず火種になる」。
路地裏に残った湿った空気が、その確信をさらに濃くしていた。
「強情なお嬢さんだ……」
去り際、ジークの声が湿った路地に低く響いた。
「でも、気が変わったらいつでも来な。……“鎖”ってのは、見せびらかすだけでも価値があるもんだよ?」
意味深に放たれた言葉が、背後から絡みつくように麗華の耳に残る。
ぞわりと背筋に寒気が走った。
──あれは人の味方を装う蛇だ……。
喉の奥で吐息を押し殺し、麗華は踵を返して足早に路地を後にする。濡れた石畳を踏みしめるたび、心拍がいやに大きく響いた。
背後から低い口笛が追いかけてくる。軽やかで、あざけるような旋律。
だが麗華は決して振り返らない。ただ前だけを見据え、闇を抜けるように歩みを早めた。
路地の奥、街灯の薄明かりから外れた瞬間──ジークの姿は闇に吸い込まれるように消えた。
石畳には、雨に濡れた革靴の足跡だけが鮮やかに残されている。
絶対に関わっちゃいけない相手……。
胸の奥でそう呟いた瞬間、心臓がさらに強く脈打った。
安堵ではない。むしろ焦燥。
「別の候補を探すしかない」──その強い意志が、動揺を押し下げるように芽生える。
信頼できる“主人役”を求める必要性が、これまで以上に鋭く突きつけられていた。




