そこに記された名
呼吸がまだ浅いまま、麗華はポケットや荷物袋を手探りであさった。
指先が硬い紙の端をかすめ、炭筆の冷たい感触をとらえる。
「……書き出さなきゃ。考えを整理しないと……」
小さくつぶやき、震える手で紙片を机に並べる。
焦燥が指先に乗り移ったように、動作がぎこちない。
ランプの揺れる光が、紙の端を赤く照らし出した。
視線を扉から無理やり引きはがし、麗華は机の上に落とした。
紙片に目を向ければ向けるほど、背中に感じる気配が濃くなる気がする。
「見てない。……気のせい。」
そう言い聞かせるたび、逆に胸のざわめきが強まった。炭筆を握る指先が、かすかに震えていた。
細い線を引こうとするたび、黒い芯がわずかに紙の上でぶれる。
ランプの炎がふっと揺れ、机に広げた紙片の端が赤く照らされた。
その色はまるで警告灯のようで、麗華の胸をさらに締めつける。
胸の奥で乱れる呼吸を抑えきれないまま、麗華はポケットや荷物袋に手を突っ込んだ。
昼間に走り書きした端切れ紙、くしゃくしゃに折れ曲がった小さなメモ──指先に触れるたびに、かすかに汗ばんだ手が紙を滑らせそうになる。
落ち着け、今は冷静にならなきゃ……頭の中を整理しないと。
焦りが指先を鈍らせ、紙をつまみ損ねて床に落としかける。
慌てて拾い上げ、ぐしゃりと握りしめた瞬間、紙の端がランプの光に赤く反射した。
その色がまるで警告のように見えて、余計に心臓の鼓動が速まる。
ランプの炎が、ふいに小さくしゅうっと鳴いて揺れた。
光が一瞬弱まり、机の上の紙片の端だけが赤く縁取られる。
影が不規則に伸び縮みし、まるで誰かが背後を通り過ぎたかのように見える。
揺れる光は麗華の瞳にも映り込み、落ち着かない鼓動そのものを写し出していた。
やめて……こんな時に。
外からかすかな風の音が届くたびに、宿全体がぎしりと軋むような錯覚に襲われる。
呼吸がまだ整わないまま、麗華はポケットや荷物袋を探り、紙片や炭筆を引き抜いた。指先がわずかに震えて、くしゃくしゃになったメモを落としそうになる。
書き出さなきゃ……考えを整理しないと。
胸の奥で早鐘を打つ鼓動を無視するように、机に視線を落とす。扉も窓も見ない――見たら何かがいる気がしてしまうからだ。しかし、視線を逸らせば逸らすほど、不安は胸の底で膨らんでいく。
炭筆を握る手がかすかに震え、線が歪む。ランプの炎が揺れ、紙片の端を赤く照らした。その光はまるで「遅れるな」と警告しているかのように見えた。
夜の帳が町をすっぽりと覆い、石畳には酒場の灯が淡く滲んでいた。
麗華は宿を後にし、人影のまばらな通りを足早に抜ける。
背後に視線を感じるたび、無意識に肩が強張った。
町外れの小さな酒場──煤けた木の梁から安酒と焚き火の匂いが漂い、
扉の向こうでは、くぐもった笑い声が時折揺れる。
中を覗けば、客はまばら。酔いどれた声が低く響き、
場末らしい気怠さが空気に滲んでいる。
麗華は扉を押し開けた。
片手に握りしめたのは、くしゃくしゃの候補者整理メモ。
心臓はまだ速く、背後への警戒は解けないまま。
「……人が少ないのは好都合。でも油断はできない。」
そう自分に言い聞かせ、視線を走らせてから、酒場の隅の席へと足を向けた。
麗華は宿を出て夜の通りを抜け、薄暗い明かりが漏れる酒場の扉を押した。
胸の奥に残るざわめきはまだ鎮まらず、肩に無意識の力が入る。扉を閉める瞬間も、背後を振り返らずにはいられなかった。
店内には酔いどれの客が二、三人、低く笑いながら盃を傾けている。視線がぶつかるのを避けるように麗華は足早に奥の席へ向かう。
木の床がきしむたび、心臓がひとつ跳ねる。腰を下ろすときも、背を壁に預けずに済む位置を何度も確認し、椅子の向きを少しずつずらした。
落ち着かない様子が、自分でもわかるほどだった。
麗華は外套の内ポケットに指を差し入れ、丁寧に折り畳まれた紙を取り出した。
だが、わずかに震える指先のせいで、端をつまんでも思うように広がらない。紙がぱらりと弾み、落としそうになったのを慌てて押さえる。
テーブルの隅に紙を押しつける仕草は、まるで紙片だけでなく、自分の不安まで押し込めようとしているかのようだった。
ランプの薄い明かりに照らされたその紙は、粗末な筆記で描かれた町の簡略図。
通りの名や広場の位置だけでなく──四つの小さな名前と特徴が、書き込まれた印の上に並んでいる。
麗華の視線が地図の上をゆっくりと滑る。
頭の中で、記憶の断片が繋がっていく。
──ロウガ。
酒場の近くで豪快に笑う姿を何度か見かけた。
あの男らしく、行動範囲はやたらと広い。酔いどれの足取りで、町を自由に歩き回っているのだろう。
──ジーク。
宿屋の二階に部屋をとっている。
動きは規則正しいが、視線の鋭さは油断ならない。
近づこうものなら、逆にこちらが値踏みされそうだ。
──ダリオ。
鍛冶場の近くで職人と談笑する姿を見た。
誠実そうなその態度は好ましいが──主導権を握られたら、こちらが動かされる側になる危険がある。
──カイル。
薬草市場をよく歩いている。
その優しげな眼差しは嘘ではないだろうが……護衛として頼るには、あまりに力が足りない。
麗華は紙の端を押さえる指先に、無意識の力がこもった。
試すだけじゃ足りない──今夜中に、選ばなきゃならない。
麗華の指先が、地図の上を何度も行き来する。
視線は紙に貼りついているのに、頭の中は落ち着くどころか熱を帯びていく。
──試す段階は終わった。
──決めなきゃ、生き残れない。
その声が、脈打つ心音に重なり合い、何度も何度も響く。
ペン先で地図の端を無意識に叩くたび、ランプの炎が揺れ、紙片の角が赤く染まった。
……血。
一瞬そう見えて、麗華の胸がざわりと波立つ。
呼吸が浅くなり、視線が紙から離れない。
「……誰を選ぶ?」
小さなつぶやきが、酒場の片隅で音もなく消えた。
酒場の奥、薄暗い片隅。
酔客の笑い声が低く響いているはずなのに、麗華の耳にはほとんど届かない。
聞こえるのは――
自分の呼吸が胸の奥で荒く反響する音。
そして、指先が地図の紙をなぞるかすかな擦過音だけ。
音がすべて遠ざかり、世界から切り離されたような感覚。
まるで自分と、この一枚の地図だけが現実に残されているかのようだった。
地図の上を行き来していた麗華の指が、ふいに止まった。
そこに記された名前――ロウガ。
彼女はゆっくりと目だけを上げる。
酒場の中央、豪快に笑う大柄な男の姿が目に入った。
無意識に、唇がきゅっと結ばれる。
(……あいつなら、裏切らないかもしれない。でも──)
胸の奥で渦を巻く緊張が、じわりと熱を帯びる。
今の一瞬が、麗華を“選ばなければならない段階”へと押し出していく。
机の上の地図が、運命の分岐を告げる羅針盤のように見えた。
麗華の指が、地図の上でぴたりと止まった。
そこに記された名──ロウガ。
無意識のまま、目だけを上げる。
視線の先、酒場の中央では、あの豪快な男が腹を抱えて笑っていた。
木の梁まで響きそうな声と、力強い腕の振り。
その姿は、まるで嵐の中でも揺らがない大樹のように見える。
麗華の唇が、きゅっと結ばれる。
(……あいつなら、裏切らないかもしれない。でも……)
胸の奥で、不安と期待がせめぎ合う。
紙の端に置いた指先が汗でじっとりと湿り、ランプの赤い光が地図を不吉に照らした。
その刹那、心の奥で小さな歯車が回り始める──運命を決める選択の音を立てながら。
こうして麗華は──
恐怖に背を押されながらも、逃げ道を断ち切るように、
自らの未来を賭けた“主人選び”の舞台へと、
静かに、だが確実に足を踏み入れていった。
その一歩が、どんな結末へ繋がるのかを知らぬままに。




