“怖くても、選ぶしかない。今夜中に――必ず。”
夜の町は、ひどく静かだった。
月明かりに照らされた木造の宿の一室。窓辺の薄いカーテンが揺れ、外から犬の遠吠えがかすかに届く。
麗華はベッドの端に腰を下ろし、じっと耳を澄ませていた。
──昼間から、嫌な感覚が消えない。
森の外れで見た、こちらを伺うような馬影。
路地裏でぴたりと止んだ足音。
市場の雑踏の中で感じた、突き刺すような視線。
一つひとつは取るに足らない偶然に見える。
だが──これだけ続けば、もう“偶然”では済まされない。
「……つけられてる。」
口にした瞬間、背筋に冷たいものが走った。
まるで月光そのものが刃に変わり、背後から押し当てられたかのような圧迫感。
息を吐いても胸の奥に重苦しさが残る。
ベッド脇の小机には、ろうそくの小さな炎が頼りなく揺れていた。
その影が、壁に長く長く伸びて──まるで何者かが立っているように見える。
──コン、コン。
夜更けの静寂を破る、はっきりとした二度のノック。
胸がぎゅっと縮む音が、自分の耳にまで届いた気がした。
麗華はベッドからそろりと立ち上がり、息を潜めて扉に近づく。
廊下のきしむ音ひとつにも、鼓動が跳ねる。
──間違いない、さっき聞こえたのは夢でも空耳でもない。
慎重に取っ手をひねる。
扉がわずかに開くと同時に、ランプの灯りが廊下に流れ出す。
……誰もいない。
ただ、吹き抜けの窓から夜風が入り込み、カーテンがかすかに揺れるだけだった。
「……っ」息が詰まる。
わざとか──これは脅しだ。
“来ている”──“見ている”──声なき宣告。
指先がかすかに震えた。
灯りが頼りなく揺れ、その影が壁に長く伸びる。
人の形に見えて、思わず背後を振り返る。
──このまま立ち止まったら捕まる。
怖くても、選ばなきゃ。
息が浅くなるのを必死に抑えながら、麗華は扉をそっと閉じた。
木の板が重く軋み、その音さえ敵の耳に届くのではと錯覚するほどだった。
……遊ばれている? それとも、もう狙いを定めてきた……?
胸の奥がぎゅっと縮む。心臓の鼓動が速すぎて、耳の奥で血が駆ける音が鳴り響く。
ここで立ち止まったら捕まる。
怖くても、自分で選ばなきゃ。
誰を信じる? 誰に鎖を渡す?
ひとつでも間違えれば……終わる。
背筋を冷たい汗が伝った。
“選ばなければ死ぬ”──その言葉が、ただの脅しではなく、現実の重みを持って迫ってくる。
震える指先を押さえつけながら、麗華は息を整えようとした。
だが深呼吸すら、胸の奥で引き裂かれるように浅く途切れる。
麗華は机の上に広げた紙片をじっと見つめていた。
かすかなランプの光が、乱れた字を影とともに揺らす。
――ロウガ:豪快で無計画、だが悪意なし。
――ジーク:有能だが冷徹、交渉力がなければ飲み込まれる。
――ダリオ:誠実だが、主導権を奪われる危険。
――カイル:優しいが、あまりに非力。
紙片に書いた言葉が、まるで血のにじんだ選択肢のように重くのしかかる。
(……今夜中に、決めなければ)
窓の外では、夜風がかすかに木枠を鳴らしている。
つい先ほどのノックの音が耳にこびりついて離れない。
選ばなければ――明日を迎えることさえ許されないかもしれない。
ランプの炎がわずかに揺れ、影が紙の上を走った。
麗華は唇を強く噛みしめ、震える指で紙片を押さえた。
“怖くても、選ぶしかない。今夜中に――必ず。”
深夜。簡素な木造宿の一室に、油ランプの淡い光が揺れていた。
窓の外から吹き込む風が、かすかな軋みとともに木枠を鳴らす。遠くで犬が一声吠え、それきり町は沈黙に包まれた。
机の上には、紙片と広げられた地図。
ランプの炎が作る影が、紙の上を揺らめき、まるで生きているかのように蠢いている。
麗華は椅子に腰掛けたまま、背筋を伸ばして息を整えた。
昼間から何度も背後に感じた視線――森の外れで馬の影、路地で消えた足音、人混みで刺さるような気配。それらがすべて偶然ではないと、今は確信していた。
部屋の空気は冷えているはずなのに、額に薄い汗が滲む。
静けさが逆に、耳の奥で血流の音を響かせてくる。
――ここで立ち止まったら、捕まる。
そう思うだけで、喉がひどく渇いた。
ランプの炎が揺れ、壁に長い影が伸びる。
まるで、何者かが背後から見下ろしているかのように――。
扉を閉めても、鼓動は収まらなかった。
あの──夜更けの二度のノック。
開けた瞬間、そこには誰もいなかったはずなのに、今も視線だけが残っている気がする。
麗華は足音を殺して廊下を確かめ、窓の外を何度も覗き込んだ。
木造の宿は静かすぎる。板のきしむ音さえ、誰かの足取りに聞こえてしまう。
遊ばれているのか、それとも──狙いを定められたのか。
答えの出ない二択が、冷たい刃のように胸に刺さる。
机に戻っても、背後が気になって仕方がない。
まるで、この薄暗い部屋そのものが罠のようだ。
胸の鼓動がまだ収まらない。耳の奥で、どくどくと血の音が響く。
──誰だ……?
麗華はそっと立ち上がり、宿の扉を開けて廊下を確認する。薄暗い灯火に照らされた板張りの廊下には、人影ひとつ見当たらない。窓の外も覗いたが、風に揺れる木の影しか動いていなかった。
「……気のせい、じゃない。」
胸の奥にざらつくような確信がこびりついて離れない。
昼間、森の外れで見かけた馬の影。路地裏で聞いた足音。人混みの中で刺さった視線。
──あれらは全部、偶然なんかじゃなかった。
「遊ばれてる……それとも、もう狙いを定められてる?」
息が浅くなる。背中を冷たい汗が伝った。
深夜――町は深い眠りに沈み、通りのざわめきは完全に消えていた。
宿の一室、簡素な木造の壁は夜気を通し、かすかな冷たさが漂う。
卓上のランプが頼りなく揺れ、しゅう……と炎が細く鳴くたび、
薄暗い部屋の影が不規則に伸びたり縮んだりする。
外から聞こえるのは、風が屋根瓦を撫でる音だけ。
まるで世界が呼吸を止めてしまったかのような静けさが、
麗華の心拍をいや増しに響かせていた。
両手がまだかすかに震えていた。
扉を開けたあの瞬間の虚無――人影のない廊下、冷たい風だけが返事をした記憶が、肌の下でまだ脈打っている。
耳の奥では自分の鼓動がいやに大きく響き、
廊下の軋む音や、外で木の枝が擦れ合う気配にさえ敏感に反応してしまう。
「……遊ばれてるのか、それとも狙われているのか」
胸の奥に渦巻く疑念が、炎の揺らめきと一緒に影を濃くしていく。
麗華は立ち上がり、もう一度扉の鍵を確かめた。
がちゃり、と小さく揺らしてみる――しっかり閉まっている。
それでも落ち着かず、窓のカーテンをそっとめくった。
月明かりに照らされた裏通りは、しんと静まり返っている。
人影はおろか、猫一匹すらいない。
「……気のせい、じゃない」
言葉にした瞬間、背筋を撫でる寒気が強くなった。
「……遊ばれてるのか、それとも狙われてるのか……。」
唇の裏でかすれた声が漏れる。
胸の奥でざわつく鼓動が、耳の奥で反響してやまない。
今この瞬間も、どこかで視線が絡みついているような錯覚。
「立ち止まったら……捕まる。」
自分に言い聞かせるように、声にならない声で呟いた。
怖くても、進むしかない――そうでなければ、次にノックが響いた時はもう扉が開いてしまうだろう。
ぎこちなく椅子を引く。
木の脚が床板を引っ掻き、静まり返った室内に不自然なほど大きな音が響いた。
麗華は息を呑み、しばし動きを止める。
……何も起きない。
無理やり平静を装うように腰を下ろし、机に向かう。
普段どおりの作業に意識を戻そうとするその仕草が、かえって緊張を際立たせていた。
ランプの炎が、ふいにしゅうっと鳴って揺れた。
影が机の上を、不規則に伸び縮みする。
光の揺らぎに合わせて、麗華の胸の鼓動も不安定に脈打つ。
まるで炎そのものが、彼女の落ち着かない心を映しているかのようだった。




