序章:事故と転生
修学旅行の帰り道(バス内)
夜の高速道路を走る観光バスは、やわらかなオレンジ色の照明に包まれていた。
窓の外は、街灯の切れ目ごとに闇が流れていく。雨粒がフロントガラスに落ちて、ワイパーが静かにリズムを刻む。
「お菓子残ってる? ポテチちょうだい」
「やば、負けた! 次こそ俺が一位な!」
後方では女子が小袋を回し、前方では男子がゲーム機を覗き込んで騒いでいる。
車内は疲れと安心感でゆるんだ空気が漂っていた。
麗華は窓側の席に腰を預け、イヤホンを耳に差し込んだ。
隣には、同じ女子グループの子たちが楽しげに話し込んでいる。
「ねえねえ、明日カラオケ行かない?」
「私は寝たいー! もう旅行疲れたし」
「麗華は? 行くでしょ?」
「私はちょっと忙しいけど……考えておくわ」
麗華は上品に微笑み、あえて即答はしない。
忙しい、という響きが好き。特別な自分を演出してくれるから。
窓の外を流れる暗闇に、うっすらと自分の姿が映る。整った髪型も、完璧なメイクも、乱れていない。
――修学旅行を仕切ったのも私。先生もクラスも、みんな私を見ていた。
やっぱり、このクラスで一番目立つのは私。
隣の友人が、何気なく羨望を込めた視線を送ってきた。
それだけで、胸の奥が甘く満たされる。
これが私の居場所。このままずっと――
麗華は、イヤホンから流れるお気に入りの曲に微かに口角を上げた。
何もかもが順調で、心地よい。
誰も、この静かな帰り道があと数分で地獄に変わるなんて、想像すらしていなかった。
街灯の明かりが、窓の外を一定のリズムで流れていく。
だが、その間隔が妙にまばらに感じられた。
ポツ、ポツ……と雨粒がガラスを叩き、ワイパーがきしむ音が静かに響く。
「ギィ……シィ……」――どこか頼りない動きだ。
運転席から小さく、低い声が漏れる。
「……はい……了解……」
無線のノイズ混じりの返答だ。
だが、生徒たちはお菓子やスマホに夢中で、気に留める者はいない。
ん?
麗華は一瞬だけ窓の外に目を向けた。
闇の中、遠くに車の赤いテールランプが揺れて見える。
――何かがおかしい? いや、考えすぎかもしれない。
隣の友人が「麗華、次のテストどうする?」と話しかけてくる。
「そんなの余裕よ」と軽く笑い返し、視線をスマホに戻した。
わずかな違和感は、すぐに日常のざわめきに埋もれていった。
――ゴゴゴ……ッ。
車体がかすかに揺れた。路面の継ぎ目を通過しただけかと思うほどの小さな振動。
だが次の瞬間、運転席から押し殺したような声が聞こえた。
「……くそっ!」
耳ざとい男子が顔を上げる。
「ん? 今なんか言った?」
「気のせいじゃね?」
ほんの一瞬、車内に不安が走ったが、すぐに談笑の波に飲まれる。
――キィィィィィイイイイイイッッ!!
甲高いブレーキ音が車内を貫いた。
全員の身体が前に放り出され、座席の背もたれや窓に激突する。
「キャッ!」
「うわっ!」
「痛っ!」
悲鳴が交錯する中、運転手の荒い息づかいが聞こえた。
車体が右へ、左へと蛇行し――
ガシャアアアアアアアアッ!!
ガードレールを巻き込む衝撃音。
車体が横滑りし、窓ガラスが粉々に砕ける。
頭上の荷物棚からかばんやお菓子の袋がばら撒かれ、生徒の頭に降り注いだ。
「止まれぇっ!!」
「先生っ!!なにこれっ!!」
「やだっ、死ぬっ!」
誰かが泣き叫び、誰かが立ち上がろうとして倒れ込む。
しかし車体は制御を完全に失い、夜の闇を疾走していた。
暗転と無音
――ガシャアアアアアアアッ!!!
視界がぐるりと反転した。
天井と床の区別が消え、重力が暴れ回る。
麗華の身体は座席から浮き上がり、次の瞬間――
ドンッ! 何か硬いものにぶつかった衝撃が頭を貫く。
痛い――っ!
叫ぶ間もなく、世界が暗転した。
……無音。
あれほど騒がしかったバスのざわめきも、ブレーキの悲鳴も、すべて消えていた。
あるのは、漆黒の闇だけ。
麗華は目を開けているのか閉じているのかすら分からない。
――ドクン。
自分の心臓の音が、異様なほど大きく響く。
――ドクン。ドクン。
なに……これ……? 死んだの……?
声にしようとしたが、唇が動いた感覚もない。
ただ、意識だけが真っ暗な虚空に浮かんでいた。
不思議な感覚
――ふわり。
全身が宙に浮いたような感覚に包まれた。
重力が消え、上下の区別がなくなる。
手を伸ばしても、そこには何も触れられない。
え……なにこれ……?
真っ暗な虚無の中で、自分の身体の輪郭すら曖昧だ。
耳も、肌も、息を吸う感覚さえも――すべてが失われている。
「ここ……どこ……?」
声を出したはずなのに、返事も、反響もない。
ただ疑問と恐怖だけが胸の奥で渦巻いていく。
私……死んだの……? でも、意識がある……。
不安が形を持たないまま、闇がさらに濃くなっていく。
そのとき――遠くから、微かに光が滲み始めた。
光の出現
――チカッ。
闇の中心に、針の先ほどの光が灯った。
まばたきをする間に、それは瞬く間に広がっていく。
真っ黒な世界に白い裂け目が走り、そこから強烈な光が溢れ出す。
目を閉じても、まぶしさは容赦なく瞼を貫いた。
耳鳴りがふっと消える。
代わりに――かすかな風の音、そして遠くで鳴く鳥の声。
なに……? どこから聞こえてるの……?
麗華の意識が、光に吸い込まれるように引きずられていく。
逃げようとしても、身体は動かない。
重力のない虚無から、何かに引っ張られるような感覚。
やめて……待って……!
心の中の叫びもむなしく、彼女は抗う間もなく光に呑み込まれていった。
転生の瞬間(幕引き)
――まぶしい。
瞼の裏が焼けるような強烈な光に、麗華は思わず目を細めた。
目を開けると、そこは夜ではなかった。
雲ひとつない青空。照りつける太陽。
そして土埃が舞う街道の脇に、自分はうつ伏せに倒れていた。
……ここ、どこ?
耳に飛び込んできたのは、見知らぬ言葉を吐き捨てるように話す男の声。
視界の端には、無骨な馬車と、粗野な男の姿。
鋭い視線が、まるで家畜でも値踏みするかのように麗華を見下ろしている。
そのとき、足首と首にひやりとした感触が走った。
冷たい鉄――鎖と、首輪。
な……なに、これ……? なんで……首輪?
麗華の胸がざわめく。
目覚めたばかりの頭は混乱し、現状を理解できない。
だがひとつだけ分かった。
自分は――もう“自由”ではない。
異様な違和感
「なにこれ……? なんで……?」
自分の声に、麗華ははっと息を呑んだ。
――妙に高い。妙に幼い。
耳に返ってきた響きは、十六歳の彼女の声よりもずっと幼く、か細かった。
どういうこと……? 私の声じゃない……!
「おい、起きたか奴隷!」
鋭く荒々しい声が飛んできた。
視界に入ったのは、粗末な鎧を身につけた屈強な男。
その手が無造作に麗華の鎖をつかみ、容赦なく体を引き起こす。
「ちょ、やめっ……!」
抗議しようとしたが、細い腕では抵抗にならない。
鎖が首に食い込み、ひりつくような痛みが走った。
バランスを崩した麗華は、膝から崩れ落ちる。
嘘……なんで私……? なんでこんな……
目の前の男は、麗華の困惑などお構いなしににやりと笑った。
「大人しくしろよ。お前はもう俺たちのモンだ」
冷たい言葉が、まるで首輪そのもののように麗華を縛り付けた。
絶望の演出
視界に広がるのは、見慣れた空ではなかった。
青空はやけに澄み、雲の輪郭が不自然なほど鮮明だ。
街道を行き交うのは、奇妙な模様のマントを羽織った人々、荷を積んだ木製の馬車。
金属の擦れる音や獣の鳴き声が響き、どこか現実味がない。
「……ここ……どこ?」
麗華は震える声で呟いた。
視界の端で、鎖を握る男が苛立たしげに顔をしかめている。
夢……? 夢でしょ……?
唇が勝手に動く。
「夢……じゃない……?」
その瞬間――首輪がかすかに光を放った。
ひときわ冷たい金属の感触が首筋を締めつけ、麗華の意識は再び闇に引きずり込まれていく。
いや……やだ……誰か……!
最後に聞こえたのは、誰かの笑い声と、遠ざかる車輪の軋む音だった。
静かな暗転
――動けない。
体は自分のものなのに、指先ひとつさえ言うことを聞かない。
光る首輪の締めつけが、まるで見えない手で操られているようだった。
視界の端で、見知らぬ世界が揺れる。
奇妙な言葉、異様な衣装、馬の嘶き。
しかし、それらすべてが遠ざかっていく。
これが……夢なら、早く覚めて……。
必死の祈りは、どこにも届かない。
音が消える。
痛みも、恐怖も、思考さえも――すべてが薄れていく。
闇に溶ける直前、胸にひとつだけ確かな感覚が残った。
私の世界は……終わった。
静かな暗転。
そして、物語の第1幕が始まる――。