キャラクターを生かすも殺すも
はい、味を占めまして、三作目のエッセイです。今回は「キャラクター」と言うものについて、自論ですが語っていきたいと思います。
そもそも、キャラクターとは何なのか。最初は「自分」と言うものを考えたいんですが、よく言われているのは隠キャ・陽キャですね。前回のエッセイでも書きました通り、私はハーフ的存在でいたいと思っています。どちらの人とも絡むことのできるようなそんな存在。成れているかどうかはわかりませんが、まぁこのサイトで投稿をしている一般中学生なんて完全な陽キャなわけがないとは自覚しております。
隠キャ・陽キャ以外にも、何の音楽が好きとか、どんな物語が好きかとか、アウトドア派インドア派とか、清楚か地雷かとかさまざまです。別に清楚と地雷を対義語だと思っているのではないので、そこはわかっていて欲しいんですが。そんな複数のキャラを掛け合わしてできるのが「自分」と言う世界に一つしかない、いつでも確かな存在だと思っています。そのキャラはこの世界で生きていく上で、変わっていったり、消えていったり、濃く・薄くなっていったりすることがよくあると思います。しかし、最終的な「自分」が全てをもって変わると言うことはあまりないと思います。しかし、私は変わってしまったことがあります。言葉を選ばずに言えば、「自分」を殺すことですね。
私は小学校時代のキャラクター、「屑で変人な隠キャヲタク」を殺して、今の中学校時代、高校だとか、行けるかわからないけど大学だとか、そういった生活でも生きていこうと言う考えで今を生きています。つまり前の「自分」を殺し、新しい自分に生まれ変わって生きていくことに決めました。両方知っている方からすれば、別に変わっていないかもしれませんが、小学校時代しか知らない人と、今しか知らない人が「僕」と言う人物に関して話した時、必ず相違が出ると思います。
それはなぜか。それは、僕が空気を読むようになったからです。空気を読むことなんて当たり前じゃない? と思うと思いますが、僕はそれまで気にせず生きていました。常識を身につけたんですね。例えば、僕は小学校の道徳の時間に自分の特徴? それこそ鬼滅の刃が好きだとか、そう言ったものを自分で数個あげて、班のメンバーからもあげてもらって、どうなるかなみたいな。そこで僕は何を思ったか隠している部分の自分をあげたんですね。そして感想を言う部分でやっぱり全部はわからないんだなぁみたいなことを言ってしまって空気を最悪にしたことがあります。
それでも空気を読まなきゃこの世は生きていけないわけで、それとともに好きなものも全面的に押し出すのをやめて。そうして好きなものにいつでも全力な西川希龍というキャラを殺して人に嫌われることを避ける若干優しい西川希龍という者が出来上がりました。あ、別に優しいというのを自負しているわけではなくてですね。幼馴染だとか、恋愛観を語った時にもあげたAさんにLINEで誕生日祝いのメッセージの中で言われたりもして。自分的には全然優しくはないと思いますし、前述した通り人に嫌われたくないだけです。だからかわかんないですけど、僕MBTIがINFP、仲介者なんですけど、INFPの自己紹介って歌の「人に嫌われたくないだけ」って部分が当てはまってます。そういうところがINFPなんだなぁ、と。
話を戻します。そんなある意味殺人をした自分ですが、もっと、百八十度自分を変えている人もいると思います。そういう人と比べたら自分なんて全然殺せてないんだろうけど、それでも、僕は「自分」という存在を殺して、否定して、ズタボロにした時もありました。何だったら、クラスの嫌いな人より自分が嫌いです。結局、小学校で女子に嫌われた影響もあり、「女子は敵に回したら多対一で嫌われる」というものもあり、女子にだけは嫌われないように最大限注意を払い、その結果人で態度を変える人間が生まれました。でもそれでいいと思ってます。確かに、誰にでも同じ態度を取れるのが一番いいんでしょうけど、そんなの綺麗事だし、できる人なんて一握りです。だから別に気にしなくていいんですよ。「自分」は「自分」であればいい。「他人」を否定する権利なんて誰にもないし、「自分」を否定されるなんて耐えられない。なら別に否定なんて気にせずにいたらいい。「これが「自分」だ!」ということを全力で表したらいいんですよ。それが「人生」です。
ただ、「自分」を殺して良かったと思うこともあります。それは「他人」を一番に考えられるようになったことです。空気を読むとも似てますね。人のためなら命だって捨てれる。そんな変に覚悟の決まりきった人間ができました。でもこれはただの覚悟なので実際にそういう場面に遭遇した時に体が動くとは限らないんですけどね。
さて、次は物語におけるキャラクターの生死ですね。なんかたまにネットとかで「この物語 (アニメや漫画)思ってたのと違う」というのを見かけることがあります。ただ、そういう人に限らず、「全然人が死なないじゃないか」みたいなことを言います。そういう人たちは一回考え方を改めてほしい。人が死ぬ物語が深くて全然死なない物語が浅いのか。そうじゃないだろう。じゃあ人が (他に比べてあまり)死ぬことのない「聲の形」は浅いのか。地球人が全員死んだりする「ドラゴンボール」が何よりも深いのか。そうじゃないだろう。別にドラゴンボールが深くないと言いたいわけではなくて。一回、「人が死んだら深い」っていう考え方を捨てて欲しい。そういう人たちは「呪術廻戦」に脳を焼かれすぎてる。確かに、一脆弱読者からすれば釈魂刀になるところは感動的だったとは思う。それ以外にも死亡するシーンで感動的なシーンは多かったと思う。ただ、物語の評価基準がそれで全てではないことを知ってほしい。もし知っている上でその評価を下していたりしたら、何様のつもりなのだろうか。初心者物書き目線としてだが、僕の物語でそんなにキャラクターをバンバン殺していいことはない。確かに主人公君に絶望を与えてそこから成長させるという点ではいいのだが、性格というものもあってだね。能力も相まって彼は人を死なせないようになっている。だから全部ひっくるめて考えた時に「人が死んでるから深い」という価値観を持ったのなら、読者・視聴者を止めることを勧めたい。
だから、別に気にしなくてもいいのだ。自分自身がやりたいこと書きたいもの表現したいことを表現したらいい。それで否定されようとも「自分」は自分でしかないから。それでも人は脆いから、そう簡単に開き直ることはできないと思う。そういう時は、リアルでもネットでもいいから友達、家族、恋人、とりあえず信用できる人、大切な人に相談してみたらいい。そうすれば少しは希望が持てるだろうから。
もし、これを読んでいる人で死にたいと思っている人がいるならば、これを伝えておきたい。誰に、どう見られてもいいと思えないのなら。まだ死んだらだめだ。別に僕は自殺を否定する気はない。何だったら、本当に辛いなら、それでもいいと思う。でも、どうせ死ぬなら、自分がやりたいことだとか、できることを最後までやって、「これが自分の選択だ!」と、胸を張って堂々と、誰にも恥じず、笑って死んだらいい。それができないのなら。まだ死ぬな。絶対に、だ。
まぁ、とある動画の受け売りなんですけどね。
ただの中帽が何いきがってんだと言われるかもしれませんが、僕の信念です。確かにまだ14年と半年ほどしか生きていないです。でも、普通の中学生よりは修羅場を潜っていると思っています。修羅場と言える修羅場かは分かりませんが、それでも辛い経験はしてきました。誰でも辛い経験はあると思います。でも、綺麗事かもしれないけどそんな時に立ち止まって、自分がしてきたどんな選択にも胸を張れるように、「自分」らしく、生きたらいいんです。それが「人生」、「命」ですから。