§第07話前篇 紗綾へのオファー(1)
謎の男潤間潤がタテヤマ通信の匂坂朔次と焼尭暁に出会い、ローカ人民共和国の悪天候コンビ、ゴウウ・ライウ達と出会った日。そこから遡る事一週間。
ある街角のファミリーレストラン前である。
刻は昼前。一人の男が立っている。背中の自転車の車輪が上下している。理由はシンプルだ。その男が自転車を両肩に担ぎヒンズースクワットしているからだ。なんだそれ。そんなことをするのはこの男しかいない。
潤間潤。ぴったりしたノースリーブシャツから出た腕も肩もパンプアップし、汗でテカっている。短パンの脚部も筋肉隆々としている。苦行のようなトレーニングをしている割には表情は明るく楽しそうだ。エアロビクスで使われるリズミカルな曲に貼り付いている様な笑顔。そう、あの濃厚でステロタイプのマネキン笑顔だ。
天下の往来で何をやっとるか。
道行く人々は流石にスルーできないのだろう。怪しいモノを見る顔、笑いを堪える顔、口許を押さえた呆れ顔、明らかな見て見ぬ振り顔――様々な表情でそれぞれ通り過ぎる。みんなちがって みんな いい。――ちがうか。
と、筋肉自転車男の前に一人の女性が立った。髪はベリーショートで服はジーンズにさっぱりした感じのブラウス。年の頃は潤と同じ年代か。
女 おまたせ~。っておい。……おーい。あのー。……もしもーし!
潤はここまで呼ばれてようやく女の顔を見た。筋トレ帝国から戻ってきたか。いや、スクワット途中の状態でストップしている。ツクリモノっぽいエアロビ顔もそのままで。ほぐせよその引きつった表情筋。ちゃんと戻ってこい。
女 この健康自転車変態筋肉オタク!
顔筋が戻った。
潤 失敬な
いや失敬には当たらんだろ、やってた事とその格好は。潤は自転車を下ろしながら、
潤 君との新婚生活に耐えられる体力をつけて待ってるんだよ。こないだのプロポーズの返事をね。更紗紗綾さん
女の名はササラサアヤと言うらしい。サラっサラの名前だな。砂漠の民か。
紗綾の表情がフッと消えた。え。プロポーズの回想が始まったのか。脳内シーンは走馬灯の様に切り替わる。
自転車を激しく漕ぎながらバスの窓から顔を出した紗綾に叫ぶ潤。自転車で山を下りながら麓にぽつんと立つ紗綾に叫ぶ潤。自転車を担ぎなから山頂の紗綾に叫ぶ潤。どこまでも自転車だな!
紗綾 あのね。ぜ~んぶ秒で断りましよねぇ。今は仕事が恋人。仕事がダンナって
潤 仕事と付き合うのも仕事と結婚するのも善くない。全人類にとっても善くない。君にとっても極めて善くない。僕にとってはとってももっとも、もっともっと善くない
潤は不意に紗綾の鼻先十センチの距離に顔を近づけた。
紗綾 ななな何よ かか勝手でしょあたしの
潤 お互いにおむつしてた頃からの付き合いだから紗綾の夢は知ってるよ
紗綾 え
潤 ジャーナリストとしてメジャーになりたいんだろ
紗綾 うん。まあ。そうよ
潤 今は弱小地方紙の冴えない記者だけど
紗綾 うるさいわい
潤 もちろん応援するよ。今日は切り札があるんだ。これで君は僕と一緒に
紗綾の携帯が鳴った。
紗綾 ちょっとごめん、もしもし
紗綾は横を向いて話し始めた。いいタイミングで軽やかにスルーされたな潤。いい事言おうとしてたんだよな潤。フリーズしてる。うん。わかるぞ。そのままフリーズしとけ。
紗綾は幾許かの対話を終えて電話を切り、潤に向き直った。
紗綾 はい じゃあ後ほど。はい失礼します。ごめんごめん。えっとなんだっけ
間。
何とも言えない中途半端な間。背景に間抜け顔の鴉と極楽蜻蛉が飛び交っている。漫画だったらね。漸く潤のフリーズが解けた。
潤 うん。まあ……とにかく店に入ろうか。ちょっと頼み事があるんだ
紗綾 えっ何。ホワイトデーの贈り物ならリスト作ったけど
紗綾はバッグに手を突っ込むと筒状のモノを取り出した。卒業証書かよ。両腕を目一杯伸ばしてバ~~ッと広げる。ただの巻物だったよ。よくあるよね、巻物になった贈り物リスト。
潤 リストいつもより長くない?
いつも巻物を?僧侶か。忍者か。
潤 それは紗綾からの頼み事でしょ。今日は僕からの頼み事。って、そもそもバレンタインに何一つくれなかった人が何言ってるのかな
紗綾 潤にバレンタイン?それないわ~
潤 なんで
紗綾 なんていうか……馴染みすぎててさぁこの顔。あげるわくわく感がない
潤 幼なじみアルアルだけれども。……悲しすぐる
紗綾 じゃ今度でっっっかい義理チョコあげるわ
潤 それも悲しすぐる
紗綾 だからほら。ほらわがまま言わずにさ
紗綾は巻物を押しつける。どっちがだ。
潤 理屈が優れて謎すぐる
紗綾 プロポーズしたくせに
潤 謎が迷走すぐる~
二人は店内に入った。いつもこんな感じか?
次回は……「第07話中篇 紗綾へのオファー(2)」