§第00話 序章 / 第01話 三神山山腹
§第00話 序章
ここは――どこかの室内空間である。
四角い空間に事務机が二つ、互いに横顔が見える九十度の位置に配されている。窓は二面。外からは街の騒音が僅かに聞こえてくる。残りの壁面には書類棚が一つとコーヒーメーカーやらコップやらが並ぶオープンな食器棚が一つ。それきりである。
その横にはドアがある。隣には別室があるのだろうか。ともかく一言で言えば殺風景。ドアガラスに書かれた文字から察するに、何かの事務所らしい。シンプル過ぎるが故にどこか嘘臭いというか、まるで不動産屋のサンプルルームのような印象を受ける。
と、電話が鳴った。奥のドアが開いた。男が現れ受話器を取った。
男 はい。ロビンソンエージェンシーホットラインです!はい。ウルマジュンは私です。潤う間に潤うウルマジュンです
声がでかい。そして名乗った会社名が怪しい。TVCMにでしゃばってくる「○○ホールディングズ」とかいう正体不明の持ち株会社くらい怪しい。
大声男の名は潤間潤と言うらしい。若い、と言っても三十台半ばだろうか。どこか暢気でふにゃりとした印象の、犬か猫かで言えば猫顔だ。
まあ猫顔云々よりも会社名よりも、もっと怪しい内容の会話が始まった。
潤 は 緊急で特殊なご用件。ご安心下さい。我が社は特殊な方と特殊な方を特殊な方法で仲介する特殊な法人でございます。緊急のご用件も可能な限り対応させて頂きます。ではまずそちらの現在位置を確認させて頂きますね。いえそのままで結構です
潤は机のパソコンを開いて何度かクリックした。ものの数秒。
潤 はい。確認できました。今 あなたの安全は確保できていますか。大丈夫?なるほどそれはよかったです。では今からそちらに向かいます。はい。場所は把握しております。目印はオレンジの自転車です。いえ果物でできてはおりません色です。失礼ですがそちらは?はい 迷彩服に。赤の蝶ネクタイ。なるほど。わかりやすくて結構です。承りました。では
潤は受話器を置くが速いか、入り口のドア横に立てかけてあった濃いオレンジフレームの果汁入りではない自転車に跨がった。
潤 ヒィハァ!
いきなり叫び声を上げると同時にドアを開け放ち、そのまま階段を飛ぶ様に――いや、落ちる様に降りていった。大丈夫かこいつ。
ていうか、迷彩服に赤の蝶ネクタイて。
§第01話 三神山山腹
夜明け前。山の中腹である。
山肌に沿って這い回る蛇の様に曲がりくねって走る狭い登山道が見える。道の左右には高木が茂る。
自然林らしく、針葉樹と広葉樹が適当に入り交じって密生している。そのため道から外の景色は殆ど見えない。
道の所々に立つ古びた立て札には上向きの矢印とその下に「三神山山頂○○米」と書かれている。登山者は見えない風景の代わりにこの立て札を頼りに山頂を目指す。
そんな山道である。
下方から足音が聞こえてきた。同時にチラチラしたライトがこの道を登ってきている。僅かに息遣いも聞こえてくる。荒いが確かなリズムを刻んでいる。
こんな時間に登山者か。夜明け前の山中はまだ暗くまさに闇である。登山者がいても顔も表情も見えない。僅かに確かめられるのはそのシルエットだ。その陰影を見る限り、唯の登山者のそれではない。人のシルエットにあらず。
どうやら肩の上に車輪らしき影――これは――自転車か。この細く険しい山道を自転車を担いで登っているのか。何だそれ。
確かな吐息と足取り。ゆっくりだが確実に上へ上へ歩みを進めている。どういう事だ。薄暗い中に確認できるのは唯一周りを照らすヘッドライトと中肉中背のがっちりした体躯のみだ。
その風変わりな登山者は立て札の横で歩みを止め、自転車を下ろした。大きく息をつき、ライトで立て札を確認した。
風が吹いた。深い森の木々を抜けてきた柔らかな風。夜明け前の仄かな薄明かりが木々の間からうっすらとその人影を浮かび上がらせた。
顔はなお定かではないが若い男だ。手にはグローブ、頭にはヘルメット、その上にベルト式のライトを付けている。小さなデイパックを背負う体にはぴったりと身体にフィットした服を纏っている。サイクリングスーツだろうか。この格好で自転車を担いでの山登りとは一体。
男はデイパックから水筒を取り出し水を飲む。一息つく間もなく自転車のチェインとディレイラをチェックする。そしてまた担ぎ、登り始めた。
木々の間々から時折見通せるのは黒々と重なる山々の稜線。そのシルエットの背後には暁とはまだ言えぬが確かに目覚めようとする光が射し始めている。
道はその薄明かりが届かぬ木々の中に消え、男の姿もまた着々とした足音と共にその薄闇に飲み込まれていった。
同時刻。同じ山中に二人の人間の姿があった。
次は「§第02話 断崖から頂上へ」