VALENTINE LOVE〜チョコの香りは記念日に〜
それは、初めてとなる彼の家での出来事だった。
市内でも有名なお屋敷街の一角。
広い庭付き三階建ての大きな近代的一戸建てが彼の家らしい。
彼に誘われるまま、まず、赤にピンクのシクラメンの鉢植えの数々に目を奪われた。
そして
「うわぁ……! 綺麗……!」
白に紫、黄色、赤やピンク……。
アリッサム、クロッカス、クリサンセマムにデージーなどの、冷気に耐え、真冬に咲く色とりどりの花々が、私を迎え入れてくれたのだ。
「これ、どなたが?」
「オフクロの趣味さ。土いじりが好きでね。肥料や花の種や苗。買ってきては、しょっちゅう世話してるよ」
と、私の彼……直人くんは言った。
「うちのママもね。お花とっても好きなの。でも、フラワーアレンジメントの方。独身時代からやってて、パパと結婚する時の白薔薇のブーケは自分で作ったんですって。今は、お教室を持ってて、週2回教えてるわ」
「へえ。すげえな」
「でね。私が結婚する時のブーケも絶対、ママが作ってあげるって、今から張り切っているわ」
くすくすと笑う私に直人くんは一言
「じゃあ、俺はタキシードの胸に飾るコサージュ。果南のママに作ってもらわなくちゃな」
と、言ったのだ。
そ、それって……プ、プロポーズ……?!
一人赤くなりながら、どぎまぎしている私をよそに
「カナン。入って」
と、彼は玄関のドアを開けてくれた。
「お、お邪魔…し、ます……」
私は赤いダッフルコートを脱ぎ、おずおずと玄関のドアをくぐった。
すると
「ニャア~~~」
「きゃっ!……え、え、え?!」
家の中から真っ先に私を出迎えてくれたのは、なんとグレーに黒縞模様の一匹の猫だった。
その子は、臆することもなく、足下にすりすりと身体を寄せてくる。
「か、可愛い~……!」
くりくりした好奇心旺盛な瞳。ふかふかで艶のあるブラッシングされた毛並み。人を全く恐れることのない、警戒心のない性質。
庭の花々と同じく、家人に惜しみなく愛されているであろうことがよくわかる。
「直人くん。この子、スコティッシュフォールドよね? 雄?雌? 名前は何て言うの?」
私はその場に座り込んで、その子の首を撫でながら、彼に尋ねた。
「雌で『セイボリー』。アフタヌーンティー好きのオフクロがつけた名前さ。世話してるのもオフクロだし」
「素敵なお母様ねえ」
セイボリーという名前のセンスもそうだけど、こんなに愛情深く、植物や動物を育てていらっしゃる彼のお母様は、どんなに素晴らしい方かしらと、私は思う。
「さ、セイボリー。あっち行ってろよな」
と、彼はセイボリーのお尻を軽く叩く。
すると、セイボリーはまるで彼の言葉がわかるかのように、また「ニャア~」と一鳴きすると、家の奥の方へ消えていった。
その様子を私は珍しげに見ていた。
「で、ご両親はどちら? ご挨拶したいんだけど……」
私は、やや緊張気味に尋ねた。
「親父もオフクロも今、いないよ」
「いつ、帰ってらっしゃるの?」
「十日後」
「え?」
「今、ヨーロッパ旅行中なんだ。何も二月の厳寒のヨーロッパ行かなくてもって思うだろ? でも、急にまとまった休みが取れて、しかもこれ逃すとまたそんな休み、いつ取れるかわからないからって、親父が。二週間かけて、ドイツ、フランス、イタリア、ベルギー廻ってるよ。実は、語学もオフクロの趣味でさ。英仏独伊、やってるんだ。どのくらい通じるか試してみたいんだと。だから、添乗員の同行がない二人きりの個人の旅行なんだけど、ちゃんとやれてるんだかどうか。息子として心配だよ。一応」
そう語ると、彼はちょっと眉をひそめた。
「大丈夫よ。きっと元気に帰ってらっしゃるわ」
ねっ、と私は彼の右腕を軽く握った。
その時。
で、でも……。
と、私は不意に我に返った。
お家の人がいない男の子の部屋に入ってもいいのかしら……。
「カナン。こっち」
しかし、そんな私の不安を拭うかのように、彼は私を優しく誘う。
彼の部屋は高い吹き抜けの階段を上がり、三階の東南角にあった。
「お邪魔します……」
また同じ言葉を口にし、結局私はその部屋へと入った。
しかし、入った途端
「え?」
私は一瞬、目を疑った。
「え? 直人くん、ピアノが弾けるの?!」
軽く十畳はある広い彼の部屋の隅には、セミグランドピアノが位置していた。
専用のクリーナーで磨き上げられているらしく、黒光りの光沢を放ち、埃ひとつ被っていない。単なる物置に落ちぶれたピアノなどでは決して、ない。
よく見れば、傍らの本棚にはぎっしりと楽譜が納められ、何百枚ものCDが並んでいる。
バッハ、ハイドン、モーッアルト、ベートヴェン、スカルラッティ、ショパン、シューマン、グリーグ、シューベルト、ラヴェル、リスト、ドビュッシー、プロコフィエフ……etc、etc。
古典からロマン派、印象派、近代に至るまで、数々の作曲家のあらゆる様々な曲集の楽譜が連なっている。
「すごい!!」
私は感嘆の声を上げた。
「直人くん、これみんな弾けるの?!」
「まだまだだけど、まあ……。主だった曲は一通り」
「超上級者レベルじゃない! いつから習ってるの? 今でもレッスンしてるの?」
興奮気味に問う私に
「四つのガキん時から。今は月一か、二ヶ月に二、三回かな」
と、彼は照れているのか、わしわしとその柔らかな茶色い髪をかきあげながら、あえて平静さを装うようにそう答えた。
「知らなかったわ。何で今まで黙ってたの?」
「だってだぜ。この年でピアノを弾く男なんてマニアだろ? 果南に『おたく』って思われたくなかったんだ」
「全然そんなことない! 高校生でピアノが弾ける男子って、むしろすっごくかっこいい」
ピアノは私も昔、習っていた。
そしてバレエをやっている関係で私は、クラシック音楽にも多少は造詣が深いつもり。
しかし、せいぜい初級のモーッアルトのソナタ集や、バッハの三声に行くか行かないあたりでお稽古をやめてしまった私から見れば、彼のレパートリーはプロのピアニスト並み。
しかも、彼は私と同じく帰宅部なのに、どことなく、体育会系のノリがある。
179㎝の長身。筋肉質に引き締まった逞しい体躯。男らしいルックス。男っぽい仕草。
事実、去年の秋の『学園球技大会』では、バスケの試合でダンクシュートやスリーポイントを連発し、体育館中に女生徒達の黄色い悲鳴が響き渡った。
運動神経抜群の上、ピアノまで弾けるなんて!
「カナンには隠し通そうかとも思ったんだけど、いずれはばれることだしさ。それに。果南さえ良かったら、一曲……捧げたいと、思って」
「え……?! 私の為に弾いてくれるの?」
彼は軽く頷いた。
「是非!」
色めき立つ私を見て、彼はピアノの前に座った。
彼の瞳が真剣さを帯びる。
すうっと一息、深呼吸すると彼は静かに弾き始めた。
これって……。
優しく、甘い調べのこの曲は……。
リストの『愛の夢』だった。
ゆっくりとしたさざ波のような調べ。穏やかな旋律が緩やかに奏でられていく。
甘美な叙情性に満ち溢れたフレーズが蕩々と流れ、徐々に静かな激しさを増してゆく中、中間部の聴かせどころをたっぷりと情感を込め謳いあげる。
目もとまらぬような速いパッセージも、彼はいともあっさりと、難なく軽やかに弾きこなしてゆく。
わずか数分間の甘くたおやかなその時間は、まるで永遠のようだった。
しかし、静かな残響の一音で、遂に曲は終わりを告げた。
「この『愛の夢』を……。私に……?」
うっとりと官能にさえ満ち、まるであのブゾーニ張りとすら思える、完璧な『愛の夢』の演奏を聴き終えて、そう問うた。
「ああ。果南の為だけを想って奏でたよ」
優しい、直人くんの言葉……。
「有難う。直人くん」
椅子から立ち上がった彼を前に、私は踵を上げ背伸びをすると、彼の左の頬にキスをした。
「え? 果南……!?」
彼は信じられないような顔をして、私がキスしたばかりのその左の頬に手をあてている。
頬とはいえ私からキスをしたことは、あの初めて一緒に過ごしたクリスマス・イヴの夜から約二ヶ月半が経つ今まで、一度もなかったからだろう。
「愛の夢の……お礼」
急に恥ずかしくなって私は俯いた。
そんな私を、彼はぎゅっとあらん限りの力を込めて抱き締めたのだ。
「な、直人くん…苦しい……」
その息も出来ないほどの抱擁に戸惑いながら、訴える。
「あ、ああ。ごめん」
彼は、ゆっくりと腕の力を緩めた。
今度は不意にあらぬ方を見上げる。
直人くん……。
今日の直人くん、なんだかおかしい。
「果南。そこに座ってろよ。今、お茶淹れて来る」
でも、彼はいつもの彼に戻っていて、部屋の中央のガラステーブルを指さすと、部屋を出て行った。
私は手にしていたコートとバッグを脇に置いてテーブルの前に座り、部屋の中を見回してみたりする。
ベッド、デスク、本棚、オーディオ、TV、ノーパソ、鏡そして、今弾いてくれたばかりの直人くんの愛器・YAMAHAのグランドピアノ……。
それに、やはりクラシックが好きなのだろう。床の上にはクラシック音楽の定番雑誌『音楽の友』がページを開いたまま置きっぱなしになっている。
更によく見ると、壁にはアイドル女優の水着姿のポスターが!
十代の男の子の部屋なんだから、水着のポスターの一枚や二枚、貼ってあっても不思議ではないのだけれど、なんだか複雑な気分……。
これって……ひょっとして、ジェラシー?!
それにしても。
私って、男の子の部屋に入るの初めてよね。
キョロキョロと彼の部屋の中を見渡しながら、どこか所在なげな私は、改めて思う。
男の子からの誘いがないわけではなかった。むしろ、しょっちゅう声をかけられ、LINEをしつこく聞かれる日々には、うんざりしている。
男の子とのおつきあいに関心が薄く、また警戒心が強い私にとっては、男の子の誘いに乗りしかも部屋を訪ねるなど、到底疎い出来事なのだ。
なのに、今。
私は『彼』の部屋の中にいる。
私は、こんなにも直人くんのことが……好き……。
巡り合わせの妙をしみじみと私は感じていた。
「カナン。珈琲入ったぞ」
程なくして彼が部屋に戻ってきた。
「わあ。これ、もしかして『ダニエル』の苺のブラマンジェ?」
彼は、珈琲と一緒にケーキも運んできてくれた。
「ああ。果南好きだろ。ダイエットの邪魔しちゃ悪いかとも思ったんだけど、今日くらい、いいだろ?」
「勿論!」
満面の笑みで応える。
「この珈琲も……カフェ・ベロナ?」
「ビンゴ! 果南の好みは承知してるからさ。昨日、スタバで豆も買ってきておいたんだ」
そんな彼の気遣いに感激しつつ、私は淹れ立ての珈琲と大好きな季節限定の苺のブラマンジェを頂きながら、白いもふもふファー・トートバッグの中から
「直人くん。……これ」
と、今日ここを訪れた目的の物を差し出した。
彼の瞳が急に生き生きと輝きを増す。
「開けても、いい?」
「どうぞ」
彼は、臙脂色のリボンシールが貼ってある茶色い紙袋の中身を覗くと
「美味そうだなあ……!」
と、嬉しそうに呟いた。
それは、瓶詰めのチョコレートトリュフ。
今日は2月14日。『聖ヴァレンタイン・デー』。
今年はちょうど土曜日と重なった。
彼がそれを意図していたかどうかはわからないが、彼は今日、初めて私を自宅へと招いてくれた。
だから、彼の家でチョコを渡そうと、あらかじめ密かに用意してきていたのだ。
「これってひょっとして、カナンの手作り?」
「う、うん……。初めて作ったから下手だけど……」
「そんなことないよ。形も綺麗に揃ってる。一個、食べていい?」
「どうぞ」
彼は瓶の中から一粒つまんだ。
咀嚼音をドキドキしながら聞いていたが
「うん! 美味い! チョコレートがビターで俺の好み」
「良かったあ」
心底、そう呟いた。
お菓子を作ったことがないわけではないけれど、本格的な手作りチョコは今回が初めてだった。
どうしても失敗したくないからこそ、ハードルも上がるというもの。
「果南は食べないのか?」
「私はダニエルのケーキだけで充分。それに、一個でも多く直人くんに愉しんでもらいたいから」
「カナンの気持ちは嬉しいけど」
そういうと直人くんは一粒、トリュフを口にした。
そして、私をその胸に抱き寄せると
「な、直人くん……!?」
「美味い、だろ?」
彼は口移しでチョコを私の口の中へと入れたのだ。
甘く、ややほろ苦いトリュフの味が、口いっぱいに広がってゆく。
私の好きなチョコレートを使って作ったはずなのに、何故だかいつもと違う味のような気がする。
「カナン……」
彼はそう呟くと、次の瞬間
「直人、くん……!」
フローリングの床の上に私を押し倒したのだ!
助けを求めたいのに、言葉が出ない。
彼からは、チョコレートの甘い香りが漂ってくる。その甘い口唇で口づけられる。
彼の右手が私の白いカシミヤのセーターの裾を手繰り上げ、ローズピンクの花柄のシフォンのミニスカートの中へと入り込んでくる。
イヴの夜、全身を走ったあの電気のような感覚が蘇る。意識が朦朧としてきて、私は言葉も、なす術もない。
彼の愛撫はあの夜以来、初めてだった。
キスは数え切れないくらい、毎日のように繰り返してきたけれど、直人くんは決してそれ以上、私を求めなかった。
私は今、この瞬間まで、彼のその優しさを当然のように思っていた。
それが私の傲慢であったことを今更ながら、つくづく、身をもって私は思い知らされていた。
「直人くん……直人くん……」
薄れゆく意識の中で、譫言のように彼の名を呟きながら、無駄と知りつつ、私は彼から逃れようと必死でもがく。
利き腕でもないのに彼は左手で器用に私の自由を封じながら、右手で私を探ってくる。
そして彼はとうとう、その逞しく引き締まった両腕で私を抱え、ベッドへ横たえた。
私はすぐ起き上がり、横座りのまま後ずさったが、背後はすぐ壁へと行き当たり、逃げ場はない。
着ていたシャツを思い切りよく脱ぎ捨てると彼は、ベッドの上にいる私の方へと近づいた。
「な…直人、直人く……ん……」
言葉も躰も震える私を抱き締めると、彼は
「カナン……。愛してるんだ」
一言、そう呟いた。
「果南は。純真で、純粋で、無垢で。こと、男女の機微にかけては幼くて……。俺が今まで接してきた女達の誰とも違う。だから……花が開くように、果南が自然に目覚めてくれるまで。大事に。そっと大切にしようって思ってたんだ」
囁きながら、狂おしげな息を吐く。
「でも……。だから、さっき。初めて果南の方から、キス、してくれて。死ぬほど嬉しかった」
愛おしそうに、私をなお強く抱き締めながら
「やっぱり、もう限界だ」
彼の声はまるで今にも泣き出すかのようだった。
「一生涯かけて、愛する。他の娘には決して手を出さない。今まで女との交友関係は正直いい加減だった俺だけど、これからはカナンだけを愛し続ける。約束する。心から誓うから。だから」
彼は私の瞳を見据えて言った。
「カナン。……果南が欲しい」
私の心は千々に乱れていた。
怖い……。
それは例えようもない恐怖と言ってよい。
自分の躰がどうなってしまうのか。
どんな変化が起こるのか。
でも。
他ならない直人くんからのこの上ない愛の告白。
私は瞳を閉じて、彼の胸へと震えるその身を自ら、預けた。
「果南」
安堵したように私の名を小さく呟くと、彼は再び私を優しく強く抱き締めた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
・・・・・・・・・・・・
カナン……果南……
誰かが私の名を呼んでいる。
ひどく懐かしい、その声は……。
「……カナン。目、醒めたか?」
「直人くん……」
開いた瞳の前には、直人くんの顔があった。
心配そうな彼の表情。
「私……。眠ってた……?」
「ああ。暫くの間な」
部屋の南側のバルコニーの外は、もう黄昏時だった。
どのくらいの間、こうしていたのだろう。
よくは思い出せない……。
「……その。躰……。平気か?」
彼の言葉で改めて自分の躰が常になく重いことを意識する。
「やっぱり無理、させたよな……。すまない」
「ううん。大丈夫」
微かに笑って応えた。
本当は、ほとんど気を失いかけたほど、それは衝撃だった。
でも心は、今まで過ごしてきた時間のどの瞬間よりも幸福感に満ち溢れている。
「直人くん」
彼の胸へと再び身を預ける。
また、泣きだしそうになる。
「果南。……何故泣く」
「幸せだから」
「俺も今、人生で一番最高に幸せだよ」
彼が私をそっと抱き締める。
2月14日・聖ヴァレンタイン・デー。
「愛してる……。果南」
「直人くん。私も……」
チョコの匂いの香る、文字通り甘い口づけを交わし、契りあい、直人くんと私……二人にとって、それは決して忘れられない『記念日』となった。
本作は、藤乃澄乃さま主催「バレンタイン恋彩2企画」参加作品でした。
作中イラストは、「AIイラストくん」を使用しました。
参加させてくださった藤乃澄乃さま、そしてお読みいただいた方、どうもありがとうございました(^^)