第1-7回
ニッコサンガにやって来てすぐ、俺はスタックスさんと共に、役所を訪ねていた。
どうやっても思い出せない、自分の名前の手掛かりを探す為に。
腰に差してあった短剣に書かれた文字は、自分の名前では無さそうだという見解が出てしまい、今は右の手形を取ってもらい、それから先の手続きを行なってもらっているところだ。
「やあ、すまんね。これで手を拭いてくれ」
戻って来たトーカーさんはそう言いながら、薄らと黒みがかった布を手渡してくれる。
「ありがとうございます」
受け取ってからそれで手を拭いていると、横に居るスタックスさんが彼に話しかけた。
「なあ、これからどうやって調べるのか、教えてくれないか?」
どうやら彼も、名前も分からない状態で国外の人を調べる方法が気になるらしい。
それは、自分も気になっていた。
いったいどうやって調べるんだろう。
「これを持っているんだ、おそらく国軍に徴収された人間のはず。ならば、スティッケル王国の兵として台帳に手形などの情報と一緒に紐付けされているはずなんだ。手間は掛かるが、所属部隊を調べてそこから手形と照合していけば、多分名前も分かるはず」
「なるほど」
彼は軽く手を叩いた。
自分が所属していた、スティッケル王国はかなり手厚く戸籍を管理しているんだな、という事がその説明だけでも雰囲気で分かる。
何も知らない自分でも、その説明だけで何となく理解する事が出来た。
「って事は、その短剣もしばらく預かりになるのか」
「まあ、そうなるな」
ああ、そうか。
所属部隊が分からないと、手形だけで探す事になるんだもんな。
それじゃあ、日数がもっと掛かってしまう事になるか・・・・・・。
「どうしよう、彼は何処かに身寄りはあるのか?解読は明日にでも終わるから、すぐ返せると思うのだが」
「あっ、なら私の居る、あの支部に持って来てくれ。しばらくそこで彼を預かっているから」
えっ?
という言葉が思わず浮かぶ。
が、すぐにここへ来る前の彼の言葉を思い出した。
ああ・・・・・・そうだ。
スタックスさんが、しばらく預かってくださるんだ。
そうか・・・・・・ありがたい。
「そうなのか?」
トーカーさんに声をかけられ、頷きながら笑みを返す。
「はい、しばらくお世話にならせてもらいます。本当に、スタックスさんには感謝もしきれません・・・・・・」
「ああ、いや。そのまま放ってはおけないし、ははは」
スタックスさんは恥ずかしそうに笑みを浮かべていた。
「そうか・・・・・・分かった」
トーカーさんもうん、うんと頷き、軽く笑みを溢している。
さて、と軽く息をついてから、彼の表情がふっと元に戻る。
「で、しばらくの生活はどうするんだ?他に身寄りがあるのか?働き口とか」
その言葉に彼の表情も落ち着いたものになる。
いや、今の自分に身寄りは無いんだ。
何も、何も思い出せないから・・・・・・。
「どうだろう。何か思い当たる場所でもあるかい?」
彼に尋ねられるが、答えられる場所は無い。
「すみません、無いです・・・・・・」
そう返事するしか無かった。
「なら、名前が分かるまでの間、私の所を家だと思ってくれたらいいさ。君が思い出せるまで、私も徹底的に支えていくよ」
スタックスさんは、そう語りかけて笑顔を向けてくれる。
その表情にほっとした気持ちがして、不思議とまた目頭が熱くなったような気がした。
「と言う事は、しばらくここに居るって事だな」
「まあ、そうなるな。しばらく私の所で預からせてもらうよ」
「分かった。じゃあ仮の戸籍を作る手続きも一緒に取ろうか」
お願いするよ、と彼の言葉を受けて、またトーカーさんは奥の方へと消えていった。
ふと辺りを見渡すと、自分達の他に待っている人は居らず、職員の人達も来た時より少なくなっている。
窓の向こうに映っていた空も、すっかり暗くなっていた。
「その、スタックスさん。本当にありがとうございます」
震える目尻をぐっと堪えて、もう一度彼に深くお礼を述べた。
「いいっていいって!こんなの気にしなくて、本当にいいから!」
彼は変わらず、屈託の無い笑顔で応えてくれた。
その表情に、また心の中がふっと温かくなった。
「二人とも、すまないがここに書ける事を書いてくれ」
戻って来たトーカーさんが、一枚の紙を手渡して置いた。
紙に書いてある文字は、やはり自分には何も読めない。
スタックスさんは気にする事なく、ペンを手に取りインクに浸してから、すらすらと文字を書いていった。
すぐに書き終わった部分や、つらつらと長く書いている部分。
彼の書いている内容が気になり、思わず目で追ってしまう。
「さあ、君の名前。どうしようか」
彼はペンを止めて、目を見ながらそう尋ねてきた。
「えっ・・・・・・」
紙に視線を戻すと、上の方に何も書かれていない部分がまだ残っていた。
ここに自分の、仮の名前が書かれる・・・・・・。
そう考えるとまた、ばくばくと胸が高鳴ってくる。
「とは言え、名前も分からない状態なんだろ?何と呼んだらいいのか、そんなの彼もどうしたらいいか、難しいよなあ」
腕を組みながら、トーカーさんが言葉を漏らす。
「うん・・・・・・。まあそうなんだけどさ、ここはじっくり、自分のペースで考えなよ。慌てなくていいからさ」
「大事だから、そりゃ慌てなくてもいいけれど・・・・・・。いや、別に飛ばしてくれてもいいんだよ。ここは後で、どうとでもなるから」
トーカーさんは、一瞬後ろを振り返り、スタックス支部長に返事をする。
見渡す感じ、彼以外に働いている人は居なくなっていた。
彼の表情に焦りの色が見えている。
早く、彼を帰してあげないと・・・・・・。
そう思うと、より胸の鼓動が早くなっていく。
「無理なら、無理でも大丈夫だから。あくまで仕分ける為に、仮の名前を決めておくだけだから。無理なら番号入れて終わりだし・・・・・・」
「ま、まあトーカーさん。それじゃちょっと味気無いよ。仮だから深くじゃなくてもいいだろうけどさ、せっかく名前なんだし。もうちょっとじっくり待ってくれても、な?」
「う、うーん・・・・・・」
彼はどうしたらいいのか、と凄く困った表情を浮かべていた。
どうしよう、ああ・・・・・・何とかしないと・・・・・・。
良い響きの、名前みたいなもの・・・・・・。
早く彼を、ここから解放してあげないと・・・・・・。
その一心で、もう数字でも良いです、と答えそうになった時。
はっ、とある音が頭の中に浮かび上がった。
「あの、スタックスさん。アールって書いてください」
支部長は何度か目を瞬かせてから、また俺に尋ね返してきた。
「アール、でいいんだね?」
「はい、お願いします」
彼はすらすらと文字を書いていく。
アール、あれがアール。
仮の戸籍を記した部分に書かれた文字を、しっかりと目の奥に刻み込んだ。
「よし、じゃあ名前の所に指を押して」
スタックスさんが指印を押してから、インクに指を浸して『アール』と書かれた部分の横に、ぐっと押し込む。
書類を手に取り、トーカーさんはホッとした表情を浮かべ、軽く溜め息を吐いていた。
「よし、これで受理出来たから。名前が分かるまで、しばらくはこれで安心出来ると思うよ。ナイフは明日にでも、取りに来てくれたら返せるから」
「分かった。今日は時間掛けてすまなかったな、この埋め合わせはまた・・・・・・」
「いいっていいって!仕事の一環だし、またセッちゃんに渡してくれたら、俺はそれでいいから!」
「なんだ、やっぱりしっかり取るところは取るじゃないか」
ははは、と笑い合う二人。
外はもう暗くなっていたが、二人の笑顔はぽかぽかと明るいものだった。
「それじゃ、また分かったら連絡をくれよ」
「ああ、ばっちり調べておくから」
俺もトーカーさんにお礼を述べる。
「すいません、今日はありがとうございました」
「いやいや!少しでも、何か思い出せたらいいな。頑張れよ!」
ありがとうございました、ともう一度礼を述べて、見送る彼に背を向けて、俺は後にするスタックスさんに続いて行った。
扉を開けると、外からぐんと冷えた空気が抜けてくる。
だが、心の中は何か温かいものでたくさん、満たされているような気がした。
「よし、アール!帰ろうか!」
「はい!しばらく、お世話になります!」
彼の呼び掛けに、俺は明朗な言葉を返し頭を下げた。
笑みを浮かべてから、彼は頷いてすたすたと歩き始めていく。
アール、と言う響きを胸に刻みながら、彼の背中を追いかけていった。
-続-