第0-1回「ひとり」
──────。
寒い……寒い……。
寒くてたまらない……。
寒くて、寒くて……。
突き刺さってくる強い寒気に、ハッと目が覚める。
見えるのは地面と、淡い赤色の空。
それと向こう───手の届きそうな向こうに、何かが横たわっている。
なんだ……?
いったい何だ、と目を擦ってみると、ぼんやりとしたそれが少しずつ、はっきりと見えてきた。
死体。
それは人の死体だった。
ひっ!!
寒気も忘れるほどの、恐怖。
訳も分からず起き上がって見渡すと、それは───土色の肌をしたそれがこっちを見てきていた。
それらは人の死体に手を掛けて、身につけられていたであろう物を奪い取って、引きずって一つの場所に固めていっている。
離れた向こうに見える、車輪のついた物。
それの上には死体が────積み上げられた死体が見えた。
あ、ああ……!!
体が震える。
がちゃがちゃと、自分が身につけている物から音が聞こえるほどに、震えてくる。
土色のそれも、こっちに気づいた。
後ろを振り向いて何か叫んでいる。
叫んで、指差している。
やって来る────『死』がやって来る。
自分は背を向けて、走り出していた。
走っていく方向に、土色のそれは見えていない。
荒れた地面に盛り上がった場所がぼこぼこと、ぼこぼこと広がっている。
とにかく、とにかくここから逃げないと……!
ただそれだけを、逃げる事だけを考えて、荒れた地面を蹴り上げて、走る。
走り続ける。
後ろから聴こえて奴らの声と、音。
たくさん、たくさん追って来ている。
聴こえるそれはどんどん大きくなって、どんどん近づいてくるのが分かる。
奴らに追いつかれたら────。
自分も、ああなるんだ。
思い浮かんだのは、積み重ねられた死体の姿。
「わあああああ!!!」
無意識のうちに腕を振りながら、声を上げていた。
それでも、奴らの音はどんどん近づいてきている。
振り返ったら、すぐに捕まってしまうほどに、そこまで奴らは迫っていた。
盛り上がった部分を一つ走り越えて、二つ走り越えて、とにかく走って走って、走り続ける。
すると目の前に、大きく広がった川が見えてきた。
橋も架かっていない、広く大きな川。
気がつけば荒れた地面にも少しずつ緑が広がって、草木がぽつぽつと見えるようになってきている。
このまま向こうへ走っていいのか?
と思う間もなく、何かに足が取られてしまった。
あっ!
もうダメだった。ずるりと前に腕を持っていかれて、手を突く暇もなく、ずでんと体が叩きつけられる。
叩きつけられたと思えば肩を、頭を、足をぶつけながらごろごろと地面に叩きつけられ、落ちていく。
「痛っ!!あ゛ぁっ!!」
がちゃがちゃとした音の中で、ぶちりと何かが千切れる音と共に、刺さったような痛みが体に走っていく。
やがて滑りは収まり、叩きつけられる衝撃も無くなる。
でも……痛い。
涙が出そうなほどに体の全部が痛くて、痛くてたまらない。
それでも、音がするのでその方向へ顔を向ける。
あの、土色の肌をした奴らが、仲間たちと協力するように、どこかを指差して複数で走っていったり、こっちに向かって滑り降りてくる。
俺、あんなに滑り落ちたのか……。
と思うほどに、視線の先には、緑がまばらにある法面が広がっていた。
いやそれどころじゃない、奴らも滑り降りて来ているじゃないか。
逃げないと、逃げないと……。
起き上がると肩に、足に痛みが強く広がる。
とにかく、とにかく逃げないと────。
頑張ってごつごつとした、石の散らかった岸を走る。
走るが、後ろから近づいてくる音は、滑り落ちるまでに聴こえていた時よりも、ずっと早く近づいて来る。
横に目を向けると、自分の走る方向へ奴らが、先回りをするように走っているのが見えた。
ダメだ、こっちは捕まる!
そうなれば、川へ逃げるしか……。
助かりたい、その一心で流れる清流に足を踏み入れる。
だが、もう手遅れだった。
追手が何かを叫んで、俺の腕をがしりと掴んでくる。
振り解こうと腕を振り回すが、まったく振り払えない。
締め付けられるほどにそれは強く、醜悪でまとわりつくような力が、グッと布越しに食い込んでくる。
「やめろ!離せ!!」
叫びながら、腰を落として腕を上下に振り回す。
奴も何かを叫んでいる。
奴の後ろからは、土色の追手がぞろぞろと集まってきていた。
ふと奴の顔に目がいくと……。
その目はどす黒く、無駄にぎょろぎょろと動いて、俺の姿を捉えて、離さない。
奴の目がよりいっそう、恐怖を駆り立てた。
捕まりたくない────!!
死にたくない!!
その一心で腕を振り回し、奴を引きずりながら進む。
とにかく、とにかく川へ逃げたら……。
「うあっ!!」
沈んだ石に足を取られて、思わず転けてしまう。
だが、運が良かった。
掴んでいた奴の手が、離れたのだ。
逃げるなら今しかない。
立ち上がると一目散に、川の中心へ向かって駆けていく。
後ろから水飛沫の飛ぶ音がして、奴らの声も聞こえてくる。
無我夢中で走り続けると、もう膝ほどに深いところにまで、体は達していた。
何とかなれ!と思い、今度は水面に向かって飛び込む。
ざばんと耳を叩きつける衝撃。
鼻にまで入る冷えた水の流れ。
「はあっ……はあっ……」
寒い───。
何もせずともがたがたと、顎が震える。
だがじっとしている訳にもいかない。
奴らも散り散りになって、流れていく先へと走っていったり、何かを取りに走って戻っていったりしている。
奴らがまたやって来る前に、俺もなんとかしないと。
幸い、今は爪先がまだ川底に接している。
そして、向こう岸に奴らの影はまだ見えていなかった。
それなら、上手く体を休めつつ、機を見て向こう岸へ泳いでいくとしよう。
そんな事を考えながら、川底をちょんちょんと足で蹴りながら、流れに身を任せてしばらく泳ぐ事にした。
◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆◇◆
それにしても、ここはいったいどこなんだ……。
いや、違う。それだけじゃない。
俺は────うん?
『俺』は?
自分はいったい、いったい『誰』なんだ?
川に流され、ひと息つきながら頭の中を整理しようにも───。
何一つ、何を、どう考えても。
分からないしか、出てこない。
名前も、自分がどこで生まれたのかも、親の顔さえも……。
それでも、水の冷たさと吹き寄せる風の感じが、それとなく暫定的な答えを伝えてくれていた。
そうだ、俺は────この世界の者じゃない。
それだけはうっすらと、なぜか理解する事が出来ていた。
……さあ、どうしよう……。
このまま流されて、いつか岸に着くとしても、それからどうすれば……。
冷たい川で頭を冷やしても、答えは何も出てこない。
それでも、じっと考える猶予は俺に与えられていなかった。
群れてじっくりと、こちらの様子を窺う土色の化け物達。
奴らは川に入らず、後をつけるようにぞろぞろと岸を歩き続けている。
なら、今は少しでも早く、向こう岸に行こう。
そう腹を括ると、また軽く川底を蹴り、まだ奴らの居ない岸に向かって、ざばざばと、水を掻き分けて泳ぐ事にした。
いったいこれから、自分の身に何が起きるのか───。
何も知らないまま。
-続-
・ここまでの拝読、ありがとうございました。