中編
朝子の悩み、個人的に分かります。
朝子は、前夫との7年間は何だったのだろうとむなしくてむなしくて、切なかった。
今だから冷静に振り返られるが、前夫が朝子を求めてくることはなく、朝子も経験がなかったため、どうしてよいか分からず、結局一度も体の関係を持たなかった。
その間、家庭での鬱憤をはらすかのように仕事をした。
仕事は家庭生活と反比例して、ことごとく順調だった。
でも、いやだからこそ余計に7年間を無駄にした、早く離婚すべきだったと、ただただむなしかった。
仕事中はしっかり自分を保つように心がけていた朝子。
職場でも離婚のことは知れ渡っていたが、何事もなかったように接してくれた。
それが、ありがたかった。
しかし、そこに律が一言はなったのだ。
「先輩。大丈夫ですか?顔色が優れませんよ。辛かったら辛いとおっしゃてください。仕事のパートナーとしても心配です。まずどんな思いで、どんな考えでいらっしゃるのか言ってくれなければ分かりません。僕は、会話しなければ、先輩のことを本当に知ることはできないんですから」
朝子は、それを聞いて雪崩のように涙腺が崩壊した。
律は、ずっと話を聞いてくれた。
職場の上司でも同期でも言えなかったことを今までずっとコミュニケーションを大切にしてきた律だったからこそ話せた。
それでも、すぐには恋愛に発展しなかったのよねぇ。
朝子は、片栗粉を水でとく律を遠い目で見つめる。
結婚するまで5年もかかっちゃった。
その5年間、いっぱいいっぱいお互いのこと話して、いっぱいいっぱい好きなものや嫌いなものを知ったなぁ。
それでも、全て分かりあうことはできなくて、でもお互い寄り添いたい思いは確認して、別のベクトルに向かいそうな時は、妥協案を出すのも楽しかったなぁ。
朝子の鼻がつんとした。
現状に不満などあるはずがない。
ないはずなのに、私はどうしてこうも心から律の存在に強く心が動かされなくなってしまったんだろう。
「朝ちゃん、片栗粉入れたよ。どう?」
ぼーっとしていた朝子は、現実に引き戻された。
「うん、豆腐がぐつぐつしているね。完成でいいと思う」
律がいそいそとお皿を並べる。
こんなに、よくしてくれているのに……。
前夫なんてお皿を並べるどころか、お水さえ自分でくまなかったわ。
それなのに……。
朝子の心にじわじわと苦い感情が広がっていく。
お皿にマーボ豆腐を盛って、残り物のおだいこんの煮物を出した。
「紫蘇の味、やっぱり負けちゃったね」
「うん。そもそも紫蘇とはあまり合わなかったかもしれない。なんか相乗効果になれば、とおもったんだけどな」
「じゃあ、次回は律のマーボー豆腐にだけ刻んだ紫蘇を入れてみれば?」
朝子は、二人にとっての妥協案を出した。
「そうだね。そうするよ。合うか合わないか、ほんとのところが分かるね」
律は、にっこり笑って言う。
幸せなんだろうな。
朝子は思う。
律とたくさんの会話を重ねてきたからこそ、こんな風にいられるのだ。
そして、何より律は良い人だ。
「私は何をマーボー豆腐にトッピングしようかな?」
律は、おかしそうに笑った。
「気を遣わなくていいよ、朝ちゃん。朝ちゃんは、何でもシンプルな料理が好きだろう?」
あっ、ここは分かっていない。誤解がある。伝えよう。
「違うよ、律。律に気を遣ったんじゃないよ。紫蘇は家にあるもので買ってくるものではないでしょう?律が私に悪いと思うと思って、私もトッピングすれば律が気を遣わないと思ったという訳じゃ全然ないよ」
「ああ、そうなんだ。でも、珍しいね。あまりソースさえかけない朝ちゃんが、さ」
「うん。なんか料理のレパートリーを増やす訓練になるかと思って。卵なんかどうかな?」
「うん、いいかもね。でも、僕は今のままのレパートリーでも不満は本当にないからね」
「わかった。でも、おいしいもの律に食べさせたいし、私も食べたい」
やっぱり、こういうのは幸せなんだろうな。
こんなささやかなことが幸せなんだ。
どんどん律と心が重なっていく幸せ。
分からなければ、徹底的に会話すればいい。
それでもだめなら、妥協案をだせばいい。
分かっているのに、そうしているのに。
どうして私は律に、昔のように強く熱い愛情が湧いてこないの?
こんなのいやよ。
本当に大切なものを、慣れなどに引っ張られず大切にしたいだけなのに。
朝子は、「やっぱり紫蘇とは合わないかもなあ。でも、試すの楽しみ」なんて言いながら、マーボー豆腐をおいしそうに食べる律を直視できなかった。
ここまで読んでくださって、ありがとうございました。
何か感じることがございましたら、感想などいただけると幸いです。