前編
マーボ豆腐に紫蘇(大葉)って合う?
もう11時半。そろそろお昼の用意をしよう。でも、暑くて火を使いたくない。
休日の昼前、朝子は冷蔵庫の中を探った。
「残り物のおダイコンの煮物とキムチ、それとネギトロがある」
そう言うと、
「お昼いらないよ。なんか暑くて食欲がない」
と律が答えた。
律には朝「今日のお昼はマーボー豆腐にしようか」と伝えてある。
そうか。予定どおりマーボー豆腐が食べたいのか。
「やっぱり、マーボー豆腐にする」と、朝子は冷蔵庫から豆腐とネギとマーボー豆腐の素を取り出した。
朝子の家では、素を使う。
ひき肉が好きでない朝子は、ひき肉が申し訳なさ程度の量でも簡単に味が決まるマーボ豆腐の素を使う。
律もそれでいい、と言ってくれている。
何もかも手作りをしている友人の家庭を思い出して、朝子は少し同情した。
まず、ネギを洗う。
水道の水でも、やはり手に触れると気持ちがよい。
リズミカルにネギを刻んでいく。
「ねぇ、朝ちゃん。紫蘇をいれてみない?」
キッチンに律がやって来た。
手のひらにベランダで栽培している紫蘇を10枚くらい抱えている。
「紫蘇?う~ん、マーボー豆腐に合うか合わないか私には想像つかないわ」
「ネギと一緒に入れてみようよ。ネギと一緒に煮立たせよう」
センテンスにするとたったの2文。
でも、そこには律の気遣いがつまっている。
朝子は、生の紫蘇だと細かく刻んでものどにつかえてしまう。
風味を考えれば、きっと豆腐の後に紫蘇を入れた方が際立つ。
でも、それでは朝子が食べられないから、煮立たせることを律は提案したのだ。
家族になったな、と思う。
律と結婚して6年目だけれど、言葉の奥の心が手に取るように分かるようになってきた。
でも、きっと。
朝子は思う。
でも、きっともっと言葉の奥には色々なものが詰まっているのではないだろうか、と。
紫蘇は律が切っている。
細かく同じ太さに紫蘇が切られていく。
「律、相変わらず器用。どんな味になるかな」
この言葉の中には、朝子の「不器用でごめん、ありがとう」も入っている。
その思いは律には通じていると思うけれど、それだけじゃない。
小さいころから図工が苦手だった、でも絵を描くのは好きだった、なんて思いも無意識にのっけているかもしれない。
朝子は、お互いのことを知るたび、のっかっていく思いも増えるのかな、なんて想像する。
前夫との生活では、そんなことは考えられなかった。
22歳の時に5歳年上の夫とお見合い結婚をした。
夫はハイスペックだったが、無口だった。
最初の頃こそ、一生懸命話しかけた朝子だが、夫は「うん」とか「これはやめてくれ」「分かった」など、いつもめんどくさそうに答えるだけだった。
いつしか朝子は、夫の表情のみで察することを覚えた。
しかし、その生活は、律との生活のように、深みがあるものではなかったし、喜びもなかった。
お互いを知らないのだから、そうなるのは必然だ。
夫の両親、兄弟からは時々夫の過去を聞いたが、夫婦なのに本人から一切何も聞けないのだ。
それは、知らないということと同意義だろうと朝子は寂しく思った。
そのころ、同じ会社で新入社員として入ってきた律と知り合った。朝子は律と営業でタッグを組んだ。
あらかじめ言っておくが、朝子は不倫などしていない。
ただ、律との会話は、とても楽しかった。
仕事のことが中心だったが、自分のことを実直に話してくれる律に、朝子は涙が出そうになった。
それは、あくまで気の許す仲間としてだったが、それさえ嬉しいと思うほど、前夫は朝子に無関心だった。
そして、お互いコミュニケーションがうまくいっている朝子と律のタッグは、営業成績が一番で表彰された。
朝子は、その夜すき焼きを作って、夫を待っていた。
その日は、夫が早く帰ってくる日だと経験上知っていたし、自分への労いとお祝いも兼ねていた。
でも、なぜかその日夫は帰ってこなかった。
携帯も通じない。
実家にもいない。
ぐつぐつと鍋が煮える音がきこえるだけのおかしな静寂の中、朝子は経験など何も役に立たない、会話をしなければ相手を本当に知ることはできないと、何とも言えない気持ちになって泣いた。
それから、夫とはすぐに離婚した。
なんてことはない。
夫は、不倫していたのだ。
朝子と結婚する前からの付き合いだったそうだ。
すき焼きを作って待っていた夜も、不倫相手が気分が悪いと言い出して、そのまま泊ったのだそう。
朝子が「離婚しましょう」という言葉にさえ、眉一つ動かさず、慰謝料代わりに100万円を渡された。
朝子は、がんとして受け取らず、その日の内に家を出た。
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