畑山良和を知りませんか?
畑山良和を知りませんか?
これは高校二年の頃の話しだ。
俺は他に同級生も居ない様な田舎から、毎日電車で通学していた。
そこは無人駅で、川沿いの県道になぞるようポツンとあるのだけど、交通もほぼ無く、流れる川の音と、駅前に二つか三つある外灯の小さな明かりしかなかった。そうしてそこを過ぎ去ると、鬱蒼とした山林を両脇にした不気味な闇に囲まれる。最寄りの駅ながら、正直良い印象は持っていなかった。
ある冬の日。部活を終えて夕方の七時頃にその駅に降りた。同じ駅で降りる人がいる居る訳もなく、辺りは静寂と、川から吹き抜けてくる冷たい風に満たされていた。学ランの上に着た黒いジャケットの襟を立てて改札を抜けると、駅前の白い外灯の下に、赤いコートを着た長髪の女性が立ち尽くしているのが見えた。
その時は別段何かと思うことはなかった。この無人駅への交通手段は限られているので、タクシーやら迎えの車を待っている人を稀に見かける事もあった。ただ俺の様にこの無人駅から歩いて帰れる程近くにある家は、数える位だったと記憶している。
改札を抜けて、小さな階段を降りた先の外灯の向こう側の道が俺の帰路だったので、その女のすぐ横を通り過ぎていった。
「……知り…………んか?」
女は少し俯いたまま、長い髪を垂らして表情を覆い隠し、ぶつくさと呟いていた。誰に言ったのか、……まぁそこには俺しか居ないんだけれども、微動だに動かずにこちらを窺おうともしないその女からは、独り言なのか俺に問い掛けているのかが判断出来なかった。
辺りの闇とざわざわと鳴く山林の気配も相まって、唐突にその女が異様に思えてきた俺は、その女が呟いていたのは独り言であると決め付けて、その場を立ち去った。しばらく歩いてから振り返ると、その女は外灯の下に同じ姿勢のまま照らされていた。
その女は、それ以降毎日そこに現れるようになった。同じ場所に同じ姿勢、同じ赤いコートを着て、俺が部活を終えて駅に辿り着く七時頃に必ずそこに立ち尽くしている。俺はその女の横を毎日通り過ぎて帰路に着く事になった。
……女が現れるようになってから一月が経過していた。女の様相は次第に乱れ、髪は汚れてぼさぼさになり、異臭を放って、赤いコートにもシミのような汚れが目立ってきた。
「……畑山よし…………知りませんか?」
その時の俺にはもう、女が飽きもせずに何事を呟いているのかが、毎日横を通り過ぎる時に聞かされる言葉の断片から、おおよそ理解が出来ていた。
あの女はこう繰り返し続けているんだ――
――畑山良和を知りませんか?
赤いコートの女は、毎日この寒空の下で、何の因果があるのか、こんな無人駅でその男の行方を尋ねていたのだ。
女が俺に問い掛けているという事実に肌に粟が立ったが、俺はそれからも、気付かぬふりをして女の横を通り過ぎていた。
振り返ると、やはり女は白い外灯の下に立ち尽くしているのである。
その女への恐怖に苛まれた俺は、ある時同じ部活の鈴木卓也にその話しをした。卓也は勝ち気な性分で、俺の話を聞くと豪快に笑って、坊主頭を撫で上げながら「俺が何のために毎日そこに居るのか聞いてやるよ」と言った。
俺はそいつと変に関わりを持つのが嫌で断ったが、卓也は言い出すと聞かない。俺の母親とも仲が良く、狼狽する俺の鞄からスマートフォンをひったくって、慣れた手付きでロックを解除するともう電話を掛けていた。
「今日お前んち泊まっていいって!」
一方的な言動に目眩を覚え、相談する相手を間違えたとも思ったが、俺も俺で、その女が何故そこに居て、そして何故その畑山良和という男を捜しているのか、というのには興味があったので、無理には断らなかった。
その日の晩。
「あれか? あの女だよな、赤いコートの……うわぁーマジで居るのかよ。本当に何か言ってるよ」
「だから毎日居るんだって」
部活を終えた俺と卓也は無人駅に降りた。誰も居ない改札口の向こう側の外灯の下には、やはりあの女が立って俯いている。
「……行こうぜ」
「お前先に行ってくれよ、お前が聞いてくれるんだろ?」
「……こえーなー」
卓也はパシンと自分の額を叩いて気付けすると、改札口の手前で見守る形になった俺を置いて改札を抜けていった。小走りで小さな階段を降りて、その外灯の下の背中に近付いていく。大きな深呼吸をした卓也の肩が上下しているのが見えた。
やがて、その女の背後で立ち止まった卓也の大きな声が聞こえてくる。
「お姉さん、何でいつもここに居るんすか?」
「……畑山良和を知りませんか?」
女は卓也の方に振り返ろうともせずに同じ言葉を繰り返した。
「誰なんすかそれ?」
「畑山良和を知りませんか?」
「だからー、誰なんだよそれ、こんな片田舎に関係ある人なんすか?」
「畑山良和を知りませんか?」
「あぁーもう、知ってる知ってる。その畑山良和、知ってるよ俺!」
「え……?」
痺れを切らした卓也はホラを吹いた。俺は卓也が畑山良和という男を知らないのは確認済みだった。卓也は会話になら無いその女との問答に変化を求めて、そんな嘘をついたんだ。
その言葉に反応した女は、ぶるぶると体を震わせながら、勢い良く卓也の方に振り返って、取り乱した様子で声を荒げる。
「何処にいるの!? ねぇ!?」
俺からは女の表情が見えなかった。だけど卓也の表情が、振り返ったその女を認めると同時にみるみると青ざめていって、言葉を失って口をパクつかせているのだけが見えた。そして卓也は情けない声を上げて逃走していった。
「……ぃ…………ぃいいいっ!」
女は卓也を追って闇の中へと駆け始めた。
何がどうなっているのか、気が動転していた俺だったが、直ぐに警察に連絡をして、あの恐ろしい女から身を隠すように、駅のホームへと転がり込んだ。
しばらくして到着した警察に慌てて事情を伝えると、すぐに周囲の捜索を開始してくれた様だった。俺はパトカーに乗せてもらって家まで送ってもらった。
安心すると、今度は卓也の事が気掛かりだった。駆けていった方角はうちの方向だったから、何とか撒いて逃げ込んでくれていたらいいのだが。
卓也がもし家に居なかったらどうしよう。卓也は何を見たのだろう。あんなに慌てて、あの女の顔に一体何を……
しかし卓也は俺の家に居た。母親が言うには、酷く動転した様子で転がり込んできて、絶対に玄関を開けないでくれ、直ぐに戸締まりをしてくれ、と必死に叫んでいたそうだ。
卓也は俺の顔を見ると徐々に落ち着いてきた様子を見せて「や……ヤバかった」と言ってはにかんだ。しかしその瞳の奥に未だ刻まれた恐怖がある事は明らかだった。
しばらくすると警察は帰っていって、卓也の母親が車で迎えにきた。親同士でなんやかんやと話している間、俺は自分の膝に視線を落としている卓也に聞いた。
「何を見たんだ?」
「……」
卓也は答えなかった。俺の質問に肩をビクリと跳ねさせて、そのまま押し黙っている。
程無くして卓也は母親の車に乗せられた。助手席の窓越しに、いつになく暗い表情のままに俺を見ながら。
「じゃあな卓也」
「あぁ、じゃあな」
心ここにあらずといった気の無い返事をして、卓也を乗せた車は帰っていった。
その後俺は、母親に事情を聞かれてこっぴどく叱られた。例の女の事も白状したが、母は俺が毎日見ていた赤いコートの女なんて、仕事の帰りにいつもあそこを通るが、見たことも無いと言っていたのが不思議だった。
――その後に警察が来て、辺りを捜索したが、そんな赤いコートの女は見つからなかったと言われた。
次の日から、赤いコートの女は姿を見せなくなった。それと関係があるのか、卓也が学校を休みだした。
その次も、その次の日も卓也は学校に来なかった。先日の件と関係があると思って、俺はメールをしたが、何度送っても返信は無かった。
そして一週間後、卓也は姿も見せぬままに転校していった。
卓也に何があったのか、何故連絡もよこしてくれないのか。俺はしばらくその思いに苛まれた。赤いコートの女の居ない無人駅から帰る時には特に。
そして時が経った。卓也の件には申し訳無い事をしたと思いながらも、徐々に俺の記憶からあの事件は薄れていった。それにこの半年の間、あの女が再び外灯の下に居ることは無かった。
しかし――
夏休みの時分に、友人と高校の近くの夏祭りに行って帰りが遅くなり、終電ギリギリの十時頃に俺は最寄りの無人駅に降りた。
そこに赤い女が居た。
真夏だというのに赤いコートを着て、長い髪を垂らしたあの時のままの姿で、背中を向けて外灯の下の白い光に照らされながら。
なんでまた……
忘れかけていた卓也の事を思い起こしながら、俺はその女の背後を早足で通り過ぎ様とした。
すると女は言ったのだ。たしかにハッキリと。
「鈴木卓也を知りませんか?」
女の呟きを聞いて動転し、足が止まりかけた。
ゆったりと女が俺の方に振り返ってきているのが見える。
俺は恐怖に任せて走り出した。その場を離れて全力で、五十メートル程走ってから振り返ると、広い感覚を開けて並んだ外灯の白い光の下に、赤い女は居なかった。
瞳を見開いて、少しずつ夜目が効いてくると、闇の中に、俺に向かって猛烈に駆けてくる赤い物体がある事に遅れて気が付いた。
俺はあの時の卓也の様に情けない声を上げて走り、家に駆け込んで慌てて戸締まりをしてから、警察を呼んだ。
警察の捜査でも、またその女は見つからなかった。そしてそれ以降その女はまた姿を消した。
だけど、無人駅の外灯を越えた先の闇の中で、あの赤い女がいつも息を潜めている様な、そんな気がする。