〈8〉
始業式を終えて教室に戻ってきた拓海は、情緒あるピンクに彩られた校庭に目を向けるでもなく、一心不乱に英単語帳とにらめっこしていた。
現在は休み時間。担任の教師が来るのを待っている状態である。ほとんどの生徒が友人とのおしゃべりに興じ、新しく同じクラスになった者と親睦を深めるのに勤しんでいる。そんな中、自分の席でただひたすら勉強しているのは拓海くらいなものだろう。
そんな拓海の前の席が鳴り、一人の男子が腰かけた。
「久しぶり、また同じクラスだね」
そう言ってさわやかな微笑浮かべるのは川城大樹だ。
整った顔立ちに短めの髪をワックスで自然に固めた、快活そうで、なおかつ清涼感のある少年である。その容姿もさることながら、醸し出す空気感が、彼という人間の人の良さを表していて、非常に接しやすい。
本来なら拓海と親しく話すような間柄にはならなかっただろう。だが、何の因果か同じ苗字の持ち主ということで、座席の近さも手伝い、今の拓海の、唯一の学校での話し相手だった。
話しかけられた拓海は英単語帳から顔を上げると大樹を視界に納めた。
「久しぶりだな。変わらず元気そうで何よりだ」
「拓海も、元気そうだね。いつも以上に集中して勉強してたし」
「学校は、邪魔してくる奴がいないからな……」
家では佑介を筆頭とし、咲子、ここ一週間ではエリアルと、落ち着いて勉強することができなかった。
もちろん、佑介以外は、悪意を持って邪魔しに来るわけでもない。それに積極的というわけでもない。ただ、どれも一回の邪魔で残す爪痕がひどかった。
だからこそ、邪魔してくる者から離れられる学校は気が落ち着いてありがたかった。
「学校は、僕の安息の地だ……」
「高校生が、勉強しながら言うセリフじゃないね。春休みはあまり勉強できなかった?」
「なにを言う、大樹。僕は決して、自分に課したノルマは破らないぞ」
「ブレないね」
微苦笑する大樹。そんな様子も、妙に様になっているのだからイケメンはずるい。
「そういうお前は、春休みには何をしていたんだ?」
「別に普通だよ。普通に勉強して、テレビ見て、家事を手伝ったり、ちょっと遊びに行ったりしてた。……他にはまあ、また告白されたり?」
「またか。それで?」
「けど、今回も断ったよ。可愛い子だったんだけどね」
「それもいつも通りか」
大樹はモテる。彼の持つ話しやすい空気感は、整った顔立ちと相まって、女子相手には素晴らしい破壊力がある。同じクラスだった去年も、二カ月に一回ペースで告白されていた。しかし現在大樹は、そのすべてを断っている。理由は何とも理解の難しいもので、
「俺は、みんなの川城大樹でいたいんだ」
「そうか」
大樹はモテるが、ナルシストが入っていた。だからといって自分を他人より上だとして見下すこともなく、基本的には気のいいイケメンであるため、一年経った今でも思いを寄せる女子は後を絶たない。それに比例して撃沈者は増える一方だ。
「そのお前に告白してきた奴も、とんでもない男を好きになってしまったものだな」
「そうだね。悪いなとは思ってるよ。でも、俺の信念を曲げるわけにもいかないしさ」
「もういっそアイドルにでもなったらどうだ」
拓海にしては珍しい皮肉に、しかし大樹は真剣な表情になる。
「いや、アイドルにはならないよ。なるならモデルになりたい」
「違いがよく分からないが」
実際はこの二つにはきちんとした違いがあるが、あいにくと興味のない拓海はそんなことを知らない。会話を続けている今も、視線は英単語帳だ。
そんな拓海に、わざわざ違いを説明しても意味がないと分かっているからか、大樹もこれ以上は言及をせずに話題を変える。
「ところで、始業式で紹介された留学生。あの子、どこのクラスなのかな?」
「さあな」
エリアルは、どうやら間に合ったようだ。拓海の見立てではだいぶ危ない……というよりもギリギリアウトだった気がしたのだが。始業式にも何食わぬ顔で出てきて、英語でスピーチをしていた。しかもその後、流ちょうな日本語で自己紹介を始めたものだから、体育館のあちらこちらで歓声が上がったのだ。
「すごいよなー。二か国語ペラペラだよ。俺も話せるようになったらもっと格好良くなれるかな……」
「なれるかどうかは別として、すごいというのは同感だな」
出身国をイギリスと偽るから、というよりも、元から話せたからイギリス出身ということにしているのだろう。以前の彼女の言葉を信じるなら、神聖語も含めて、計三か国語を話せることになる。
「それに綺麗な子だったからね。今、クラスで飛び交ってる話題なんか、留学生は何組だろうってことばっかだよ」
「そんなことを話しても意味ないだろう。それでクラスが変わるわけでもないだろうに」
「そういう会話が楽しいんだって。でも実際、同じクラスではあってほしいけどね。英語、教えてもらいたいし」
「やめといた方がいいと思うが……」
拓海も春休み中に同じことを考え、ちょっとした授業を頼んだのだが、エリアルの教え方は普通に分かりにくかった。いわゆる感覚派というのか、なぜこの文中にこの単語は使ってならないのか、と質問すれば「え? だってなんか変な感じしません?」と返ってくるのだ。頭で理解する拓海とは、決して相いれない理解の仕方だ。
そうでなかったとしても、拓海はエリアルと同じクラスになるのは避けたいと思ってる。同じクラスになってしまえば、せっかくの安息の地が台無しになってしまうだろう。
大樹は拓海の意見を不思議な顔をしながら聞き理解しようと数秒咀嚼。しかし理解には至らず首を傾げた。
「あれ、拓海はあの留学生のこと知ってるの? ていうか会って話したの? なんで?」
「なぜと言われても。セラフィムはうちにホームステイをしているからな」
「嘘だぁっ!?」
「なぜ僕がこのタイミングで嘘をつかねばならない」
予想の斜め上をいったのか、大樹は大げさに反応する。しかし、あくまで真面目に返す拓海に、大樹は腕を組んでうなった。それからぐっと顔を近づけ、耳打ちをするような形で、
「この話は、オフレコで?」
「は? いや別に言われて困るものでもないが」
「秘密にしとけよっ。いいか。話題の中心の留学生と、一つ屋根の下に住んでるなんて知られたら、拓海はいったいどうなると思う?」
「どうにもならんだろう」
「なるよ! 拓海も一瞬で話題の中心に放り込まれるよ!」
「そういうものか?」
「そういうものだよ!」
大樹の性格を考えれば、この熱弁は純粋に友人を心配してのことだと分かる。いまいちそうなるという実感はないものの、なったらなったで拓海が被る被害は尋常ではない。休み時間での勉強ができなくなってしまう。
「まあ、お前がそう言うなら秘密ということにしておこう」
「うん、それがいいと思う。拓海の場合、もうちょっとクラスの中心に入っていってもいいと思うけど」
「それはお断りだ。勉強時間が減る」
きっぱりと言い切った拓海に、大樹は苦笑。結果は分かり切っていたので、それ以上は突っ込まない。――と。
「チャイム、もう鳴ってるわよ」
がらりとドアが開いたかと思うと、全身をきっちりとしたパンツスーツに包んだ女教師が入ってきた。長津田春美。春休みに拓海の家に、校長と一緒に来た教師で、天使のことを知っているうちの一人だ。
その出来る印象は健在で、注意された生徒はそそくさと自分の席に戻る。大樹も前を向いた。
「はい、アタシがこのクラスの担任になった、長津田春美です。教えるのは現国。ここの学校は偏差値が高いから大丈夫だと思うけど、問題は起こさないように」
手早く自己紹介を済ませ、春美は「さてと」と教室を見渡す。
「始業式で留学生が出てきて、みんながみんな、留学生がどこのクラスか気になって騒いでるけど……。よかったわねアンタら。アタシが留学生の担当だからってこのクラスになったわ」
その宣告がなされてから、教室は一気に沸いた。
大歓声に春美が面を食らい、教室の外で待っていたエリアルは、かなり入りづらくなったという。
そしてその歓喜の中、一人、安息が失われたことを嘆いた者がいたことは、本人以外の誰にも気がつかれなかった。