〈6〉
「それでエリちゃん。日本での生活はどう?」
咲子の口からその質問が放たれたのは夕食時。川城家の三人と留学生が食卓についていた時だった。それにエリアルはにっこりと笑って、
「はい、すごく楽しいです!」
と答えた。
実際、彼女の馴染み具合はすさまじかった。
拓海の両親とは何の気負いもなく、それどころかやたらと親し気に会話をするし、初日は大変そうだった箸の使い方も、三日目の今日では差し支えないレベルまで到達している。他にも皿洗いや風呂洗い、洗濯物に至るまで、多岐にわたって手伝い、専業主婦である咲子の技術を盗んでいっていた。
何も知らない人物に「出身は日本です」と言えば、あっさりと通用してしまいそうだ。
初日にあれだけ振りまいていた神々しい気配は欠片も感じられず、本当に天使かと疑いたくなる順応っぷりだった。
「エリちゃんは本当にいろいろできるものねー。今度、お料理も教えちゃいましょうかしら」
「えっ、お料理! いいんですか? 光栄です! 是非教えてくださいっ」
「騙されるな天使。覚えたが最後、家事全般やらされることになるぞ」
喜ぶエリアルに拓海が忠告すると、咲子は否定するでもなく、むしろ大きく頷いた。
「そうねー。ゆくゆくは全部任せてみたいわねー」
「堂々と肯定することではないぞ」
一応エリアルの留学目的は『日本の文化を学ぶ』こと。家事も文化には違いないが、だからといってすべて任せるものではない。
そう言う拓海に祐介も便乗する。
「そうだぞ、ダメだぞ母さん。俺は毎日母さんの作った飯が食べたい!」
「お父さんの明日の夕飯は抜きにしましょう」
「なんで!?」
いらないアピールをしてきた佑介に、あくまで咲子は冷徹に返した。冷徹すぎて、夫婦仲を心配したくなるほどだ。
以前、拓海が佑介にこのことを聞くと「なんだかんだ言ってても、母さんの罵倒には愛があるからうれしい」と言っていた。そも耐えてすらいなかった。拓海には咲子がただ罵倒しているようにしか見えず、父親の正気を疑ったものだ。
「あー、でもエリちゃんの料理を食べたくないってわけじゃないから! むしろ食べたい! 天界ってなんか郷土料理とかないの?」
「さあ? 食文化はそんなに変わってないと思いますよ。どちらかというと採食中心でしたけど」
「採食? 確か天界は上空にあるのだろう? 気候的に、ちゃんと育つ野菜があるのか?」
「いえ、その気になれば地形も気温も湿度も変えられるので、環境を理由に育てられない作物はありませんでした」
あっさりととんでもないことを言い放つエリアル。作物が育たないから、品種ではなく気候を変えようなど発想からしておかしい。
「さすがは、瞬間移動で僕の部屋に不法侵入するだけのことはある」
「いえですから、本当は進入禁止の術式をですね……」
「家の中くらい歩け」
毎回あんな方法で部屋まで来られたら心臓がもたない。
「瞬間移動……?」
拓海がエリアルに抗議していると、その内容にあった都合のいい部分だけを抽出した拓海がボソリと呟く。
「それはアレか。どこにでも行けるピンク色のドアみたいなモノの事か?」
「いえ、そのドアよりもすごいですよ。あんなに大きなものを持ち歩かなくても大丈夫ですから」
「つまり気を感じて、その方向に向かってシュンッて消えるタイプか!」
「そうです、そのタイプです! シュンッって感じです!」
「すごい! エリちゃん瞬間移動できるのか!」
「はい、できます!」
よく分からない、超次元的なところで同調する四十代後半のおっさんと、十代半ばの女子高生。傍から見れば、普通の中年の佑介の容姿も相まって、犯罪にしか見えない。
その異様な光景を見せられて、拓海は呆然とする。
「よし、それじゃあ俺は明日から起きる時間を遅らせるぞ! エリちゃんに瞬間移動で送ってもらう! 満員電車と、痴漢の冤罪をかけられるかもしれない恐怖とはおさらばだ!」
「ラジャーです!」
「いやちょっと待て」
一瞬で通勤手段の変更を決定した佑介にかかるストップの号令。佑介はその方を見、
「なんだ、誰もいないな。俺の幻聴か」
「あんたの目は節穴か! 息子を居ないものとして扱うな!」
何事もなかったかのように食事を再開。拓海の怒りを買った。
「だってよー、お前影薄いんだもん。もっと存在感を磨け、存在感を。ほれ、ほうれん草」
「意味が分からん! 人の皿に自分のものを置くな! 大体これ父さんの苦手なものじゃないか!」
完全に押し付けられていた。咲子の作ったものなら大抵何でも喜ぶ佑介だが、こればかりはどうしても苦手らしい。
口をとがらせる父親にほうれん草を返すと、拓海は一旦深呼吸。今のままでは佑介のペースに乗せられてしまって話にならない。冷静さを意識しなければ。
「父さん、おとといの校長の話は覚えているだろう?」
「ああ、あの校長の頭、そろそろ完全にツルッツルになりそうだったよな」
「あんた本当は何も聞いていなかっただろ!」
斜め上の回答が返ってきて、拓海は一瞬で冷静さをごみ箱に捨てた。
「そうじゃなくて、国家機密のことがあっただろう」
「あー、あったあった。超格好よかった」
「……それで、セラフィムのことはバレてはならないということになっている。瞬間移動なんて、見つかったら言い訳できない筆頭だろう」
だからやめろ、と拓海が続ける前に、佑介は人差し指を立てて右に左にチッチッチと動かす。
「息子よ。見つかってアウトなら、そもそも見つからなければ問題は発生しないのだよ」
「屁理屈をこねるな! 普通に生活していれば、バレることなどないのだから、そもそも危険を冒す必要がない」
「トイレの個室の中とかなら、見つからないですね」
「話聞いてたか!?」
調子に乗った佑介に便乗する形で、瞬間移動先の選定をするエリアル。拓海の意向なんてこれっぽっちも聞いてもらえてなかった。
「おいおい、頭が固いぞ拓海。エリちゃんだって天使なんだから、威厳とかなんか色々あるだろ。シンセイ術? 使えないとそこらへん危ういと思うんだよネ!」
「そうですね、威厳とかプライドとかあまりありませんけど、神聖術が使えないと私のストレスは間違いなく溜まります」
「だから、僕たちには天使のことを隠す義務が……」
「義務なんて知るか!」
「誓約書書いただろう!」
楽しければ何でもいい精神を突き進む佑介。フリーダム過ぎて、この父親の前では理屈も倫理も時には無意味になる。堅苦しい親を持つと子供は大変だが、自由すぎても考え物だ。拓海としては、どうせならもっと堅苦しい方がよかった。
さすがに、義務という言葉を真っ向から打ち破られれば、もう拓海の手には負えない。というか常識が微妙に通じていない時点で、拓海には打つ手がない。諦めて、先ほどから一言も発していない咲子に助けを求める。
「母さん。父さんに何か言ってやってくれ」
「……」
返ってきたのは無言。よくよく見れば、咲子は虚空を見つめたまま、一ミリも動いていない。
「母さん。母さん。聞こえてるか?」
「……はっ。ボーっとしてたわ」
「だろうな!」
父がフリーダムだとすれば、母はマイペースすぎた。
咲子は、普段からあまり表情を動かさず、眠そうな顔のままだが、温和で佑介に対して以外には優しい。しかし、TPOを考えず、突然意識が宙をさまよう事が多く、会話をする上ではひどく根気がいるのが難点だった。しかもボーっとしている間に、いったい何を考えているかと思えば、
「トビウオって、頑張れば空も飛べるのかなって不思議に思ったのよねー」
これである。
「トビウオは飛べないぞ」
「えっ、でも前にペンギンがこぞって空を飛ぶニュースを見た気が……あれって夢だっけ?」
「自分の親が普段どんな突拍子もない夢を見ているのか不安になるが、おそらくそれは夢じゃないぞ。イギリスのニュース番組で、エイプリルフールに放送されたものだったはずだ」
確か、エイプリルフールにはそういったふざけた放送をするテレビ局があったような気がする。
拓海が記憶をたどっていると、
「なんだなんだ拓海。雑学自慢か? なら俺は歴代の総理大臣全部言えまーす」
どう今のやり取りを取り間違えたのか勇介がしゃしゃり出てくる。
「まず一代目、伊藤博文! 二代目……」
「なんだ、歴代首相程度で雑学自慢か。僕は朝鮮総督府の総督をすべて言えるぞ」
「え、なんか負けた……」
自らの敗北を悟るや、佑介は歴代首相の詠唱を切り上げ、食事に戻る。
実際、朝鮮総督府の総督は臨時代理総督も含めて十人しかいないので、数だけで言えば歴代首相の圧勝だ。それを知らなかった佑介は、ある意味負けたとも考えられるが。
そうして父親を黙らせることに成功した拓海は、咲子が何やら頷いているのが目に入った。
「そう、じゃあペンギンは空を飛べるのね」
「そこに戻るのか……。大体ペンギンのニュースは、エイプリルフールに放送されているのだから嘘だろう」
「そうなの? 気づかなかった。拓海は頭がいいのね。なでなでしてあげようか?」
「やめろ!」
テーブル越しに手を伸ばしてくる咲子は、変わらず眠そうな表情だ。
佑介は相手のテンション関係なくハイテンションを貫いてくるが、咲子は意図せず相手のペースを崩す。その圧倒的に不思議な空気感は、息子の拓海をしても抗えるわけではなかった。
そんな咲子と拓海のじゃれ合いを見て、黙ってはいない人物がこの食卓にはいる。
「母さん、拓海は嫌がってるから、代わりに俺がなでなでされるよ!」
「分かったわ」
敗北の消沈が嘘のような満面の笑みで頭を差し出す佑介に、どうしたものか、咲子は珍しく肯定的に答えると、手を添えて優しげに動かす。
「まあ!」
仲睦まじげな夫婦の様子を見て頬を赤らめながらエリアルが声を上げた。
佑介も、「おお、母さんがついにデレた……! モテ期到来か!?」と満足そう。
だがそれだけで終わるわけもない。咲子の撫でる力が次第に強く、早くなっていく。なでなでから、ごしごしを経由して、ガシガシに。
「あれ、母さん? なんか強くなってきてない? 熱いんだけ……あつっ。ちょ、痛っ。熱いっ! 禿げる! 母さん禿げちゃう! 禿げちゃうよ!」
「私は禿げないわ」
「小学校の頃に授業中トイレに行きたくなって、俺が『先生トイレ』って言った時の佐藤先生みたいな反応しないで!」
「先生はトイレではありません」とでも言われたのだろうか。だいぶ昔のトラウマを持ち出して逃れようとする佑介を、しかし咲子は上からきっちりとガードして逃がさない。その間も眠たそうな能面は微塵も動かず、もはや狂気だった。
ようやく咲子の魔の手から解放された佑介は、息を切らしながら自分の頭皮を気にし涙目で嘆く。
「ああ、傷物にされた……。もうお嫁にいけない」
「あんたもう結婚しているだろう」
クセの強すぎる両親に、拓海ももはやツッコむ気力がない。食事ごとに繰り返されるフリーダムなやり取りに、拓海はそろそろ辟易している。
「とにかく、セラフィムが瞬間移動で父さんを送り迎えするのは駄目だからな」
脱線に脱線を重ねて、相当遠くに来てしまった話を何とか思い出して言う拓海。気づけば箸も随分長いこと動かしておらず、茶碗の中の白米はだいぶ冷めてしまっていた。
「なんだよ、じゃあ拓海は俺が痴漢の冤罪をかけられてもいいのか!」
「よくはないが、かけられないように努力しろ」
抗議は一蹴。佑介は不満げに呻くものの、多くは言ってこない。だが、
「瞬間移動? エリちゃんはそんなこともできるの?」
今度はまだ意識を飛ばしていなかった咲子が、都合のいい部分に食いついてきた。
「はい、できますよ!」
「そうなの、便利ね……。今度買い物に付き合ってもらおうかしら」
「もちろん、いいですよ。お世話になりますから、お手伝いします!」
「この下りもう一回やるのか!?」
先ほど、佑介とやったものの焼きまわしのようなやり取りが展開され始めていて、さすがに拓海も悲鳴を上げる。夫婦は時を重ねるごとに似ていくというが、こうもアンバランスな愛情を向けている夫婦ですら似るものなのか。
「ほら見ろ拓海。母さんだって瞬間移動は必要だって言ってるぞ!」
「お父さんの意見と同じっていうのも癪だけど。瞬間移動は、使うためにあるのよ拓海」
「瞬間移動禁止令には反対です! ぶーぶー」
「僕が悪いのか!? おかしいだろう!」
そして一斉に上がる抗議の声。この三人の方が本当の親子なんじゃないかと思うくらい、息がぴったりだった。
負けじと拓海も声を張り上げるが、カオスと化したリビングには、拓海の声を聞くものなど誰一人としておらず――
川城家の食卓は、そんな感じでにぎわっていた。