〈4〉
天使のホームステイが決まり、誓約書などにサインを書き記した翌日。
拓海は朝から自分の部屋で、春休み明けに学ぶ物理基礎の範囲を予習していた。
物理基礎は理科の科目でありながら、その実情は数学と大差ない。行うことは計算ばかりで、数学Ⅱと数学Bと合わせて、数学科目が三つあるような錯覚に陥る。
自他ともに認める秀才である拓海は、どちらかというと文系科目の方が得意である。こうした、明らかに文系をいじめているとしか思えない仕打ちに忸怩たるものはあるものの、これは勉強をサボる理由にはならない。そもそも、サボるという発想自体出てこない。
だから弱音一つ吐かずに問題に取り組んでいたのだが、勉強開始から小一時間が経過したころに、どうしてもわからない問題に出会ってしまった。
「ううむ……」
一人うなって問題文を読み込む。使えそうな公式を探しては当てはめ、探しては当てはめを繰り返すが、どうもうまくいかない。そろそろギブアップだろうか。
「あ、その問題は先に距離と角度を求めないと解けませんよ?」
「む、そうか」
ふわっと漂った甘い香りとともに投げかけられた言葉に頷き、再度取り組んでみる。すると今までどうにも当てはまらなかった公式が適用できるようになり、すんなりと解くことができた。
「おお、ありがとう。おかげで分かった」
「はい、どういたしましてです」
声の主に礼を言うと、存外に近いところから返事が返ってきて、拓海は不思議に思い振り向いた。
すぐ近く、ぶつかりそうなくらいの場所に美女の微笑――。
「ぅわっ!?」
反射的にのけぞった拓海は、危うく椅子から転げ落ちるところだった。
「どうしたんですか? そんなに驚いて」
タクミの視線の先――エリアルは、初日と同じ、純白のワンピースを身にまとって浮いていた。光輪と翼を出しているのだ。
「驚くに決まっているだろう! どうやって僕の部屋に入ってきたんだ!」
空気を読まない両親は、拓海が勉強していようとお構いなしに絡んでくる。だから、部屋にはいつも鍵をかけるのが習慣になっているのだ。今ももれなく施錠中で、入ることなど普通は不可能なはず……。
「瞬間移動したんです!」
「天界にプライバシーという概念はないのか!?」
しかし普通でないところの天使に、施錠という当たり前の手段は、十分な効力を発揮しなかった
「いえ、天界にだってプライバシーくらいちゃんとありますよ。入ってほしくないところには、進入禁止の術式を組んでおくのが当たり前ですし。むしろ入ってほしくないんでしたら、タクミさんが進入禁止の術式を組んでおいてもらわないと」
「人間にそんな芸当はできん!」
無自覚の無茶ぶり。当時のアメリカが勝てないと判断したのも無理のない能力だった。
「とにかく、以後、勝手に僕の部屋に入るな」
「どうして……。あ、もしかして噂の、殿方がベッドの下に隠しておくものの心配ですか?」
「僕のベッドの下には、昔使っていた教科書しかない。……おい探すな! あったとして見たいのかお前は!」
ベッドの下をのぞき込むエリアルを止めると、彼女はあっけらかんと振り返る。
「別に見たいわけではないですけど……。女子は殿方の隠しているものを見つけて罵るのが、日本の伝統ではないのですか?」
「そんなわけのわからない伝統はない!」
「え、そうなんですか? でも漫画で……」
「単にありがちな展開というだけだろう。勝手に家探しする伝統は少なくとも日本にはない。分かったらちゃんと片付けろ」
確かエリアルは、日本文化はサブカルチャーで学んだと言っていた。どうやらだいぶ間違って吸収しているようだ。
エリアルは残念そうに「はい」と返事をすると、引っ張り出した教科書をもとの場所にも出す。
「まあお前のズレた日本文化観は置いておくとして。さっきの瞬間移動は絶対に人前でするなよ。すぐに天使だとバレる。あと、なぜ光輪と翼を出している?」
「ああ、これを出さないと神聖術は使えないので」
「なぜだ?」
「えーとですね。簡単に言いますと」
そう前置きするとエリアルは、まずは自分の翼を指す。
「これは空気中の神聖力を集めたり出したりする器官です」
それから今度は頭上の光輪を指し、
「で、こっちは神聖力をコントロールする器官ですね。体の中の神聖力を循環させたり、排出させたりの指示もここから出ます」
先ほどから言っているシンセイ力とやらは、酸素のようなものだとして、翼と光輪は鼻と肺のようなものだろうか。働きとしては実にシンプルなようだ。確かに出していないと不思議現象は起こせそうにない。
が、そもそも日本で、浮いたりといった不思議現象を起こさねばならない機会はない。
「光輪と翼については分かったが、それもしまっておくんだぞ。ここでは別に魔法が使えなくても問題はないんだからな」
「魔法じゃないです。神聖術です」
「は?」
「神聖術です」
いつもとは違う有無を言わさない迫力。拓海としてはどっちでもいいのだが、一瞬たじろぐ。何か怒らせるようなことを言ってしまっただろうか。いぶかしがりながらも、素直に頷いておく。
「分かった。神聖術だな」
「はい、分かってくれればいいんです」
エリアルは満足げに言うと、光輪と翼を消した。綺麗な光の粒子が空中に溶けた。
「ずいぶんあっさりと消すが、それでいいのか天使」
「? 何がですか?」
「いや、何でもない。ところで、なぜお前は僕の部屋に来たんだ?」
「いえいえ違います。さっきから思ってましたけど、苗字はともかく、『お前』はちょっと……。私のことは気軽にエリとお呼びください」
「なぜ僕の部屋に来たんだ?」
「はい、実は、これを一緒に観ようと思いまして!」
あからさまなリピート再生にまったく注意を払わず、エリアルは手に持っていたケースを差し出す。
鮮やかな色彩のキャラクターと背景のイラストが目に入る。西洋風の鎧を身にまとった金髪の女騎士。ジャージを着た少年。赤い、どこの地域の服とも知れない衣の男や、全身タイツの青い槍使いなどが描かれている。
「……これはなんだ?」
「アニメのDVDです! すごく面白いんですよ!」
「いや、感想は聞いていないんだが」
なぜ、特に興味のないものを、わざわざ絶好の予習日和に観なければならないのだろうか。その意思を伝えると、エリアルは得意げに胸を張る。
「それは当然、親交を深めるためにですよ! これから一つ屋根の下で暮らすんですから、仲良くしませんと」
「事実ではあるが、微妙にいかがわしい言い方をするな……」
とはいえ、ここで断ろうものなら「お前と親交を深める気はさらさらない」という意味に取られかねない。
拓海とて、別に留学生と不快な関係になりたいわけではないのだ。勉強時間を削られるというデメリットはあるものの、断るという選択肢はなかった。
「まあ、そういうことなら仕方がない。観るだけなら構わん」
「やった!」
エリアルは胸の前で小さくガッツポーズ。それから拓海の腕を取った。
「では行きましょう!」
「今からか!?」
「タクミさん、善は急げですよ!」
堂々と言い張るエリアル。だとしても事前に断りがないのはいかがなものか。
「というか、どこに行くんだ。リビングは父さんと母さんがいると思うが」
「いえ、私の部屋に!」
「は?」
言うが早いか、エリアルはついさっき消したばかりの光輪と翼を再度出現させる。次の瞬間、拓海は空間が大きく歪むような錯覚を味わった。
今まで経験したことのないような、奇妙な感覚。例えるならそう。ひどく目を回した状態に、浮遊感が付加された感じだ。ふらつきながら、思わず拓海は目をつむった。
突如、奇妙な感覚が途絶える。まったく違う地面を踏んだ足が、ふらついた勢いそのままに盛大にバランスを崩し、拓海は尻餅をついた。
「はい、つきましたよ」
エリアルの声に、恐る恐る目を開けると、ついさっきまで見ていた簡素で面白みのなかった部屋模様はなく、代わりに女子らしい小物が置かれた部屋が飛び込んできた。間取りを見る限り、拓海のすぐ隣の部屋。つまり、エリアルの部屋だろう。
「どうでしたか? 人生初の瞬間移動の感想は」
ワクワクとした瞳で見つめてくるエリアルを、拓海はジト目で睨みつけた。
「わざわざ瞬間移動する意味あったのか……?」
「さあ?」
あまりに適当な答えに、拓海は頭を抱える。
「家の中を大した理由もなく瞬間移動するのも禁止する」
「そんなっ!」
「そんな、ではない。明らかに無駄だ」
もしくは心臓にひどく悪い。
人間の視点でごく当たり前の判断を下してから、拓海は起き上がり、再度周囲を見回した。
エリアルが川城家に来てから今日で三日目。そのうち初日は色々とバタバタしていたので、荷解きをしたのはつい昨日ということになる。今日突然、親交を深めようなどと言い出したのも、そういうわけからだろう。
そんなあわただしい中にあったはずだが、エリアルの部屋は存外きれいに片付いていた。
畳六畳ほどの部屋は、ちょうど拓海の部屋と同じ。入り口から入って右手に机。左手にベッドと本棚がある。
机の上にはおしゃれなペン立てや鏡に混じって、さも当たり前のようにいくつかのアニメキャラクターのフィギュアがある。
本棚には予想していた通りに漫画とライトノベルがぎっしりと。そんなオタク部屋において唯一普通なのはベッドのシーツと掛け布団、クッションなどだ。こちらは薄いピンクやブルー、クリーム色といった、優しい色合いのものが多く、彼女によく似あっている。
「とりあえず、壁や天井にアニメポスターが貼ってなくてよかった」
「ええ、一年後には帰らないとですから、画びょうもテープも跡が残るし、使えないなと思って自重したんです」
「当たり前の配慮だな。まあそのあたり、神聖術とやらでうまい具合にどうにかできるものだと思ったが」
「タクミさんは天使を何だと思ってるんですか……」
できないらしい。一見なんでもありに思える神聖術にも、何らかの制限が存在するようだ。
「そんなことよりタクミさん! 何か気がつきませんか?」
「む?」
エリアルが期待の面持ちで拓海に問いかける。「気がつ」くなど、そもそもエリアルが家にやってきてから、この部屋に入ることが初めてなので、どこが変わったかなど分かるはずもない。
拓海はもう一度ぐるりと部屋を見渡してから首を横に振った。
「分からん」
「そんな……。何かいい香りがしませんか?」
「ああ、それは確かにするな」
拓海の部屋では決してしないような甘い香りが充満していた。アロマか何かだろうか。エリアルが気がついてほしかったのはどうやらこのことのようだ。
「さて、タクミさんは女子の部屋に入って、いい香りがすることに気がつきました。では次に取るべき行動はっ?」
「はあ、褒めろということか?」
「違いますっ!」
面倒臭いという気持ちを微塵も隠さず、一番ありそうだと考えた答えをぶつけてみるが、真っ向から不正解をくらってしまった。
「一体何をしてほしいんだ」
そもそもアニメを一緒に観るということではなかったのか。そんな抗議のニュアンスを含めてい放った拓海だが取り合ってもらえない。それどころか、エリアルは不思議そうな顔つきになって小首をかしげて問うてくる。
「あれ、女の子の部屋からいい香りがする、からの、男の子ドキッ、は日本が誇る文化では……?」
「さっきといい、セラフィムは日本を一体何だと思っているんだ……」
「ですから、気軽にエリと……え、文化じゃないんですか?」
「文化ではない」
初めて知る日本の現実にエリアルは唖然。
「ということは、日本の女子には部屋をいい匂いであふれさせておく義務は……」
「ないな。あったら、テレビなんかで見かける、女性のごみ屋敷はすべて嘘っぱちということになる」
「そうですか……」
がっくりと肩を落とすエリアル。さすがに拓海も気の毒に思えてくる。どう慰めようかと思案する拓海。しかしエリアルは、
「まあ、いい香りでしたし、このアロマはこれからも使っていこうと思いますけど」
と、存外にポジティブな意見を述べた。一つの理想が打ち砕かれたのに、タフな精神をしている。
「好きにしろ。――ところで、アニメを観るという話はどこにいった?」
問うた拓海にエリアルは一瞬ハテナを浮かべる。
「アニメ……? あっ、忘れてました! 現実に打ちひしがれて!」
「おい……」
自分から誘っておいといて何言ってんだと、拓海の無言の抗議がエリアルを射た。




