〈2〉
校長は、電話があってから三十分足らずでやって来た。駅から河城宅までは徒歩で十五分程度なので、十分ほど少し遅い計算だ。卒倒した校長の介抱をしていたのだろうか、校長の他にも長津田春美と名乗る女性教師がやって来た。きっちりとしたパンツスーツに身を包み、全体としてできる印象が伝わってくる。授業中に無駄話の類は一切しない感じといえば分かりやすい。拓海がこの教師に良い印象を持つのは、それで十分だった。
「どうもー、遠いところをはるばるありがとうございましたー」
「母さん、ここから学校まで三十分くらいだから、そんなに遠くない」
「あら、そうなの? あ、これ頑張って淹れた美味しいお茶ですー」
「あ、お構いなく」
拓海の母――咲子は、教師二人に対してあくまでもマイペースに接待する。普通なら自分で自分の淹れたお茶を『美味しい』とは言わないだろう。
「それにしても、校長先生が直々に来るなんて、そんなにこのエリちゃんは特別なんですかい? あー、でも留学生だし、イカした格好してるもんなあ。分からないでもない」
「父さん、この格好は少なくとも日本ではイカしてるとは言わない」
拓海の父――佑介も、やはりマイペースにセルフで納得していた。
咲子と佑介は、教師二人が来る数分前に帰ってきたばかりだ。あまり状況を理解できてない上に、このマイペースっぷり。まともな会話ができるのか、拓海は早くも危ぶんだ。そして何より、
「あ、このお菓子も美味しいですね!」
「セラフィム、今から大事な話が始まると思うから、ちょっと黙っておけ」
「いえいえ違います。気軽にエリとお呼びください」
この状況に一番関係しているはずのエリアルは、開き直ったのかこの期に及んで、まだのんきにお茶菓子を食べている。
教師二人と拓海の緊張した空気感にはまったく同調せずに、むしろ拓海の両親の緩い雰囲気に同調、共鳴していた。できればしてほしくなかった。
そんな緊張と緩い空気が入り混じりあったカオスなリビングで、六者は半分に分かれ、テーブルを挟んで向かい合うように座る。川城家のリビングにある椅子は四つだけだったので、足りない二つは家中回って拓海が集めてきた。
そうして、何とか話し合いの体を作ると、最初に口を開いたのは校長だった。
「えー、このたびはホームステイの生徒を受け入れてくださってありがとうございます」
「これはこれは、ご丁寧にどうもどうも」
深々と頭を下げる校長に、佑介は真っ当に応じる。拓海の予想と反する形だが、一応それなりに厳粛な場であるとは理解してくれているようだ。
仮に拓海が礼を言っていたとしたら、「そんなんじゃ足りん! もっとお礼、お礼プリーズ! 何ならいくらか包んでくれてもいいんだぞ☆」くらいは言いそうである。
「それで、わざわざ来られるってことは、それなりの理由があると思ってもいいんですかい?」
「ええ、まあ……」
率直に切り込む佑介に対し、校長も率直に返す。
「本当は隠し通すということになっていたのですが、その、ハプニングが起こったと言いますか、どうにも難しそうなのでお話しすることになりました。ここから先のことは国家機密に当たるので、どうか他言なさらぬよう」
「え、国家機密!? なにそれかっこいい! 聞いたか母さん。国家機密だってよ!」
「……」
「なんで無視!?」
国家機密の一言を聞いたとたんに、先ほどまでの落ち着き方が嘘のようにはしゃぎだす佑介。しかも悲しいかな、こっちが素である。
「母さん。母さんってば。俺のテンションがキモイのは分かるけど、今に始まったことじゃないだろ! だからお願い! 無視はしないで!」
「……あら、ごめんなさい。ボーっとしてたわー」
「もーう! 相変わらずマイペースだなあ。そこが可愛いんだけど」
「……気持ち悪いからそういうこと言わないで」
「母さん冷たい!」
頭のネジが外れたとしか思えない会話に、校長と春美は困ったように拓海を見る。
「続けて大丈夫ですよ……」
放っておけば、永遠に脱線したままで、世界の彼方までたどり着いてしまうので、強引にでも話を戻すのが吉だ。校長は小さくうなずくと、気を取り直してして続ける。
「え、えっと、まあそういうわけなのでよろしくお願いします」
「え? ああ、はい」
佑介は咲子とのじゃれあいを中断し、再び真剣な表情を取り繕って校長に向き直る。
校長はちらりとエリアルを見、意を決したように語りだした。
「そちらのエリアル・セラフィムさんですが、事前にお見せした書類にはイギリスからの留学生と書いてありましたよね?」
「ああ、はいはいはい。確かに書いてありましたな」
「そのことですが、実は彼女の出身はイギリスではありません」
「ほほう」
眉尻を上げる佑介。拓海はエリアルとの会話を思い出して内心頷いた。問題は、本当はどこの国出身なのかだ。顔立ちからして、西欧人なのは間違いないと思うが……。
「エリアル・セラフィムさんの本当の出身国は――『天界です』」
続いた言葉は時間を止めた。
シンと静まり返ったリビング。身じろぎ一つすら禁じられた空間に、エリアルがお茶菓子の小包装を開ける音が響いた。
「は?」
最初に声を発したのは拓海だ。生まれてから発する声で一番間抜けな声だった。
「つまりあれですか? 校長先生は、セラフィムが天使とでも言うんですか?」
「そうですね。率直に言って、その通りです。エリアル・セラフィムさんは天使ですよ」
「いや、意味が分からないんですが……」
これはあれだろうか。うわさに聞く中二病だろうか。空気中に蔓延した中二病ウイルスがパンデミックを起こし、定年間近の校長の脳を侵したというのだろうか。これはいけない。今すぐにでもワクチンを開発、予防接種を義務付けなければ。黒死病のような悲劇はもう二度と起こしてはならない。
テンパった頭で一番ありそうな可能性を思案。危機的状況を確認する。が、今すぐ拓海にできることはない。詰みだ。
拓海が己の無力を嘆いていると、その隣の人物は大仰にうなずく。
「なるほど、天使か。確かにエリちゃん可愛いし、天使って聞いても驚かないな。むしろ納得。輪っかと羽あるし」
「父さん!?」
つい先刻まで国家機密の響きに酔いしれていた佑介も、中二病ウイルスに感染していたらしい。
「確かに、ツチノコだっているんだし。そう考えれば天使くらいいるわよねー」
「母さんまで!?」
挙句、咲子まで感染した。バイオハザードだ。全人類の危機だ。そして断じて、天使「くらい」ではない。
「大体、ツチノコはいないぞ!」
「え? でもこの前見た何かのチラシに、ツチノコの懸賞金が書かれてたと思うけどー。あれ? あれって夢だっけ?」
「知ったことか!」
完全にもてあそばれる拓海に佑介は快活に笑って、
「どうした拓海。秀才のお前らしくもない。いいか? 不在の証明はできないんだぞ!」
ビシッと一指し指を突き付けた。
「いるって証明もできてないのだから、天使がいるって大前提が覆ってるだろう!」
「なんだよ、そんなにカリカリして。イライラしてても何もいいことないぞ。カルシウムを採れカルシウムを。ほら、卵の殻」
「イカれてる!」
すさまじく邪道なカルシウムの摂取方法に頭を抱える拓海。しかも佑介、どこに隠してあったのか、卵の殻を取り出して塩をかけ始めた。
「はい」
「食べない!」
「えー、拓海も冷たいなー。そんな子に育てた覚えはないぞ!」
「そんな接し方でよく言う!」
「すごい、私のボケにはまったく反応してくれなかったタクミさんが盛大にツッコんでる……」
「感心するな!」
佑介と咲子に羨望のまなざしを向けるエリアルにも流れでツッコむと、エリアルは「やった、初ツッコみ!」とガッツポーズをしていた。
「なんというか、楽しいご両親ですね」
「気を使わなくても結構です!」
校長の哀れむような視線に耐え切れず大声を上げる拓海。「だいたい――」と話を戻す。
「天使ってなんだ!?」
「簡単ですよ。神様に使える種族の事です!」
エッヘンと豊満な胸を張るエリアルに、佑介が反応した。
「え、神様いるの!? やったな母さん、何をお願いしようか!」
「お父さんの稼ぎがもっと増えますように、かしら」
「不満だったの!?」
勝手にはしゃいで、勝手に傷つく佑介。さらに無慈悲な宣告が下る。
「いえ、神様は今はいませんよ? お亡くなりになりました」
「嘘っ!?」
「神は死にました」
「馬鹿なっ!?」
二度も厳然たる事実を突き付けられて、佑介は意気消沈。リビングは静かになった。こっちの方が話し易いので拓海としてはありがたい。
「それはそれとして、こいつが天使なんてあるわけないじゃないでしょう! こんなアニメオタクで、うちの親ぐらい自由でマイペースで、オマケに安いお茶菓子を食べて絶賛するような奴ですよ!? いいですか、天使っていうのは――例えばムハンマドに啓示をもたらしたガブリエルなんかは……」
瞑想していたムハンマドの前に現れたかと思えば突然「讀め」と言い出し、文字を読めなかったムハンマドが「読めません」と正直に言うと、ガシッと首を絞めて再度「讀め」と言い出した。そしてムハンマドがようやく「繰り返せということか」と思い至るまで、何度も馬鹿正直に「讀め」とだけしか言わなかった、主語と目的語を欠いた、訳の分からない生き物……。
「馬鹿な……。信憑性が出てきてしまった……!」
ガクリと肩を落として拓海が嘆く。
確かにエリアルは、その格好も含めて訳の分からない人物。類似点としては十分。
それでも頑なに信じようとしない拓海に、校長はやれやれと溜息をついた。
「光輪と翼を見てしまった時点で、もう誤魔化せないと思ったんですが……この分なら案外大丈夫だったのかもしれませんね。とはいえ、後には引けませんし。セラフィムさん、とりあえず何かやってみてください」
「え、いいんですか?」
佑介をノックアウトしてお茶菓子を食べていたエリアルは、校長の指示を聞くと少し嬉しそうに目を輝かせる。校長が頷き返すと、考えるようにあごに人差し指を当て、それから思いついたとばかりに手を合わせる。
「じゃあ浮きますね!」
「は?」
一人硬直する拓海を置き去りにして、エリアルは椅子から立ち上がると、折りたたんでいた翼を周りにぶつからない程度まで広げた。
次の瞬間、光輪がより一層輝きを増し、翼が小さく震えたかと思うと、エリアルは床から五十センチばかり浮かんでいた。
「おー! すごい、浮いた!」
「疲れなさそうねー」
手品でも見たかのような反応で拍手するのんきな両親二人を尻目に、拓海は椅子から立ち上がる。そして浮いているエリアルの後ろに回り込み、何も支えるものがないのを確認。頭の上に目を凝らしても、紐らしいものは確認できず、当然ながら足元にも何もない。
「あれ、そんなに疑わしいですか? そうですね、他には……。そうだ、火も出せますよ!」
自慢げに言うとエリアルは掌を上にする。もう一度浮いた時と同じ現象が起こり、エリアルの手には青い炎が出現した。
「色も変えられます!」
再び同じ現象。炎の色が緑、オレンジ、赤と変化する。
「どうしたんですかタクミさん。押し黙って。まだ疑わしいですか? それなら水も氷も雷も出せますけど、見ます? むしろ喜んで見せますよ!」
「いやいい! 唖然としてるだけだ!」
「そうですか、でもやりますね」
「なぜだ!」
拓海の制止も聞かず、エリアルはもう片方の手のひらに水を出現させ、さらに凍らせ始めた。その様子を視界に納めながら、拓海は頭を抱えた。
信じられないし、拓海は手品の類を全然見ないので、そういったものに詳しくはないものの、エリアルの飛翔や生み出した炎は、とても偽物には見えなかった。そういう魔法的なものを扱えるエリアルは、確かに人ならざる者――天使と言っても差し支えないだろう。
「これで信じてくれましたか?」
穏やかに投げかけられた校長の言葉に、拓海は業腹ながら首肯した。




