〈19〉
「拓海ー! グッドモーニンッ!」
未だ夢と現実の間をさまよっていた拓海は、朝っぱらからうっとうしいことこの上ない大声によって起こされた。
はっきりとしない思考を働かせてうっすらと目を開けて見ると、佑介がベッドの横に立っており、その手をメガホン代わりにしている。
「ふむ……。これで起きないとなると致し方ない……。俺の秘儀、ジャーマンスープレックスが炸裂するぞ! ……ところであれって抱きかかえるんだっけ。腕に引っ掛けるんだっけ。まあいいか、頭から落ちれば」
飛び起きた。
「そんな中途半端な理解と危険な発想で技をかけようとするな! 殺す気か!」
「あ、起きちゃったよ……。チェッ、実験台にしようとしたのによー」
「秘儀じゃなかったのか!? それに実験に成功して習得したとしても、使う機会なんてないだろう!」
朝っぱらから物騒なことを企む佑介に、拓海の怒号が飛ぶ。少なくともジャーマンスープレックスは、寝起きの息子に、何の予告もなく仕掛ける技ではない。
拓海は寝ぼけ眼をこすり佑介を恨みがましくにらみつけた。
「まったく、昨日散々な目に遭ったというのに……。大体、目覚まし時計も鳴っていない。父さんも家にいるということは、まだ早いんだろう」
見れば佑介は、スーツに着替えてこそいるものの、まだジャケットを羽織っていない。つまり休日ではなく出勤前ということだ。拓海が起きる頃に家を出る佑介が未だ家の中ということは、早い話、普段よりも早い段階で起こされたということだ。
しかし佑介は右手人差し指をたて、左右にチッチッチと動かすと、
「安心しろ、目覚まし時計は俺が止めておいた!」
「安心という言葉の意味を今すぐ調べて来い! なぜそんなわけのわからない悪戯をする!?」
「いや、なんか楽しそうかなって」
「楽しむのは結構だが人に迷惑はかけるな!」
相変わらずフリーダム街道まっしぐらな父に、拓海も正論で返答する。すると佑介は一瞬呆けた顔をした。
「なんだ?」
「ん? いや、昨日までのお前なら『下らん!』って叫ぶと思ってたから。一夜にしてどうしたの? 何か怖い夢でも見た? 心に消えないトラウマでも負ったの?」
「見ていないし、見ていたとしても、寝起きにジャーマンスープレックスを仕掛けようとする父親のせいで忘れた」
佑介の軽口に付き合う気は毛頭ない。拓海はすぐさま時計を確認。時刻はちょうど六時五分。佑介との下らない会話に五分使ったと考えると、普段目覚める時間と変わらない。
「あ、ちなみに俺は今日、ちょっと時間ずらして行くことにしてたから、お前が起きた時間はいつもと変わらないゾ。どうよ、この粋な計らい」
「そもそも計らっていない。それよりずらして大丈夫だったのか?」
「ダイジョブ。俺、いつもちょっと早めに出てるし。それに昨日のことがあったんじゃなー。ちょっとのんびりもしてたくなる」
「……それは、分かる」
昨夜。警察が来てから、拓海とエリアルは事情聴取を受けた。ストーカー男が気絶している理由についてはでっち上げた話を使って、何とか誤魔化した。そのストーカー男は薬物中毒でもあったらしく、まったく違う主観から世界を見る、狂人のような言動に納得がいったものだ。
警察には、春美と校長、それに拓海の両親が来た。佑介が言っているのはその事だ。完全に正当防衛なので、拓海たちが聞かれたのもそう大したことではなかったが、それでも問題は問題だ。夜にわざわざ出向かせて何時間もの時間を取らせたのは、当然と受け流していいものではない。
「すまない父さん、迷惑かけた。それと、心配も」
「いやー、迷惑とは思っちゃいないけどよ。まあ心配はかけたな。心配は。まあエリちゃんに何もなくてよかったけど」
「素直に謝った僕が馬鹿みたいだ……」
息子よりも留学生を優先する父親に、ジト目を送る。しかし、娘の方が可愛いっていうもんなぁと納得してしまう自分がいる拓海。
「ま、なんにしても、さっさと下に降りて来いよ! 学校は今日もあるぞ! 今週はまだ始まったばかりだ!」
「そろそろゴールデンウィークがやってくるとだけ伝えておこうか」
テンションアゲアゲで階下に降りていく佑介を見送って、拓海も手早く着替えを済ませる。
そうして準備を済ませてからふと、昨夜片づける気力なく放り出したままの袋が目に入った。
拓海は少し考えると、中から、青いアホ面のカーバンクル型をしたぬいぐるみを取り出す。それを枕元に置いてみた。
なるほど、予想していた通りシュールなことこの上ない光景である。だが拓海はそのぬいぐるみを、そのままにして部屋を出た。
リビングに入ると、すでに朝食を取っているエリアルがいた。
「おはようございますタクミさん! よく眠れましたか?」
エリアルも、佑介同様、朝からテンションが高い。眠りについたのは拓海と同じくらいで、普段よりもいささか遅いはずだが、それをまったく感じさせない。
「おはよう。――眠れはしたが、最悪の目覚めだった」
「ああ、小父様ですね。声がここまで聞こえてましたよ」
別段、川城家の壁が薄いというわけではない。それでも聞こえるということは、それなりに大きな声だったということだ。会話を丸々聞かれた羞恥を誤魔化すように拓海は会話をつなげる。
「それはそうと、起きるのが早くないか?」
「最近はタクミさんに合わせて早めに起きてましてたからね。クセになってたみたいです」
ストーカーはもう捕まった。だから、エリアルにわざわざ早く起きてもらって、一緒に登校する必要はなかった。だが、目が覚めてしまったのなら仕方がない。基本的に早起きはいいことだ。
「おはよ、拓海」
エリアルと朝の挨拶をしていると、キッチンから咲子が出てくる。大あくびをして、眠いのを隠そうともしない。その様子を視界に納めながら、拓海も「おはよう」と返した。
咲子はもう一度あくびをすると、拓海の顔をまじまじとのぞき込んできた。
「大丈夫ー? 怖い夢とか見なかった?」
「なぜ僕の親は二人そろって同じことを聞いてくるんだ。見ていない」
「そう、ならよかったわー。昨日のことがトラウマになってるんじゃないかって心配だったのよねー」
「……」
またしても心配されていた。それが気恥ずかしいやら、申し訳ないやらで、拓海はすぐに言葉が出てこなかった。とはいえ、二回目だ。
「迷惑と心配かけてすまなかった」
「いいのいいの。子供のうちは両方かけて。なでなでする?」
「しなくていい! 堂々と子供宣言できる歳でもないし、子供は子供でも扱いが幼稚園生のそれと変わらないぞ!」
いいことを言ったと思ったらすぐこれである。本当に、拓海の両親は変なところで似ているらしい。
「それより、父さんはどうしたんだ? 今日は時間をずらして行くとか言っていたが……」
「どっか行ったわ」
「お仕事に行きましたよ。『やばい、時間がない! 俺の社畜生命が終わる!』って」
「無計画な……」
夫の出勤を「どっか行った」と表現する薄情な咲子はスルー。エリアルによる中年男性の声真似は非常にクオリティが低かったのもあり、拓海は脱力せざるを得ない。
いつも早く行っていたのではなかったのか。拓海は身支度してから下りてきたとはいえ、佑介に起こされてから十五分も経っていない。これでピンチでは、そもそものんびりする時間などどこにもないということになる。
「いや……」
案外、拓海の精神状態をチェックするために、あえてギリギリまで家にいたのかもしれない。
そう考えると気恥しいことこの上なく、拓海はなるべく意識しないようにして朝食を取った。




