中編
案内された先は、評判の良い靴屋だった。
入ったことはないが、靴の修理を頼みたいならここがいいと、先程まで一緒にいた友人が言っていたのを覚えている。
それだけで、なんとなくこの男性も良い人のように思える不思議。
店に入ると、男性によく似た夫婦が靴を磨いているところだった。
「いらっしゃ…アラン?隣のお嬢さんはどうしたんだい!目が真っ赤じゃないか!まさか、お前が泣かしたのかい!?」
「母さん、違うよ!ふらふら歩いているとこを見かけて、転びそうになっていたところを助けただけだ!」
「…どうやら訳ありみたいだね。ほら、こっちへおいで」
ニカッと笑った顔が、アランと呼ばれた男性にそっくりなその女性は、店の奥に案内してくれた。
靴を磨いている恐らく店主であり、男性の父親であろう人に深く一礼すれば、彼もまたニカッと笑ってくれた。
案内された部屋は生活感に溢れつつも清潔で、とても居心地の良い部屋だった。
「ほら、座んな」
促されるままに椅子に座り、男性の母親で間違いないであろう女性に深く一礼した。
こんな泣き腫らした素性の知れない怪しい女を、家に上げてくれたことへの感謝を込めて。
「ありがとう、ございます」
「いいよ、気にしなさんな。困ったときはお互い様よ。今温かいものを入れてくるから待ってなさい」
そう言い残して、さっさと女性はどこかへ行ってしまった。
代わりにここへ連れてきてくれた男性が目の前の席に座り、私の様子を窺いながら口を開いた。
「ごめんな、母さんはいつもあんな感じなんだ。…大丈夫かい?」
「はい、大丈夫です。むしろすみません、お世話になってしまって…」
「母さんも言ってたけど、気にしなくていい。困ったときはお互い様だ」
男性は人の良さそうな笑みを浮かべて、そう言った。
男性をよく見てみると、黒い短髪で精悍な顔立ちをしている。少し日焼けをした肌は健康的で、爽やかで物凄く人の良さそうな感じた。
一緒にいると、とても落ち着く。
あと、こんなことを言うのは失礼かもしれないが、どことなく犬っぽい。
私は犬が好きなので、なんだかほっこりする。
しかし、ここの家の人たちは随分とお人好しである。
得体の知れない怪しい女に対して、こうも優しくしてくれるなんて。
優しすぎて、それがあたたかくて。ちょっとだけ涙が零れた。
「何があったのかは知らんが…あんたはきっと、笑っている方がいい。詳しいことを知らないから無責任な言葉に聞こえるかもしれんが…元気出せ」
その声があまりに優しくて、私はこぼれてくる涙を少しでも隠すために俯いた。
「ご、ごめん!泣かすつもりじゃなかったんだが…」
慌てて焦っている目の前に座っている男性がおかしくて、思わず泣き笑いのようになってしまった。
さっきまであんなに慌てていたのに、私の顔を見て、安心したように男性は笑う。
「ほら、笑った方がいい。…えっと、名前は?」
「キャロルです。あなたは?」
「俺はアラン。この店の店主の一人息子だ。これも何かの縁だ、よろしく」
「ええ、よろしく」
アランは、とても気持ちのいい人物のようだ。
私は安心して、差し出された手を握る。
握り返された手は恋人のものよりも大きくて、あまり男性を知らない私にはなんだか不思議だった。
「あら、挨拶は済んだのかい」
よく通る声が聞こえたかと思うと、アランの母親が部屋にちょうど入ってきた。
「ほら、飲みな」
そう言って差し出されたのは、甘い匂いが食欲を刺激する、温かいココア。
「いただきます」
淹れたてをいただくと、今まで飲んだどのココアよりも美味しかった。
「おいしい…」
「そうだろう?母さんが淹れるココアは世界で一番うまいんだ」
自慢げに言うアランがおかしくて、思わず笑ってしまった。
それに気を悪くすることもなく、二人も笑ってくれた。
私の事情を聞くことはせず、彼らは色々な話題を提供してくれて、私はいつの間にか二度目の浮気をされたことなど忘れていた。
気付けば夕陽が部屋に差し込んでいた。
随分長いことここにいたみたいだ。あまりに居心地が良くて、時間がこんなに経っていたことに全然気が付かなかった。
「あの、今日は本当にありがとうございました。おかげで、辛いことがあったのですが、立ち直れそうです。感謝してもしきれません」
「いいってことよ。さっきも言ったけど、困ったときはお互い様だからね。あんたがもう泣いてなけりゃ、あたしゃ満足だよ」
「母さん、それ俺が言うつもりだった…」
「だったらあたしより先に言いな!」
困ったような顔で母親を見ているアランは、なんだか可愛い。
「本当にありがとうございました。このお礼は、いずれ」
「いや、礼なんていらないよ。あんたが笑ってくれれば、俺たちはそれでいい」
なんて、いい人たちなんだろう。
弱くなった涙腺を刺激しないように、意識を他に向けるのに必死だった。
「アラン、お嬢さんを送ってやんなよ」
「そのつもりだよ」
「いえ!割と近くに住んでいるので大丈夫です!」
「本当に大丈夫かい?」
「はい!アランさんたちのおかげで、もう大丈夫です」
「じゃあ店先まで送るよ」
「ありがとうござます」
アランの母に深く一礼し、部屋を後にした。
途中、彼らの仕事場である店内へと入ると、アランの父が今度は別の靴を修理していた。
「あの、ありがとうございました!」
「入ってきたときより、いい顔になったね。気をつけて帰んなさい」
「はい!」
またあのニカッという笑顔をして、見送ってくれた。
店の外に出ると、アランが何かを差し出した。疑問に思いつつも手に取ると、可愛くラッピングされたクッキーだった。
「母さんが焼いたクッキーだ。これも世界一うまいクッキーだぞ!…また辛くなったら、これでも食べて元気出せ。あんたは、笑ってる方がいい」
こんなことを言われたら、赤面せずにはいられない。
今が焼けるような夕陽の差す夕方で、本当に良かった。
「ありがとう。大事に食べます」
「気にすんな。じゃあな」
「はい、ありがとうございました!」
深々と一礼をし、手を振るアランに手を振り返して歩き出した。
もう地面を踏みしめても、ふらつきはしない。
アランにもらったクッキーの袋から一枚取り出し、口の中へ放り込む。
うん、これは世界一美味しいクッキーだ。
最初に家に向かったときとは違う力強い足取りで、私は残ったクッキーを握りしめて家へと向かった。
家へと帰ると、何故か怒った顔の恋人である、クリスが待っていた。
「ねぇ、あの男誰?」
あの男とは、どの男だろうか。
心当たりがないので思案していると、苛立ったようにクリスは口を開いた。
「あの靴屋の前にいた男だよ!」
「ああ、アランね」
ポロリと口から溢れた言葉に、クリスは益々怒りを増していく。
「アランって誰!?なんかあの男からもらってたし。もしかして浮気したの?」
嫌悪感たっぷりな顔でそう言い放つクリス。
まさか目の前のこの男の口から『浮気』なんて言葉が出てくるとは。
アランは私の恩人なのに、まさか浮気を疑われるなんて。許せない。
私の心は完全に冷え切った。
「彼は転びそうになった私を助けてくれた人よ」
「じゃあなんであの男と一緒にあの店から出てきたの?」
「彼の家がそこだったからよ」
「家に入ったの!?どういうこと!?僕のこと裏切ったの!?」
「は?」
自分は一年前とついでに今現在も私に裏切りを重ねているくせに、何を言っているの?
私が怒ったときの声色をしているのに気付いたクリスは少し怯むも、こちらに食ってかかってきた。
「酷い!浮気なんて!そりゃ…僕も前に浮気したからあまり強くは言えないけど…結婚まで考えてたのに!」
「それはこっちの台詞なんだけど」
「…え?」
「明日、クリスが浮気してから一年が経つから、あなたからの結婚を受け入れようと思ってたのに」
「なら、なんで!」
「話を最後まで聞きなさい。そう、思ってたの。でもね、私見たのよ。オープンカフェでクリスと以前縁を切ったはずの女性が手を握って、キスまでしているところを」
「え……」
「それで私ショックで、ふらついて転びそうになっていたところを彼が助けてくれたのよ。彼が心配してくれて、迷ったけど彼にお世話になったの。彼との関係は、それだけよ」
「あ、あの…キャロ…」
「ねぇ、クリス。いえ、クリストファー。あなた、二度と浮気はしないって、確かに私に言ったわよね?」
そう言えば、クリストファーはまた地に頭を擦り付けるようにして私に謝った。
「ご、ごめん!縁を切ったのは確かだったんだ…!だけど、最近偶然彼女に再会して、まだ好きだって言われて、それで…」
「それで?」
「断れなくて…また、彼女と会うようになったんだ。そのうちに僕も、彼女が気になり始めて…」
「結婚を約束した相手がいるのに、絆されて、キスまでしたと」
「本当にごめん!そんなつもりなかったんだ!」
「私にはあなたも喜んでキスしていたようにしか見えなかったけどね」
「ごめん、ごめんキャロ!今度こそ彼女とは二度と会わないから、別れるなんて言わないで!」
泣いて謝るクリストファー。
私は、彼になんと答えてやればいいのだろう。
色々、言いたいことはある。だけど今はまだ怒りで頭が沸騰して、冷静になれない。
「一日、時間を頂戴」
「うん!」
涙でぐしゃぐしゃになった顔をほころばせ、何度も何度も頷いている。
私が「時間を頂戴」と言うときは、いつも結局許してしまうときだ。
だから、彼は今回のことも許してもらえると思っているのだろう。
だけど彼には悪いが、今回は許せそうにない。
今頭を占めているのは、どう別れようかということばかりだ。
許せることにも限度があることを、彼は知らない。
これも、私が甘やかしてきてしまったせいだろうか。
一人寝室に向かい、彼が買ってくれた鏡台の椅子に座る。
鏡に映る私の顔は、怒りで悪魔のようになっている。ああ、なんて醜い。
ふと握っていた手を見れば、そこには世界一美味しいクッキーがあった。
鏡台にそっと置き、握りしめていたせいで少し形の崩れてしまったクッキーを、一枚食べる。
美味しい。美味しくって、涙が出る。
少し余裕ができた私は冷静になるために、まずは体を清めようと浴室に入ることにした。
クリストファーが浴室に入る前に夕飯を何にするか聞いてきたが、食欲がないのでいらないと答える。実際、食欲はまったくない。世界一美味しいクッキー以外は食べたくない。
身体を洗い、寝室へ戻ってベッドに転がった。
先ほどの彼の顔を思い出してみる。
私にとってはもう、彼の顔は恋人ではなく弟にしか見えなくなってしまっていた。
彼との結婚生活を、もう描けない。
時間が経ち、冷静になって悲しさと怒りの他に、悔しさも湧いてきた。
私という恋人がいるのに、どうして浮気なんて。
クリスにとっては、私はその程度の恋人だったの?
なら、なんで結婚の約束なんてしたの。
そんな思いが、ぐるぐると胸中を巡る。
私はどうすべきなんだろう。このまま怒りに任せて、別れていいんだろうか?
後悔しないだろうか?
頭が冷えると、そんな風に彼に有利なことを考え始めてしまう。
恋人としては見切りをつけても、幼馴染としては彼を切り捨てることは、まだ難しい。
結局、なんと答えればいいのか分からないまま、私は眠ってしまった。