第1話 『降臨』
暗転していた視界が晴れ、意識が急浮上する。
同時に、感覚のなかった手足に血が通い、徐々に存在感を増していく。
視界の右下で踊っていた「NOW LOADING……」の文字列はいつしか消えていて、目の前には、雲一つ無い青空が広がっていた。
背中には、ふさふさとした草の感触がある。
「よっと」
身体を起こし、試しに右手をグーパーと握ってみる。
グー。パー。グー。パー。
うん。
問題なく動く。
神経との接続は良好だ。
違和感もない。
完全没入型のVRゲームをプレイするのは初めてのことだけど、すごいものだ。
周囲の風景や五感の感覚だけでは、現実世界との区別が付かない。
辺りには草原が広がっているが、これがゲーム内の風景だとは、にわかに信じられないくらいだ。
仄かに漂ってくる草の香り。
身体に吹き付けてくる、そよ風の感触。
その生々しさには舌を巻くばかりである。
「ANOTHER WORLD」の専用VRハードでは、特殊な電磁波によって脳に届く電気信号を遮断し、
代わりにゲーム内の出来事にリンクした信号を脳に送っている。
例えば、ゲーム内でステーキを食べた場合、
舌や口中の細胞が発する電気信号を、ハードから脳に直接送り疑似体験させるわけだ。
そのため、理論上は、仮想空間と現実世界の見分けがつかないようになっている。
もっとも、痛覚だけは例外で、人体の許容量を超える刺激は強制的にカットされる仕組みになっている。
そうしないと、仮想空間の中でモンスターに襲われたりした場合に、
ショックで死んでしまう危険性があるからだ。
ただ、僕はこの仕様に反対だ。
僕はこの世界のことを、現実世界に匹敵する「もう一つの世界」と定義している。
ならば、リアルさは徹底的に追求すべきだろう。
ほんの少しでも、ゲーム内での出来事で現実に反映されないことがあるのなら、
それはもはや現実世界と同格ではない。
ただの遊びに成り下がってしまう。
僕はこの世界で第2の人生を歩む。
万が一、何らかの事故が起きて重傷を負い、現実世界の身体がショック死を起こしたとしても、
それはそれで本望だ。
と、いうわけで。
僕は事前に闇サイトで情報収集し、痛覚制限を外しておいた。
テストプレイを行ったときに効果を確認することを忘れていたので、今のうちに確認しておきたい。
僕は管理者権限を使って編集ウィンドウを呼び出した。
何もない中空に、突如として真っ黒な画面が現れる。
まるで、wind○wsのコマンドプロンプトのような外観だ。
大量の数字と文字列が次々に画面上を流れており、操作性はすこぶる悪い。
おそらく、多くの人には怪しげな呪文のように見えることだろう。
創世の段階でかなり細かい部分まで凝った結果、システム面がおざなりになってしまったのだ。
この画面からまともに操作できるのは、たぶん世界で僕一人だけだろう。
ちなみに、この編集ウィンドウは僕にしか見えないし触ることはできない。
この世界の物理法則や棲息する生物の情報を閲覧、管理できる唯一の窓口だからだ。
この画面を操作できることこそが、僕が世界の主であることの証明になっている。
慣れた手つきでウィンドウを操作し、中空にナイフを創り出す。
材質は鉄。何の変哲もない、ただのナイフだ。
それを右手で掴み、僕は勢いよく左手に振り下ろした。
「いっでえええええええええっ!!」
突き刺さった手のひらからドバドバと血が溢れだす。
思ってたより痛い!
ナイフを中心に、ジンと燃えるような熱が左手に広がっていく。
勢い余って、手の平を貫通してしまったようだ。
左手の甲から、鈍色の角が生えている。
僕は慌ててナイフを引き抜くと、治療を開始した。
治療と言っても、絆創膏や包帯を巻くわけではない。
それは現実世界での治療法だ。
もちろん、そうした治療法はこの世界でも有効だが、
この世界では、それよりも簡単で即効性のある方法がある。
「…………ッ」
右手を患部に当てて、意識を集中する。
すると、右手がボウッと蒼い炎のような光を纏い始めた。
光に照らされた傷口では、血が止まり、えぐれた肉が元に戻り、
少しずつではあるが、徐々に回復し始めているのが見える。
現実世界ではあり得ない光景だ。
でも、この異世界では当たり前の光景なのだ。
この世界に生きる生命体なら、誰もが使える奇跡の力。
もちろん、デザインしたのは僕だ。
名前は付けていない。あくまで、この世界に備え付けられた法則の一つに過ぎないから。
仮に現実世界を生み出した神様がいたとして、質量を持つ物体が他の物体に及ぼす力のことを「重力」なんて名付けるだろうか。
いや、しないだろう。
それは、その世界に住む住人達が勝手に名付けたに過ぎないのだ。
ただ、一部の異世界人達は、この奇跡の力のことを「神術」と呼んでいる。
なんとなく格好良いので、僕はこの呼び名が気に入っている。
「神術」は、相応の代償を支払うことで、術者の望む奇跡を引き起こす。
しかも支払う代償次第では、どんなことでも実現できる仕様にデザインしてある。
それこそ時間を止めたり、死者を蘇らせることだって、理論上は可能だ。
もっとも、製作途中にざっくりと観察した限りでは、
異世界人の中でも仕組みが十分に解明されておらず、
そこまで大それたことを実行した個体はいなかった。
大がかりなケースでも、天候を操作して畑に雨を降らせるとか、
都合の悪い人間を呪い殺したりだとか、その程度のものだった。
それも、ひどく効率の悪い方式を採用しているので、十分な力を発揮できていない。
おそらく、これから何百、何千年と時間を掛けて
異世界人達が理論を構築、発展させていけば、もっと洗練された術を見ることができるのだろう。
さながら、地球の科学史のように。
もしかすると、工夫次第では、僕の想像を超えるようなものも見られるかもしれない。
その時が楽しみである。
もちろん、仕組みやアイディアを考えたのは僕なので、
僕だけは使い方も原理も完璧に熟知している。
その気になれば、何だってできるだろう。
知っているだけで、実際に使ったことはないけれど。
ともあれ、傷を治すくらいは朝飯前である。
「…………ふぅ」
目をつむり、意識を集中する。
体内に眠るエネルギーを、ゆっくりと引き出し、かき集めて、患部に凝縮させるイメージ。
集まった生命エネルギーを癒しの波動に変えて、患部の細胞一つ一つを包み込んでいく。
さながら、お中元の包装紙のように丁寧に。
真心と丹精を込めて包み込んでいく。
この作業には高い集中力が必要だ。
雑念を排除し、患部の感触に全神経を注ぐ。
そのまま、十秒。二十秒。三十秒……。
今、損傷した数万個の細胞が奇跡の復活を遂げた。
見えないが感覚で分かる。
残りはだいたい百万個……。
このペースなら、完治までだいたい、えっと、あー、20分、くらい……?
いや、待って。
思ってた以上に長い。
そういえば、術の効果と速度は熟練度に依存する仕組みにしたんだっけ。
机上の理論だけでポンポン大技が使えてしまうとつまらなかったとか、確かそんな理由だ。
しかし、よくよく考えてみるとマズい。
僕は理論は完璧だけれど、術を使った経験は皆無だ。
熟練度なんて無いに等しい。
下手をすると、まともに術が使えないのではないだろうか。
いや、今はそんなことどうでも良い。
僕は神様なのだ。
その気になれば、ルールを改変すれば良い。
僕が世界に合わせるのではなく、世界を僕に合わせれば良い話だ。
それより問題は、意識を集中すると余計に痛く感じてしまうことだ。
いずれ治るとはいえ、痛いものは痛い。
痛覚制限を外したのは失敗だったかもしれない。
というか、痛すぎて術に集中できない。
「つ、痛覚テストはこの辺でいいかな……」
言い訳をするように一人呟く。
別に誰が聞いているわけでもないから、体裁なんてどうでも良いのだが、なんとなくである。
僕は「神術」による治療を諦めて、管理者権限を使って強引に傷口を元の状態に戻した。
まぁ、わざわざゲーム内の力なんて使わなくても、僕は今、文字通り「神様」なわけだから、やろうと思えば何だってできる。
この世界において、僕に不可能はない。
それにしてもーー。
僕は完治した左手を見つめて、万感の思いを抱く。
「本当に、夢みたいだ」
叶わないと諦めていた夢。
叶うはずがないと、心のどこかで諦めていた夢。
それが今、現実になっている。
この瞬間から、待ちに待った第二の人生が始まるのだ。
やりたいことを、やりたい時に、好きなだけやる。
誰にも邪魔はさせない。
僕は管理者権限を使って編集ウィンドウを呼び出すと、
数多ある数字の羅列から、『不幸指数』と書かれていた指標をタップした。
同時に、サポート用の音声システムを起動して命令する。
「半径100km 圏内に存在する知的生命体の中で、最も不幸な個体を調べろ」
『かしこまりました』
神様になったら、まずやろうと思っていたこと。
それは信仰を集めることだ。
しかし、どうやって信仰を集めるか。
その答えは地球史にある。
太古の昔から、宗教は救いを求める人々の間で広まった。
つまるところ、不幸な人々を何らかの形で救済すれば良いのだ。
そのためには、不幸な個体を識別する必要がある。
そこで導入したのが、この『不幸指数』だ。
不幸指数は、知的生命体の精神的なストレスを数値化してくれる。
これにより、困っている個体を迅速に発見し、効率良く布教を行うことができるのだ。
もっとも、その気になれば人間の脳内を操作して、
無理矢理に信仰心を植え付けることもできるのだが、なんというか、それは僕の美学に反する。
自慢じゃないが、僕は神様について、並々ならぬこだわりを持っている。
神様になる方法は勿論だが、なった後にどうあるべきかについても考察を重ねてきた。
伊達に青春時代を神学に費やしていないのだ。
真の神とはこうあるべきだ、という確固たる答えが、少なくとも僕の中にはある。
思うに、神に必要な要素は3つだ。
1つ目に、自由。何人たりとも侵すことのできない、完全なる自由。
2つ目に、力。世界のありとあらゆるものを思い通りに動かすための、圧倒的な力。
そして3つ目に、信仰だ。いくら強くて自由があっても、崇める人がいないのでは神様になれない。
そういう意味じゃ、中世のローマ教皇なんかも、不完全ながら神に近い存在だったと言える。
彼は絶大な信仰と、国家を意のままに操る程の力を持っていた。
魔法が使えないことを除けば、あと一歩のところだったと言えよう。
『サーチ完了。認識番号X34S-6409204。(X,Y)=(120004206365,254262426222)地点。現在地からおよそ24kmです。』
「そうか。ご苦労」
そうこうしているうちに、音声システムから報告が上がった。
どうやら、お目当ての個体が見つかったらしい。
いよいよ、記念すべき異世界人1号との対面だ。
僕は管理者権限を使用し、予め用意していたアバターに変身する。
純白のコートに身を纏い、体格は中肉中背。
神秘的な雰囲気を醸し出すため、素顔は仮面の下に隠され、背中には禍々しい漆黒の翼が映えている。
さながら、映画に出てくる堕天使のようだ。
神様というと、頭の上に輪っかのあるヨレヨレのおじいさんなイメージが強いが、
見た目が格好悪いのでボツにした。
やはり自分が演じるのだから、自分が格好良いと思う姿形を選ぶべきだ。
身なりは重要だ。
ボロ着に身を包んだ浮浪者が「俺は神様だ」などと言っても、
頭のおかしいヤツとしか思われないだろう。
それに、多くの人間は無意識のうちに、人を身なりで判断しているという心理学の実験結果もある。
それだけ身なりは重要なのだ。
「くふふ。ふふはははは! はぁーっはっはっはぁ!!」
アバターの換装を終えた僕は、高ぶる感情のままに大地を踏みしめ、大空へと跳躍した。
反動で大地が陥没し、巻き起こった突風が周辺の草木を乱暴に揺らす。
「待っていろ、まだ見ぬ異世界人Aよ!! お前を僕の信者1号にしてやるッ!!」