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「松矢さん、一緒に帰らない?」
その日の放課後、吉野がそんなことを松矢に言った。
「は……?」
松矢が目を瞬かせている中、吉野はその手を掴む。
「駅までだけど……ね? そうしない?」
吉野さつきは、女神のような存在だった。
人が困っているのをを放っておけない性格だった。
だから――だからだ。
当然、松矢のこの現状に、心を痛めていたのだ。
「ねーw知ってる?w国語の福丘wあれ絶対ヅラだよねwww」
松矢の下品な笑い声が、耳に届く。
隣で聞いている吉野は、終始苦笑いだった。
「そwんwなwにwハゲを隠したいのかよwwwねーwww吉野さん馬鹿じゃないのって思わないw」
「え……どうかな……」
いるよな……こういう人を見下さないと笑いを取れない奴。そしてドン引きされてる奴。
昨日の放課後以降、松矢は、吉野のグループと行動を共にするようになった。
当然のことながら、吉野の友人は皆上品な――お嬢様というわけではないが、クラスの中でも偏差値の高い奴だったり、風紀委員会に入ってたり、超が付くほどの真面目な人間だったりする。
そんな彼女たちが、松矢のトークを面白いと思うはずもなく……
「あれーwwwどったのwなんか暗くなーいwないないなーいwwww」
吉野の隣に座る、小田桐さんの眉がぴくぴくと動いている。
彼女は風紀委員会に入っていて、これまでに何度も松矢達に注意をしてきた人間だった。
まさに松矢とは水と油であり、はっきりと敵対関係にあると言っていい。
それを我慢しているのは、偏に吉野の顔を立てているのだ。
「松矢さん、もう少し、黙って食べられないのかしら?」
それでも一言言いたかったのだろう。小田桐さんの言葉に、「は~www」とゲハゲハ笑う松矢。
「もっと楽しくたべよーよwせっかく友達になれたんだしーww」
「……」
そこで、吉野の隣に座る三島さんが席を立った。
「ちょっと三島っちどこ行くのwww」
「お手洗い」
「トイレとかwwwきったねえwwww」
「……」
何も言わずに、三島さんは教室を出て行った。たぶん、彼女は昼休み終わりまで帰ってこない気だろうな。
「ねーねー、狭山君」
僕の向かいに座って弁当を食べている芦田が、小声で僕に提案してきた。
「どうやったら私も吉野さんのグループに入れるかなあ?」
「え……お前、あそこに入りたいのか……?」
どういう頭をしているんだ。わざわざ地雷原に突っ込む勇気は、僕も持ち合わせていないぞ。
「だって、今このクラスで一番地位の高いとこって吉野さんのとこでしょ?」
お前本当にそればっかだな。
まあ、アホは放っておいて……松矢との会話に適当な相槌を打っている吉野を見て、僕はため息を吐いた。
そんな僕の苦悩とは露知らず。げらげらと笑う松矢。
「あーwwwほんとwww前にいたグループ抜けて良かったわwwwあいつら馬鹿すぎてさwwww」
――拗らせやがって。
空気を読むことにかけては、松矢里奈は学校一と言っていい。彼女はビッチ同士ならビッチの振る舞いを、淑女同士なら淑女の振る舞いが出来る女だった。
それであんな態度をとっているのはつまり、吉野たちのグループを引き裂こうとしているのである。
大方、吉野の偽善的行動に腹が立って、だ。
それだけならよかったのだが……
僕は困りつつも、笑みを浮かべている吉野に目を向ける。
松矢……運のいい奴め。仕方ない。
「そういえば、何で今日は教室でご飯食べてるの?」
吉野と松矢の様子を見たかったからだが、そんなことを彼女に話しても仕方ない。
「芦田、頼みたいことがある」
松矢の処分が決まるのは、今日の職員会議。急がなければならない。
放課後となって、僕は吉野と一緒に帰ろうとしている松矢を呼び止めた。
「松矢さん、ちょっといいかな」
松矢たち一派にはバレてしまったが、学校内ではまだ気弱な少年を僕は演じている。
「……なに?」
僕を見ると、彼女は訝しげな表情をする。
「ちょっと話したいことがあるんだ」
「あー? だめだめ。あたし、今日、吉野っちと帰る予定があるから」
「今日じゃなきゃダメなんだ」
「はーwww告白でもすんのかよwwwwだっさwはいお断り―wwwばいびー」
僕は彼女の腕をつかみ、小声で告げた。
「お前の母親が、馬鹿にされたままでいいのか?」
僕の言葉を聞いて、彼女の表情から感情が抜ける。
間髪入れずに、様子を見ていた吉野に僕は断りを入れた。
「吉野さん、ごめん。松矢さんに用事があるんだ。悪いけど」
「あの、松矢さん。私も、今日ちょっと用事があるから、一緒に帰れないの」
「……あっそ」
と、松矢は失望したような顔を――それすらも演技なのだろうけど――僕に向き直った。
「いいけど、手短に頼むわ」
僕は旧校舎の空いてる教室まで連れ出す。
ここなら、誰にも聞かれることはない。
「……なんなわけよ。実際」
教卓の上にレースの付いた赤色のパンツが乗る。松矢が、髪をかき上げて、僕に尋ねる。
「お前の無実を証明してやる」
僕は要件を端的に述べた。
「は~?」
教卓の上であぐらをかいた松矢は、馬鹿にしたような顔をする。
「なーに? 今更ぁ? お前の無実を証明するって何? ばっかじゃないの?」
「お前が盗んだわけじゃないんだろう?」
「……」
松矢は押し黙って、不機嫌そうな顔をする。
いや、黙るなよ。そこは肯定してくれないと、話が進まない。
「つか、あんたなんなわけ? この前までなよなよしたオタクだったくせに、彼氏のしちゃうし……何で弱いふりしてるのよ?」
「……こっちにも色々理由がある。今重要な事は、お前が無実を証明したいか、したくないか。それだけだ」
ともかく、時間がない。現在、彼女の処分について、職員会議をしている最中だ。おそらく、停学か退学か……今日には決まってしまう。
迅速な行動が必要だった。
それには彼女の協力が必要だった。
「あんた随分と調子の良いこと言ってけど、そんないい子ちゃんじゃないでしょw……気に食わねーよ」
「そんなこと言ってる場合か。お前、退学になるかもしれないんだぞ」
「いーけど別に? だから何? あんたに関係ないっしょ」
「お前が良くても、吉野が悲しむし……お前の母親だって悲しむだろ」
「ババアは関係ないでしょーが!」
キッと僕を鋭い目で睨んできて――彼女は気まずそうに目を反らした。もうその態度で自白しているようなものだ。
「……あー、そういうこと? 吉野のポイントを稼ぎたいんだ? あほくさ」
よっぽど気に障ったのだろう。彼女は意地悪な笑みをして、僕を罵った。
「くだらねー下心の為に、利用されたくないわ」
違う。
僕が彼女を救うのは、吉野によく見られたいからではない。
彼女を救わなければ、吉野も孤立してしまうからだ。
松矢は先生に呼ばれたから知らないだろうが――財布を盗んだ犯人だと決めつけられた時、吉野はただ一人、真っ向から擁護したらしい。そんなことをする人じゃないと。
彼女もまた、松矢里奈の性格を知っているのだ。自分の手を汚す人間ではないということを。
そして、彼女は、松矢が停学や退学になってしまえば、それを撤回させようと動くはずだ。抗議行動や、署名運動などが展開されることだろう。
その結果――クラスの連中からドン引きされることになる。ただでさえ、松矢に救いの手を差し伸べてドン引きされつつあるというのにだ。
彼女は中学時代、そういった性格から孤立してしまったことがあった。そのトラウマから、聖人のような行動が表立って出てこなかった。
しかし、今回、彼女は松矢が盗んでいないことを確信している。そして、それは正しい。だからこそ、絶対に止まらない。中学時代のトラウマを、一気に乗り越える可能性があった。
そんなことを松矢に話しても、「だから何?」だろう。
そもそも、吉野のことなんて彼女はどうとも思っていないのだ。
だが、それだと僕が困る……
人間は、唯一、美しい物に惹かれる生き物だ。
美術館にある昔の絵や彫刻、クラシックの音楽が未だに演奏されるのは、それを美しいと思う人間が時代を経てもいるからである。
僕はその吉野の行動を、美しいと思う。
僕が――女性のパンツを見ることにしか価値を見いだせない僕が、だ。
自分でも不思議なことのように思う。
そして、僕は、美しい物が好きだ。いつまでも見ていたいと思っている。
つまり、吉野は、僕にとってパンツと同価値の人間なのだった。
だからこそ、なんとかして彼女を守りたいと思っている。
「お前を陥れた人間の、思い通りにさせていいのか?」
僕は立ち去ろうとする松矢に、再度説得を試みる。
「別に。つか、あんたにかんけーないでしょ」
松矢は吉野に対しての態度もそうだが、想像以上に子供だった。
僕に拗ねてどうすんだといいたい。
僕は思わずその手を掴んだ。
「……何よ?」
「このまま、お前に学校を去らせるわけにはいかない」
「つか、キモイんだよ。そんなにまでして吉野のポイント稼ぎたいわけ?」
「だから違う、それは――」
ハッとなった。思いつく。これ以上はないという言い訳を。
「それは違う。お前のことが、好きだからだ」
「――は?」
目を瞬かせて、僕を見る松矢。あまりにも予想外の言葉だったからだろう。
僕はまくし立てた。
「何で僕がお前に弱いままの振りをしていたと思う? ……それは、お前に構ってもらえると思ったからだ。お前は、ドSで、人の不幸を見て楽しむ人間だ。僕が弱いふりをすれば、嬉々として苛めてくるだろうと思ったんだ」
それは嘘で、僕が弱いふりをしていたのは、パンチラを拝むためである。
だが、その嘘を押し通さなければ、吉野が不幸になってしまう。
松矢が僕の迫力に押されたのか、一歩下がる。僕はその距離を詰める。
「ちょ、ちょっと待ってよ」
「いいや、待たない。好きな人が、学校を去ろうとしているんだぞ」
後ろに逃げていた松矢の背中が、壁に着く。僕はその距離を詰めて、彼女に告げた。
「嘘でしょ。あんたがあたしを好きになる要素なんかないわ」
その通りで、僕は彼女に対し、恋愛感情なんてない。
だが、これはまさに嘘も方便だ。
そもそも、彼女は僕と付き合うことは断じてない。彼氏持ちだし、僕のことを心底馬鹿にしているからだ。重要なのは、彼女がこの場で納得するか否かだ。
「何でそう決めつける? 現に僕はお前を無罪にしようと思っている……何のメリットもないのにだ」
「あんた、芦田と付き合ってるんじゃないの?」
「そんなわけないだろ」
僕は即答する。
「あれは勝手に付きまとわれているだけだ」
「……だって、今更よ。あたしのこと、全部知られたのよ? 今更、どの面下げて学校来れるっていうのよ」
何言ってんだこいつ。
「今まさに、学校に来ているじゃないか」
僕の言葉に、彼女はハッとなった。
「それは……その」
「自分が盗んでいないからだろう?」
彼女が四面楚歌の中、学校へ来ているのは、怒りのためだ。
何で無実なのに、こんな理不尽な目に合わされないといけないのか――学校へ行かないと、暗に罪を認めてしまうのが嫌だったのもあるだろう。
「そうじゃなくて。今更、無実が証明されても、意味ないって言ってんの。友達も全部、いなくなって……貧乏だってバレちゃったわ。馬鹿にされながら学校生活を送るなんて、嫌なのよ」
「そんなことでか?」
「そんなことって」
僕はため息を吐いた。
「確かにお前は嘘を吐いた。今の状況は、その為に生じた報いだ。人を見下し、人を遊び道具にし、自らは責任を持たない。バレてしまったらとかげのしっぽ切り。もしくは暴力で解決しようとして、自分は絶対に手を汚さない。あとは知らぬ存ぜぬ。軽蔑されても仕方のない事をしている」
「……」
「貧乏がなんだ? そんなことを理由に友達付き合いを辞める奴なんて、こちらから願い下げじゃないか」
「……あのさ」
「そんなこと、といったのは、このままだと最低の人間として学校を去ることになる。そして、それは、一生覆らないんだぞ。バカにされるのと、それと、どちらがいいのか明白だ」
「聞け!」
松矢がそんなことを言いながら、股間を蹴り上げた。咄嗟に僕は睾丸を内部に収める。
「~~っっ! 何をするんだ」
もんどりうった演技をしつつ、僕は彼女を見上げながら抗議した。
彼女は悪びれもせずに髪をかき上げる。見下ろしながら、僕に尋ねる。その顔は、いつもの松矢里奈だった。
「……あんた、本当にあたしを好きなわけ?」
思わず僕の本音が出てしまって、松矢が訝しんだようだった。
「好きだ」
「そうは見えないけど――まあ、いいわ。確かに、このままなのは癪だしね」
最初から素直になれといいたい。
芦田から電話が入ったのはその時だった。