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「――誰かと思ったら、狭山じゃないの」
彼女は僕の顔を認めると、余裕な笑みを浮かべた。
「松矢さん……」
うわ言のように呟く、芦田の声。
松矢里奈。緑ヶ丘高校2-Cのスクールカーストのトップ。そして、その友人たちが、僕の前に現れた。
松矢の登場で、僕はなんとなく何故芦田が痴漢行為に及んだのか大体想像がついてしまった。
「未来、もう大丈夫よ。こっちに来なさい」
松矢は、さきほどとは打って変わって慈愛に満ちた表情をする。
その言葉を受けて、彼女は松矢の方へと走っていってしまった。
「よくも未来を苛めてくれたわねえ、狭山」
苛める……?
そんな馬鹿な。今までの僕の行動の、どこをどう切り取ったら苛めた行為になるんだ?
むしろ――僕は呆れて、もう気弱な男子生徒の演技を辞めて、尋ねた。
「芦田さんを苛めていたのは、お前の方じゃないのか?」
そう。
おそらくは、彼女たちが芦田に命じたのだ。
おじさんのそばに立っている女性のお尻を触ってこいと。
――その理由を、僕は分かってしまう。彼女がどういう人間かは、知り尽くしていた。
「……っ、お前だってwwww」
松矢がげらげらと笑った。
「ばーかww典型的イキりオタクじゃんw芦田さんを苛めてたのは~お前の方じゃないか~wwww」
「うざwww」
「腹やめなよww」
友人たちも下品に笑ってる。
芦田はというと……何だか安心したように微笑んでいる。
「……狭山、今なら何もしないであげるから、そのスマホを渡しなよ」
松矢が言った。
「断る」
「あんたさあ、状況考えなよ?」
松矢の後ろにいた男二人が、進み出る。
一人は金髪で、目が鋭い男だ。タバコを口にくわえていて、タンクトップ――何で筋肉質の男はタンクトップを着るのが好きなんだろう――の隙間からはみ出るように筋肉が盛り上がっていた。
もう一人は、日焼けした、いかにも遊び人風の男だった。わかめみたいなパーマをかけている。
「ぼこぼこにしちゃっていいの?」
その遊び人風の男が松矢に確認を取った。松矢は笑みを浮かべて頷いた。
「いーよwいーよwやっちゃってw」
僕は嘆息する。
僕には喧嘩や格闘技の才能はない。
生来、筋肉が付きにくい体だった。どうにか足の速さだけは死活問題になりかねないので人並み以上になれたが、腕立て伏せも十回できない位に非力だった。
だが、僕が彼らに負けるはずがない。百パーセント、言い切れた。
遊び人風の男が、良い所を見せようと思ったのか、厳ついのよりも先に僕に向かってきた。
僕はこれまで、パンチラを見ることだけに費やしてきた人生だった。
しかし、女性のパンツをメディアに記録する行為は犯罪だ。
そして、罪を犯せばいずれ警察に捕まってしまう……そうすると、二度と素晴らしい瞬間に立ち会えなくなる。それだけは絶対に避けたい。
どうすればいいのか――頭の中までは、警察は追ってこないことに僕は気が付いた。
つまり、カメラなんかに頼らずに、脳裏に永遠に焼き付けることさえできれば、僕は捕まることはないのだ。
しかし、現実の世界で、肉眼でパンチラを拝むことは難易度が高い。
気まぐれな風によるものか、女性の無意識下において見えてしまったとか――一瞬の偶然に期待するしかない。
しかも、その女性に気付かれないようにしなくてはならない。もしパンツを見られたことに気付かれてしまったら、女性は烈火のごとく怒ることになる。最悪、僕は警察に捕まることになり、性犯罪者の烙印を押される。
そうならないために――僕は頭をフル回転して予測した。
風、シチュエーション、女性の立ち位置、筋肉の動き、天気、湿度、気温……ありとあらゆる要素を吟味し、パンチラになる瞬間を逃さないようにしたのだ。
それを続けていると、ある時、“見える”ようになった。
その人物の、未来の動きが。
といっても、超能力が備わったというわけではない。
眼球の動きや、呼吸、足運びなどから、その人物が、その後どのように動くのかが分かるようになった。
例えば、この目の前の遊び人風の男。
彼は、僕に掴みかかってその拳を右頬にたたきつけようとしている。
僕が逃げ出すと思っているので、やや早足だ。彼の動きは実に単調だ。僕を見下しているのだろう。
そんな相手を倒すのは実に簡単だった。
僕は彼に向かって駆けだす。僕が向かってくるとは思わなかった。若干、慌てて、僕に掴みかかろうとする。分かっている動きだ。答えを教えてもらってテストをしているようなものだ。
すぐさまに横にステップして、足を思い切り引っ掛けて転ばせる。
「あら――」
男が、コンクリートの地面に強かに打ち付けられる。その頭を、僕は思い切り踏みつけた。
「……」
退屈そうに歩いていた目つきの鋭い男の空気が変わる。
僕の動きを見て、格闘技経験があるのだろうと思ったのか。
ステップを踏んで、僕に相対する――ボクシングの構えだ。
僕が右に行こうとすれば、右から回り込んでストレートを。
左から行こうとすれば、回り込んでストレートを。
このまま突っ立ていたら、普通にストレートを叩きつけられる。どちらにせよ、やられるのが目に見える。
しかし、道がなければ作ればいい。
僕は鞄から国語辞典と漢和辞典を取りだした。右手に国語辞典、左手に漢和辞典を持ち、男に相対する。
「……っ」
予想外の動きに、目つきの鋭い男の表情が強張る。僕に向かう動きが、全てリセットされたのが“見えた”。そして――そう。この瞬間だ。
僕はひょい、と漢和辞典を彼に投げた。
ごう、といきなりの突風が起こった。
「っ!」
僕の投げた漢和辞典は、彼の頭に直撃する。
「――ざっけんな!」
彼が目を開けた時、そこに僕の姿はいない。泡を食って僕を探す彼の顎に――僕の右手に持った国語辞典が、たたき込まれていた。
僕は彼が漢和辞典と突風に気を取られた隙に、彼のすぐそばまで接近したのだった。
「――」
人間の体の中で、どうやっても脳みそと心臓は鍛えることが出来ない。
顎に強い衝撃を加えると、脳が左右に揺れて、脳震盪を起こす。大の男だろうと、その例外はない。
彼は白目を剝いて、足から崩れ落ちる。そのまま動かなくなった。
「――」
松矢たちが息を呑んでいた。
それはそうだろう。
今まで格下だと思っていた相手が、予想外に強かったからだ。
僕は彼女に向かって、尋ねた。
「何で芦田に痴漢行為をさせたんだ?」
僕の言葉で、彼女はハッとなって、それを否定した。
「はあ~? 何言ってんのあんた? そんなわけないじゃん」
彼女の言葉に、芦田がびっくりして反論した。
「松矢さんがやれって言うから……」
「あたし、そんなこと言ったっけ?」
と、友人たちに確認を取ると、彼女らは「言ってない」と松矢を支持した。
「だ、だって、遊びをやるって……度胸試しだって言ってたじゃん……」
「知らねーw何それ? 何勝手にあたしのせいにしてんのよw あんたが勝手にあの女の人のお尻触ってんじゃんwばっかじゃないのw」
「そういうゲームだって言ってたじゃない! 会社員の人に、痴漢の濡れ衣を着せるって」
「酷いわねえ、そんなこと考えてたの未来って……はあ、友達だと思ってたのに」
「……だって」
涙目になってる芦田。
酷い世界だと僕は嘆息する。
彼女らの言っていることは、本当のことなのだろう。
暇潰しに、他人の人生を壊すゲームをしていたのだ。そんなに暇なら、スマホゲームをしていればいいものを。
「じゃ、そういうことだから、後は煮るなり焼くなりしてよねwそれじゃーねwばいばーいw」
「おい、待て話は……」
彼女が逃げ出そうとしたので、僕が呼び止めようとした。が、パトカーのサイレンでそれを断念した。
「くっ……」
高校生が喧嘩していると、誰かが通報したのだろう。
僕もまた、その場から離脱することにする。事情聴取で顔を覚えられるなんて御免だった。