鬼血衆(きけつしゅう)
ガジュア一の商業街レンブールから少し離れた所に存在する小さな湖、エンリク。翡翠色に輝く不思議な水面が訪れた者の心を癒し、他の湖では決してお目にかかれない奇怪な生き物達が見られる、ある種のテーマパーク。そんな湖畔の岩場で、あたしとエルは釣りに勤しんでいた。
「うーむ、釣れん」
「まだ5分も経ってないじゃないですか。釣りとは、自然を満喫しながらゆっくりと時を過ごすのも楽しみの1つなんですよ?」
「うーん、じっとしてるのはあたしの性分じゃないなー」
「そうでしょうね。私は好きですけど」
エルは上手に岩で手作りの竹竿を固定して、のんびりと読書に耽っている。趣味が趣味だけに、エルは釣りと相性が良いんだろう。段差にかけていた両足をぶらぶらさせながら水面を覗き込んでいると、エルが唐突に本を閉じた。
「どったの?」
「かかったみたいです」
立て掛けられた竹竿を見ると、先がしなやかに曲がりピクピクと動いていた。
「この引きは10cm前後でしょうか」
エルは随分と慣れた手つきで竹竿を左右に揺さぶった後、一気に引き上げた。釣られた真紅の魚は元気良く地面を飛び跳ねて、自らの鮮度を体現している。
あたしは魚の尾びれ手で軽く押さえて、エルのポーチから取り出した木製の物差しで測った。
「…確かに。10.3cm」
「テイオーマダイと呼ばれる種類の子供ですね。淡泊で舌触りの良い、老若男女問わず人気の高級魚です。…珍しいのが釣れましたね」
「へーえ。しっかし、よくそんなこと知ってるね?」
「伊達に本の虫じゃありませんよ」
「へへ、博学ぅ♪…うっはー!今夜は豪勢な食事になりそうだなー!」
ここ数日まともな食事をとっていなかった分、あたしにとってテイオーマダイは神様に見えた。
「リノ、涎」
「はっ!いかんいかん」
無意識のうちに垂れていた涎をハンカチで拭っていると、急にもよおしてきた。潮風に当たり過ぎたかもしれない。あたしの表情でそれを察したのか、エルはあたしの背後にある小屋を指差した。
「漏らさないで下さいね」
「子供じゃあるまいし!行って来る!」
あたしが駆け出したのを見送ってから、エルは静かに竹竿の所に戻っていった。
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「ふいー。危なかった」
危うく子供になるところだった。しっかりと手を洗ってから、小屋を後にする。戻る前に、岩場で何か食べられる物でも獲ろうかな。そう思った時、微かな殺気を感じ取る。
あたしは咄嗟に獲物を構えて周囲を警戒するも、襲い掛かって来る気配はない。何か妙だ。いつでも抜刀可能な態勢を維持しつつ、殺気の正体を探る。すると、濁りの塊が目の前に連なる岩陰から発せられているのを読み取ったあたしは、そのまま岩陰まで走り込んで—————
「ぎゃあああ!!」
目の前に広がる光景に、不覚にも悲鳴を上げてしまった。そこには、禍々しい 殺気を放ちながら下半身を露出している変質者がいたのであった。
変質者は、あたしの師匠の生まれである『シャンタ国』に伝わる、菅笠と呼ばれる風変わりな帽子をかぶり、上半身には薄い黒の外套を纏っていた。
「ほう。これはまた可愛らしい小娘だ」
「なっ、なっ…!?何で下半身丸出しなんだぁー!?」
急いで顔を背けるも間に合わず、見たくないものを見てしまった。その所為か、凄く顔が熱くなる。けれど、そんなあたしとは反対に、変質者の男は振り返ってあたしを見るなり口元を弓なりに曲げた。
「何でとはまたおかしなことを。用を足す際には必要な行為だ」
「言い訳はいいから、早く穿け!つか湖汚すな!」
「名残惜しくはないのか?」
「んな下品な趣味はなーい!!もーそっち見れないじゃんか!察してよ!!」
「そうか…」
変質者の男は至極残念そうに、これまた『シャンタ国』に伝わる袴と呼ばれるズボンを穿き、改めてあたしに身体を向け直す。ああ、ようやくまともに話が出来る。ほっと一息ついて、あたしも視線を戻す。
「さて。一体何用かな?」
「変態さんがずーっと出してる殺気が気になってね。それにその恰好…シャンタ国の人?」
「これは驚いた。恐れをなして逃げるどころか、問い詰めて来る者がいるとは」
「こう見えても腕に自信があるからね」
「どうやらそのようだ。はは、中々どうして面白い小娘よ」
変質者の男は笑いながら軽く菅笠の位置を変えている間も、その殺気を抑えやしない。どうにも嫌な感じだ。
「で、教えてくれるの?」
「小娘の勇気に応えよう。私は鬼血衆が1人、孤月」
「鬼血衆?」
孤月と名乗った男から、聞きなれない単語が飛び出す。
「世に鬼を呼び戻すことを目的とした団体よ。尤も、団体とは言ってもそれほどの人数ではないが」
「鬼…?うーん、魔獣とは違うの?」
「違う。鬼は知性と力があり、己より優れた者に対して絶対服従」
「ふーん。その鬼ってのは、どうやったらこの世に戻って来るの?」
孤月はぴたりと動きを止め、沈黙を貫いた。どうやら、そこまで答える気はないらしい。
「んじゃあ仮に戻って来たとして、孤月のおっちゃはどうするの?」
「…鬼の力をもって、世を動かす」
あたしは身体の思うがままに、孤月へと刃を振り下ろす。しかし、この不意打ちは命中せず、孤月の手にしていた二対の短刀によって阻まれた。既にあたしの思考を読んでいたようだ。
「へえ。ただの変質者と思ってたけど、やるじゃん。どうしておっちゃが殺気を放ち続けていたのか、合点がいったよ。その考えは、子供の時に卒業しておかなきゃね!!」
「大人だからこそ、心惹かれるのだ。小娘も好いておろう?正義の味方が」
「リノだ!リノ・レインバー!!」
お互いの刃が競り合い、キリキリと甲高い音で鳴く。孤月の獲物は『小太刀』と呼ばれる、あたしの刀と同系列の武器。刀身が短く小回りが利く為、比較的扱いやすい刀だと師匠から聞いたことがある。
右、左、右、左と、両手に持った小太刀を休みなく振り続け、あたしに反撃の余裕を与えない。ここまで果敢に攻め立ててくる相手は初めてで、捌くのに中々苦労させられる。
「リノ、鬼血衆に刃を向けるのか?」
「ざっ…けんなぁー!!」
だけど、何度も同じ攻撃をされれば、対処法は思いつく。あたしは、次の一太刀が来る前に気合いの咆哮と共に大きく前進して、孤月が放つ二対の小太刀を刀で弾き飛ばした。
「ぬっ…やる!」
「まだまだ!」
よろめいた孤月の足を鞘で狙うフリをして跳躍し、背後に回り込む。着地と同時に刃を薙ぎ、二対の小太刀を防御に使わせる。その隙に、本命である鞘を孤月のおでこに突き当てた。
「ぐぬっ…!」
軽く吹き飛び、孤月の身体は岩に衝突した。多少は痛いだろうけど、骨が折れるまではいかないだろう。勝負あり。あたしが鞘に刃を納めると、孤月は不思議そうな表情を見せた。
「何故だ、殺さないのか…?」
「悪いけど、それはあたしの趣味じゃない。それに、良く分かったでしょ?そういうこと考えてると、痛い目に遭うって」
「分からぬな。目的を達成する為には、多少の犠牲も止む無し」
「頭固いなぁー…。鬼血衆ってのは、みーんな頑固者ばっかりなの?」
「どうだろうな。ふふ…お前こそ相当な変わり者だぞ、リノ・レインバー」
「自覚あるから言わないでよ。まったく、困ったおっちゃだ」
どうしたものかとぼりぼり頭をかいていると、急に孤月の周辺が霞がかる。
「うん?霞…?」
「残念だったな。私の本体は既に離脱している。お前の眼力を以ってしても、見抜けなかったようだな」
孤月の身体は徐々に薄くなっていく。まさか入れ替わっていたなんて、気が付かなかった。
「まさか、魔法!?」
「そうだ。見るのは初めてか?これは幻惑。発動者以外に幻を見せる力がある」
「魔法って確か、本を手にしてないと発動出来ないんじゃ…」
「教科書に載っている事象が世の全てではない。勉強不足だな」
「エルみたいなこと言うなー!このっ!」
挑発されて、あたしは虚像を叩くもすり抜けてしまう。さっきまでは普通に当てられたのに、魔法って不思議だ。それにしても、いつ魔法書を手にしていたのだろうか。完全に見落としていたあたしのミスだ。今回は相手が一枚上手だった。
「リノ・レインバー、また会おう。…お前の一撃、気持ち良かったぞ」
「最後に一言多いわ、この変態がー!!」
気持ち悪いことを言い残して、孤月の幻は消え去った。鬼血衆、今後も関わる事になるかもしれない。記憶の片隅でいいから、覚えておこう。戦闘で服にふいた土を払って、あたしはエルのいる場所に帰った。