第54話(逃亡、そして)
空に浮かぶ島は、崩壊の危機を迎えていた。
レイを失ったと思い込んで気が動転していたハルカは、誰に向けて放ったのかがわからない火の塊を爆発させる。ハルカ自身をも巻き込んだのかと思えたそれは、凄まじいエネルギー波で薄暗かった部屋を隅から隅まで明るく照らし……部屋という箱を破壊した。
勇気もセナも、最初の爆風で投げ飛ばされる。幸い、爆発の中心から離されて距離を置いたおかげで、直接火のエネルギーを浴びる事も食らう事もなく。壁に打ちつけられそうになったものの、勇気もセナも咄嗟の機転をきかせてそれぞれに身を護るための風のバリヤーを張った。
幸が幸を呼んだ。飛ばされ、護られ。重いダメージは2人にはほとんどない。
部屋は壁が崩れ、無残だった。ガラガラと……激しい音を立てている。パラパラと……細かい砂は、軽い音で転がっていく。
砂とホコリや瓦礫の山で惨状が外へと明るみになった。2人の上を、赤く薄く染まった空が覆っていた。
ゴゴ、と地鳴りが唸り響く音が断続的で、止まない。
落ち着ける場所を失いつつある2人は、何とか立ち上がって意識を保とうとしている。
「セ、セナ……」
「地面に手をついてろ……しっかりするんだ。そのうちにアジャラとパパラが」
風も渦巻く中で、セナは勇気にそう言った。え、アジャラ達が? と首を傾げたくなる勇気だったが、ひとまず置いておき。身を護る事だけを考えていた。
どうなるの、と。
不安に襲われる。
やがて、遠くから。甲高く聞こえた『声』がした。
「ほうら! 追いかけてきたわ……! においを嗅ぎつけて! 勇気! あんたをよ! おいしそうな異世界の人間をねえ!」
それは、もう一人の『勇気』の声。耳と胸を劈かれる勇気。聞こえるたびに、目頭が熱くなり恥ずかしさで隠れたくなっていく。
あれが私。私の分身。私が最初に抱いた本性……誰にも見せられるものではないと。
勇気は両手で顔を覆いながら、指と指の隙間からセナを見る。セナは落ち着き、声のする方へ目を細めていた。途端にまた一度引っ込みかけた恥ずかしさがおかえりと戻ってきて胸を締めつける。
悪循環だと自分を嘲うしかなかった。
その『勇気』が言った通りになる。
島全体が、弾かれたようにドシン、ドシンと攻撃を受けてか直下型の地震へと変わった。
「きゃあ!」
勇気の悲鳴。ガラガラと、不安定に積まれていた瓦礫のまた崩れていく音と。一緒になって騒然となる。「奴が消えた!」
間にセナがそう叫んだ。奴とは、もう一人の勇気の事らしかった。
勇気は、居たと思われるもう一人の『勇気』を目視で確認しようとしたが、見つからない。空や地面を捜しても見つからなかった。セナの言葉通り何処かへと行ってしまったのか。しかし勇気達には考えている余裕はあまりない。度重なる衝撃に耐えていた。
「ちくしょお……!」
セナは、歩み出す。
「?」
勇気のそばへとやって来ていた。「ちょっと貸してくれ」
勇気のそばに落とされて転がっていた“光頭刃”を拾い上げた。
剣を片手に、足を地面の震動にとられながらも、セナが向かった先とは。
天神の元。
クリスタルに閉じ込められたままの。
やがて辿り着く事ができたセナは、剣を振り下ろす。
クリスタルを砕くために。
ガシャン!
思惑通りに、クリスタルは砕け散った。
そして中からは。「天神……」
天神。
砕かれたクリスタルの檻から、支えを失ったように体を倒してきた。セナはすかさず受けとめる。
「アジャラとパパラが、この島を操縦しに向かったはずだ……あいつらは助けた。もうあんたも呪縛から解かれたんだぜ……目を覚ましてくれ」
勇気には聞こえていない小さな擦れた声で、セナは天神を抱きとめ支えながら耳元で言った。安心しろと……目を閉じたままの天神に向かって囁きかけた。
反応はない。
その時、セナや勇気達の頭上を、サッと大きな影が横切っていった。
「勇気ーーー!」
「今、そっちに行くからな!」
元気な声が、幾つか聞こえてきていた。それは、頼もしい仲間達の声。
「ピイィーーー!」
口笛のような高い鳴き声が響く。空竜。スカイラールだった。
勇気達の頭上を旋回して飛んでいる。迎えに来たと声を上げて。
「皆あー!」
勇気は足がフラフラとなりながらも立ち上がり、大きく手を振り回して空の中を舞うスカイラールを目で追っていった。
スカイラールの背中は満員となった。
引き上げられた勇気、セナと抱えられた天神を始め、仲間達。マフィア、カイト、ヒナタ、蛍と紫、ゲインと。それから――倒れていた所を発見され回収された……ハルカ。
天神もハルカも、眠りについていた。
勇気達と合流した瞬間には、安堵と喜びで顔をしわくちゃにして代わりばんこに肩を叩き声をかけ合い、涙し抱き合いながら騒いでいたが。先に横になって寝ていたハルカに勇気が気がつくと、次第に無言になって皆で並ぶ2人を囲み、様子を窺ってみているようになった。
見守っていると、セナがボソッと話を切り出すに至る。
「勇気の所に駆けつける前、アジャラとパパラが捕まっていた部屋に出くわしたんだ。偶然に」
カイトが張り上げた声を出してセナの横顔を見た。「奴らが!?」
仰天したカイトは、セナが頷くと額にかかっていた髪をかき上げて冷静さを取り戻しにため息をつく。
セナは視線を天神に落としながら、説明していった。
「だから助けた……訳がわからなくなりそうだったけど。こうは考えられないか。俺達の前に現れていたアジャラとパパラは、分身か、または……操られていたんだと。捕まっていたのがその証拠……つまり彼女らは……俺らの味方だ」
鎖に繋がれていたアジャラ達を見てセナは瞬時に悟ったのだ。裏で何者かが自分達を誘導している。その何者かは、アジャラ達を捕らえた……敵は天神か、あるいは。
天神の近くに居る者。
セナは焦ったのだ。勇気の身が危ないと。何故なら……。
天神の神子は。
「俺は、アジャラとパパラを助けた。目を覚ましてくれて、話を急ぎながらだったけど聞いた……思った通り、彼女らは俺らの味方だったぜ。どうやら完全に今までずっと操られていたみたいだったな。俺達の事なんて初対面みたいで何も知らなかった……笑うぜ」
勇気はそんな、と小さく落胆していた。かつて自分の世界へと帰っていった時に世話になり、再会した時には完璧に信じきってしまっていた事を激しく悔やむ。どうして少しでも疑わなかったのかと、口唇をかみ締めて自分を責めた。
「それで、2人はどうしたの? 何処に行ったの?」
ヒナタにセナが答えた。「島の何処かに操縦部分があるらしい。そこへ行った」
「操縦?」
「ああ。神殿の……何処かだろうと思う。崩れちまって半壊してるけど。地下かもしれないし、もう任せてるよ。ああ、ほら」
と、セナが周囲を見渡すと。ちょうど、地震の地響きとは違う質の揺れで島自体が動いたようだった。穏やかに揺れながら、雲や鳥が後退している。そう……海面から浮かんでいた島は、自身が動き始め……船が水の中を漕ぐように空中を飛び一方向へと進み出していったのだ。勇気達を乗せたスカイラールは後を追っていく。
「せ、青龍じゃない!? あれ……」
突然に慌てた声を出したのは蛍だった。後退していく景色を指さして皆に教えている。指された方角を一斉に注目してみると、確かに青い蛇状のものが空中を波のようにくねり、泳いでいた。
遠ざかり、見えにくくなっていく。
「追いついてきたのか……」
「さっきからの大きな地震って、あいつが島に体当たりしていたんだわ」
と、カイトや蛍が目を細めながら息を呑む。
「あ……!」
勇気はギョッとした。漏らした声をしまったとばかりに手で塞ぐ。
「どうした?」
「う、ううん。何でもない」
セナが聞いても、勇気は言う事ができなかった。勇気は見てしまったのだ。
青龍のたてがみに隠れ、『自分』が居たのを……
もう一人の『勇気』。勇気には有難い事か、誰もその事には気がついてはいない。
もしや青龍を手なずけた……?
勇気はその考えに行き当たり、冷たい汗をかく。それを悟られないようにと黙っていたのだった。
「追いかけては来ないようね……何でかしら……気味の悪い」
マフィアの言葉を勇気は聞かなかった事にした。勇気にのしかかる暗い感情は、消える気配は無論なく。むしろ気遣っていないと爆発を起こしてしまいかねない……勇気は突っ立ったまま、耐え忍んでいた。
やがて青龍が彼方に、ほぼ見えない距離になった時に。スカイラールは震動が止み、大人しくなった島の地へと降り立ち勇気達皆を自分の背から降ろした。安定した地面を懐かしく思いながらも、皆はやっと落ち着けたと軽く笑いながら口々に言い合っていた。
天神、ハルカも地面の上へ。少し雑草が生え散らばった上へと寝かせて様子を見ていた。
先に起きたのは天神だった。
そっとまぶたを開け、何かを考えているのか、すぐには何のアクションも起こさなかった。
少し虚ろではあったが、正気はある。上半身を起こして、正面の方向に居たセナやカイトに気がつき真っ直ぐに見ていた。
「私を解放してくれたのは風神……あなたですね。感謝します……ありがとう。本当にありがとう……」
線の細そうな声質と、繊細さを表したような微笑みで。セナとカイトは『これが天神?』と顔を見合わせていたが、気を取り直して聞いてみた。
「俺が風神だという事はもう知っておいでですか。カイトも、……救世主も」
と、思いつくままに言ってみていた。セナに限らず、こうして天神と対面するのが皆は初めてとなる。緊張と、質問攻めにしたい気持ちと不満だらけをさらしたい欲求があるものの、なかなかどれも言い切り出せず尻込みしている一同だった。セナが代表するように一歩前へ出て、天神の背丈に合わせて屈み込み話し出した。
それは、また一つの核心をつく答えとなる。
「……あんたは、チリンか?」
場の皆は全員、ハッとする。天神への集中や関心が最高潮に高まった瞬間でもあった。
セナの鋭い指摘はもうひと押しを見せた。
「わかったんだ……あの子供が。何もかもを見透かした感じが……あんたしか考えられない。俺らに無条件で手を貸してくれる奴なんてさ……違うか……?」
自信はないように思われたが。
沈黙を破り、重そうなまぶたの下の瞳の先は下に落として、細い声の音は塊のように吐き出した。「そうだ……」
天神は語る。これまでの事を。
すでに陽は落ち、これから夕闇の果てへとなりずる時。島は一方へと突き進み、発生している風だけは肌に感じていた。森や木々も静かに高くから見下ろして。天神は……語る。
「私はあの女に閉じ込められ、何日もかけて、かろうじてやっと搾り出せた考や力を使い……チリンという、子供を生み出しました。分身と言った方が理解しやすいかもしれません。そうして救世主や七神。あなた達を回りくどくも、助太刀致しておりました」
「やっぱり……か」
セナの落ち着きとは反対に、カイトが言い放った。
「どうしてチリンにクリスタルを破壊させなかったんだ? 俺達に素性を明かしたっていい。真実を隠して。おかげで、俺達はとんだ回り道を……!」
天神の口はキッ、と固く横一線に結ばれた。「恐ろしい」目に小さな信念を浮かばせて。「あの女は」――カイトを見上げた。「あの女は恐ろしく頭がよいのだ」神経を走らせる。
――あの『 女 』?
天神の口から時折飛び出る『女』という言葉に、皆には話が見えにくかった。それもそうだった。『女』を見て知っているのは勇気と、セナだけだったからである。だがセナはまだ正体については疑問符が残っている。
セナはコッソリと勇気を盗み見ていた。勇気が先ほどから黙っているままなのにも不審感を抱いていた。
「あの女は私の及ばない支配力を持っている……何だってできるのか。底知れない力。広範囲に至る視野。空間など簡単に捻じ曲げる。何処からでもやって来る。下手にこちらが動けばすぐに見つかる、私はいつでも殺される……息をもつけぬほどの恐怖だ。私の死は、この世界の滅び……私は死ぬ事など、許されていないというのに」
途端に、ぜーぜーと呼吸が乱れた。天神の背中をセナがさすりに入る。苦しげな天神の息は絶え絶えで、目はひんむきそうなほど開いていった。
「あの女が……襲うのだ。この私を……」
何度でも恐怖は繰り返された。
「魔性か……あの女……闇神も毒され続け……狂う」
カクカクと下アゴが動いている。
「その『女』っていうのは、誰の事なんだ」
じらされて我慢できず、カイトが苛立ちながら天神に詰め寄った。
「それは――」
次の言葉が出かかった時だった。
「――もおッ、や め てえええッッ!」
声を荒げたのは――。
「勇気……」
盛り上げた両肩をブルブルと震わせて全力で制する勇気の、小さな体が立つ。決死に見えた表情は、赤かった。何をそんなにと、一同は思う――だが。
セナだけは、違っていた。
「どうした……」
勇気の名を呼び、状態を確かめようとした。
寸歩、近づいて。「来ないでえッ……!」
涙混じりの声は、悲愴さをいっそう際立たせていた。「何……」
やがて勇気は耐え切れなく、走り逃げ出した。
「勇気!」
「勇気いい!」
マフィア、カイト達も同時に叫ぶが、勇気は森の中へと駆けて行ってしまった。
誰も追いかけず、ただ茫然として森の中闇を見つめていた。「おい――」
セナが、天神の何と胸ぐらを掴む。
「一体どういう事なんだ。説明しろよ!」
慌てたマフィアがセナを押さえにいった。「待って! ……どういう事なんですか」
天神は震えている。苦しまぎれな声色は、こう言った。
「あの『女』とは……救世主なのだ」
もうみんなバレた。私がいつか抱いた醜い心。世界なんて滅べばいい。滅茶苦茶になったっていい。私は知るもんか。私を苛めた奴らも、私を追い出そうとする人も――皆みんな、消えちゃえばいいんだ。そうだ――消えちゃええ!
……
あの時の勇気。腹痛を訴えるほど神経をすり減らしていた毎日。日常。勇気には、一人で打破する事ができなかった。親は居ない。兄に迷惑をかけたくない。相談する友達も味方も居ない。誰も何もしてくれない。
絶望。いい考えが浮かばない。明日は終わりとさえ思う。思い込んでしまう。眠れない。
誰か、助けて欲しい。見つけて欲しい。勇気は走る。雨の中を遺跡へ向かって。
鏡と出会う。
価値のありそうな鏡。
手に持てる方は割ってしまい、部屋になって張られていた方はくぐり抜けて。
勇気は―― 一つの『世界』を手に入れた。
自分の思い通りにできる世界。素晴らしい世界。
勇気は気がつかなかった。そんな、夢のような世界に来たなどと。
気がつかなかった勇気は旅に出た。それは、とても重く切なく、純粋な旅――。
途中に苦しくとも、励まされ、助けられ、護られて。
ココまで来た。
勇気は見つけていく。
自分というものを。
そして今まさに審判は下されようと潜み近づく。
勇気は、崖っぷちに立たされる――
「私が……」
涙は止まらなかった。勇気は陽が沈んでしまっている水平線の向こう側を睨んでいた。見える訳のない向こう側を。まるで、自分の未来のように。
黒い景色だった。崖の足場は、いつ崩れてもおかしくはない。崖の先端に立ち、吹く風は非常に冷たく、勇気の心臓を凍らせてしまいそうに荒ぶ。
月は見当たらない。だから黒い空。星もない。雲に隠れてしまっているのか。だから暗い空。
森は眠る。見渡す限りは木の先端の集まった濃緑ばかり。勇気が見下ろす下には、魔物も眠っているか、獲物を探してさ迷っているのだろう。ウオオーン、と。狼に似た咆哮が聞こえる事がある。
少しずつ安心してきた勇気。誰も追いかけては来ない。今はたった一人。一人であるから……気が楽になれる。
「う……」
しかしそれも束の間の事。
勇気を過去と想像が襲うのだった。「うう……!」
対面したもう一人の『私』の残像。そして今頃はきっと、天神によって何もかもが暴露されているという事と。「う、ううう……!」
せっかく乾いた涙の跡の上から、新たな涙が生産されていく。嗚咽にも支配され、頭の中はガンガンと打ち響き、気分は優れず、最悪なままで時間は冷ややかに過ぎていく。
私が殺した。
私が皆を巻き込んだ。
一人で芝居をしていたみたいで恥ずかしい。
勇気の狭くなった頭の中は、その様々な感情がいっぱいだった。
崖の上から、下界の森を見下ろした……。
(何処行くの……?)
心で話しかけた。
(ねえ、何処行くの……?)
誰も居ない相手に。
(ねえ……)
風が当たる。
厳しいとも思わない風が。
勇気の体が揺れた。
前方へ――そこは底闇。
ふ、と。
意識も真っ逆さまへ落ちようとした。しかし。
「バカ野郎!」
勇気の腕は引っ張られた。かなりの強さだった。
勢い余って転がる勇気に……罵声が飛ぶ。「何考えてんだ! 飛び降りて、死ぬ気かバカ野郎がッ!」
憎しみすらこもった激しい怒りで。
追いかけてきたセナ。が、転がる勇気の腕を乱暴に掴み上げ、引っ張り起こしていた。「痛い!」
そして、「放して!」と。
腕を引きちぎっても構わないくらいに抵抗したが、セナの力の方が上だった。手は絶対に離される事はなく。「落ち着け!」セナは勇気を睨み威圧する。
普段なら、恐れおののくだろう。ひるむだろう。たじろいで、大人しくなってしまうのに違いない。だが、今の勇気に怖いものはないように感じられた。セナの怒りさえ、軽く見えるほどに。
気が動転してしまっている。
それはセナの目から見ても明らかで、どうしようもなかった。
セナは天神から全てを聞いてきた。
勇気が始め、2人に分かれた事を。
世界を破壊しようと企み動かしていた真の支配者は、救世主、勇気の……『心』だった事を――。
セナは初めて勇気の片割れを目撃してからは、薄々と感じていたのかもしれない。だが、まさかと。自分もまた、疑いを晴らそうとはしなかった。しようと思わなかった。
そんな少しだけの罪悪感がセナにあった。もっと早くに聞いてやればと後悔して。
それは、今の勇気を、見れば見るほど大きく膨らんで――。
「落ち着け……」
セナは勇気を抱き締めてあげた。何処までも暴れ狂おうとしていた勇気だったが、次第にそれは小さくなり無抵抗になっていった。最後は諦め、はあと、セナの胸内で息を吐く。「落ち着いて……」
2つの腕は勇気の背中にしっかりと回し、ベルトを締めるようにギュウと渾身の力を込めた。それが精一杯にできる事だとセナは思った。と同時に、この手の中の少女は何と小さな事かと思い知る事にもなる。
これまで、同じように勇気はたかだか小さな存在にしかすぎないと何度でも思ってきた。まだ13歳でもある……セナは昔、監獄で育った。今にして思えば、幸運だったと思う事もできる。親に見捨てられた子供など数えきれないぐらい居る。生き延びられなかった子供も多く居る事だろう。たった一切れのパンに出会う事さえ困難な状況の中で、セナは監獄という名で『保護』されていた。まさに幸運。おかげで死なずにすんでいる。健康で、真っ当な精神で自分の足で歩く事ができる……出所したての頃は、目的もなくブラブラと道を探して迷子になっていた。目的を探す事が目的なんだと時々に笑いながら。
皆が迷う。道がないからだ。
道は自分で作らなければならない。それを、現実は教えてくれる。
厳しさと、騙さない誇りを持って。現実は……嘘をつかない。
「よく頑張ったよな……お前。凄いよ……」
心の底からセナは、勇気という壊れやすい人間を大事に思った。壊れやすいと言ったが、壊れないし屈しない。いつでも真っ直ぐだったと過去を振り返る。
時々は、壊れかける。逃げようとする。足掻く。苦しむ。わがままを言う。そんなものは当たり前の事だ。何故なら人間、人間、なのだから。
でもちゃんと真っ直ぐ、真実まで辿り着いたではないか。
セナは褒め称える……少し身を離し勇気の顔を見るようにした。
勇気は酷い顔をしている。絶望にこっ酷く打ちひしがれた可哀想な顔を。セナはわかっている。いつかも言った……『本音』をさらす事が、いかに大変なのかを。
セナは思うままに身を任せる事にした。
口唇に触れる。
覆っていた雲は、薄くなり途切れて。
大きな月は朧げではなく隙間から顔を覗かせている。2人の重なった影は伸びて。時は、瞬く間に過ぎていった。
軽いキス。しかし長い。
月は光で2人に祝福を照らしている……
……
勇気の中で何かが溶け出していっていた。
だから涙が出るのかなと……勇気はそんな事を思う。
セナが作り出した空間は、温かだった。抱き締めてくれて、諭してくれる。落ち着けと……勇気にも理解できるように、足りない言葉の代わりにキスを贈る。勇気には、充分に理解できた事だった。初めて自分を労わる言葉を見つけ出す。
御苦労さま――
自分の中にいつまでも滞在していたしこりは、溶け出してなくなっていった……。
時は経過する。崖の上の2人は、互いを見守っていた。
「未来に絶望してるなら、一つ未来をやろう」
セナが後で思いつきを口に出す。
「え? 何? 未来?」
勇気は顔を上げて、目をパチクリさせた。セナはクスクスとおかしそうに笑ってはいたが、目つきは真剣に満を持して言う。
「青龍の事が片付いたら……こっちで一緒に暮らそうか。勇気」
《第55話へ続く》
【あとがき】
色々と忘れそうになる(泣)。
※ブログ第54話(挿絵入り)
http://ayumanjyuu.blog116.fc2.com/blog-entry-126.html
ありがとうございました。