なまえ
野牧さんに教科書を見せたあの日から私は野牧さんにすっかり自分のペースを乱されていた。
本を開いて読もうとすれば、
「その本、どんな話?」
と横から覗き込んでくる。
移動教室のとき一人で行こうとすると、
「私も行く!」
と言ってついてきた。それどころか最近では、
「ほら、行くよ!」
になってきた。
避けるまもなく連れていかれてしまう。
逃げようとしたこともあったけれどいつの間にか先回りされて捕まえられてしまうのだ。
初めこそ関わった後が怖くて逃げていたけれど、あまりにも追いかけて来るからもう呆れてしまって逃げるのも疲れて、逃げている自分が阿呆らしく思えてきてしまった。
やっぱり恐怖は有るけれど誰かが私に関わろうとしてくれることがただただ嬉しくて。
逃げる事でさえも楽しくなっていた。
野牧さんがひたすら話しているのを聞くだけでも楽しくて、私は小さく相づちを打ったり一言返したりするようになった。
そして流されるようにして関わるようになって、野牧さんは私の体調の変化に敏感になっていた。
前の日の夜にあれ(・・)が起こって、でも朝にはもう大丈夫だと思って学校に行くと野牧さんは私を見た途端慌てて私の額に手を触れた。
「泪っ!?大丈夫?どこか辛くない?朝熱とかなかった?」
「えっ」
私はびっくりした。
少し体調が悪いくらいでは鏡で見ても自分ですら違いが分からない。
それなのに彼女は私を見た瞬間に気がついたのだ。
「ほら、教科書とか出したらランドセル置いてきてあげるから。無理しないで座ってて」
そう言いながら私を座らせると本当にランドセルを片付けて来てくれた。
急いで戻ってきた後も私の手を取りながら、大丈夫?と声をかけてくる。
「泪、本当に大丈夫?」
「う、うん。……そんなに具合悪そう?」
……一体全体私はどんな顔をしているんだろう?
まるで重病人になったような気がするのほど野牧さんは慌てている。
確かに体調が悪くて怠いけど、本当に酷いときとかあれ(・・)が起こったばかりのときよりはずっとましだと思う。
「泪が今嘘ついてるって分かるぐらい悪そう」
「え?」
私は本気で耳を疑った。
今なんて言った?
嘘ついてるって言った?
「ほんとは少しでも怠いんでしょ」
何で
何で分かるの!?
「これだけ毎日見てれば分かるよ」
「ま、毎日って…まだ初めて話してから二ヶ月位しか……」
「十分だよ!」
野牧さんが一際強く言った。
私はつい肩を揺らして、最近少し上がってきていた顔を俯かせてしまう。
「あ、ごめん。びっくりさせて…こういうのも苦手だもんね、泪」
「なんで」
「これも近くにいたら分かるよ。急に大きい音とか声聞いたとき、泪ってば小さくなるもん。身体を縮めて我慢してる。すごく辛そう。『やめて!』って聞こえてきそうだったよ。だから苦手なんだなって分かった」
もう驚くことばかり。
私でさえ知らない私のことを見つけてしまう気がする。
こんなに見ていてくれてるなんて、知らなかった
「わ、わゎっ!どうしたの!?やっぱり具合悪いの、泣くほど!?」
気づかないうちに涙が溢れていた。
「ううん、ぐすっ…だいじょうぶ、だよ…ひくっ…」
うん
大丈夫
これはすこしも苦しくない
嬉しい涙だ
はっきり分かる
野牧さんが私を見てくれてる
それがこの上なく嬉しくて
「心配してくれてありがとう、野牧さん」
「っ!うん!…ぁ、でもダメ」
「ぅえ!?」
違う意味で涙が出そうになった。
そんな私を見て野牧さんは嬉しそうに笑う。
「あははっ、あのね、初めて名前呼んでくれてすごく嬉しいんだけど、苗字だったから。ねぇ、泪もさ私のこと名前で呼んでよ」
「なっ、……なまえ………」
私は視線をキョロキョロさせた。
………………
たいへんだ!
なまえ、しらない!
苗字知ってたのは先生がそう呼んだからだし…
ど、とうしよ
「泪、私の名前覚えてないの!?」
嗚呼!!
「ご、ごめんなさい」
苗字のことは黙っておこう
喋ったらどうなることか!
「はぁ…。まぁ泪らしいから許してあげる。私は野牧 柚。“ゆず”の漢字はそのまんま、果物の柚だよ。一字で書く方ね」
「えーっと、ゆ、ゆ、木偏?うぅ、漢字、わかんない」
家にある調味料で見たことがあるけれど漢字が思い出せない。
「あはは、まだ習ってなかったっけ。こうやって書くの。ほら」
そう言って一時間目に使う国語のノートに書いて見せてくれた。
ゆず
柚
「すごくいい名前……」
「えっ、ぁありがとっ!?」
私の呟きが聞こえていたようで、柚はすごく恥ずかしそうに笑った。
「あのね、私…名前呼びとか長いことしてなくて、す、すごく恥ずかしいの…。だから、上手く呼べないかも……」
折角呼んでと言ってもらえたのに上手く言えなくて不快に思わせたくない。
「いいよ、呼んでくれたら嬉しいっていうだけだし。ゆっくりでいいから」
柚はそう言って笑いかけてくれた。
私が思い悩んでしまわないようにとそうしてくれているのが分かった。
「う、ん。ありがとう……ゆ、ゅ…」
あぁもう!
言いたいのに
柚には言いたいのに
「っ、ゅ、……ゆず!」
恥ずかしくて、恥ずかしくて、きゅっと目を閉じて俯いてなんとか声に出した。
「ふふっ、そうだね~、これはこれでいいんじゃない?80点はあげてもいいかも」
「なにそれ?」
「ううん、気にしないで。こっちの話」
柚はすっかりご機嫌なようだ。
まぁいいか、と思うことにした。