泣き虫の羽化
リハビリから戻ってきた私がベッドで横になっていると扉が開く音がした。
私が眠っていると思ったのか、そろっと音をたてないように忍び足で入ってきた柚と目があった。
「あ、泪、起きてたのね。今日も来たよ~」
目があった途端顔を綻ばせて駆け寄ってきて、私の体の位置を確かめながらベッドに腰掛けた。
「また課題増えたわよ~、ほらこれっ!」
手提げから何枚かのプリントを取り出してヒラヒラさせる。
「うわぁ……あ、ありがとう。あぁ、前のぶん終わったよ。ええとね、……ん、っよいしょっ、…、」
私は母に頼んでベッドの横の引き出しに入れてもらったプリントを取り出そうと体を起こそうとした。
けれどリハビリが終わって気が抜けていた私はなかなか起き上がることができない。
「あっ、無理しないで!私が取るから。そこの引き出しでしょう?」
「う、うん。ごめん、ありがと」
「ごめんは余計!」
慌てて私を支えた柚はそのまま私を寝かして引き出しにプリントを取りに向かう。
「ん?もうこんなにやったの?泪、無理してない?大丈夫?」
柚の言葉に曖昧に頷く。
「大丈夫だよ。寝てばっかりで時間はたっぷりあるから」
授業に出られないぶん課題をこなさないとどんどん置いていかれてしまう。
だから多少無理をしても、それもリハビリの一つだと考えて取り組んでいる。
それに骨にヒビが入ったのはなぜか支えるときに使った左腕だったので利き手で文字を書くことができている。
まだ自分の力だけで長時間座り続けることはできなくてもベッドを起こせばベッドに設置されているテーブルに向かうこともできる。
「そう?無理しないでね?もう十二分に無理したんだから。きちんと体休めるのよ」
表情を歪めて申し訳なさそうに悲しそうに柚が言う。
「たくさん聞いたよ、それ。大丈夫だってば。それにあんまり怠けすぎたらちゃんと動けるようになるのに沢山時間が掛かっちゃうよ」
そう言ってしょんぼりする柚の頭を腕を伸ばしてぽんぽんと撫でると柚はもっとしょんぼりしてしまった。
「今は怠けすぎていいのよ……。無理しすぎて、こ、今度こそ…ぅ、動けなく、なっちゃったりしたら、どうするのよっ……ひくっ、もう、泪のばか。もっと自分の体大事にしなさいよぅっ!ぐすっ、な、泣き虫うつっちゃったじゃないのっ…もうっ」
ぐすぐすと鼻をすする柚がなんだかいつもより子供っぽく見える。
「うつってなんかないよ。柚が今まで泣かなさすぎたんだよ。私が泣いてばかりだから我慢しちゃってたんだ」
ぽんぽんと、撫で続けながら言う。
「ごめんね、ううん、ありがとう。だから今は泣いていいんだよ。うーん、ちょっと違うかな…。でもそれは、私のために泣いてくれてるんでしょ?」
柚の嗚咽が大きくなっていく。
「ふふ、私はしあわせ者だなぁ。我慢してくれててありがとう。泣いてくれてありがとう。いつもありがとう。助けてくれて、一緒にいてくれて、支えてくれて、いっぱいいっぱいありがとう」
「っ…ひっく、ひぐっ、えぐっ」
ぽん、ぽん、ぽん、
「私、ちゃんと仲直りしたい。柚、私と仲直りの握手、してくれる?」
「ううっ、ずずっ、ぐすっ」
とめどなく溢れてくる涙を何度も何度も拭いながら肩を震わせる柚は私が初めて目で見た子供らしい柚だということに気づいた。
「仲直りしたらね、もっといっぱい話しよう?柚のこともっと知りたい。柚がどう思っているのか全部知りたい。私のこともたくさん聞いてほしい。………だめかな?……」
一度柚の頭を撫でる手を止めて、心を込めて言った。
修学旅行前からずっと思っていたことも
うやむやになっていたことも
全部はっきりさせて伝えたい
今度こそ伝えたい
「だ、だだだっ、だめなわけないじゃないっ!!!!っ…ぅ、うわぁぁぁぁぁぁぁぁんっ!!!!」
「わあっ!?ちょ、ゆ、柚!?っ、」
どさっ、と音をたてて柚が私に飛びついた。
驚いて急に腕を動かそうとして突っ張る。
「あぁっ!!ごめん、泪!!大丈夫っ!?い、いたい?いたかった!?だいじょうぶ!?」
私の本当に小さな悲鳴を拾った柚が青くなって叫ぶ。
そのままひっくり返りそうなぐらい青ざめるものだから私も慌てた。
「大丈夫だよ!びっくりしただけだから!落ち着いて、柚。ほら、ここ病院だよ!」
「あっ、ぐすっ、しまったっ!ごめん忘れてたわ。落ち着こう、落ち着こう……」
ふう、ふぅ…ひっく、…すぅーはぁー…ひくっ……
「ひくっ、げほげほっ」
今度は生理的な涙で瞳を潤わせる柚を見ているとなんだか笑えてきた。
またこんな風に笑える日がきたのだと思うと私まで目頭がジーンと傷んだ。
折角いつもと違う柚をみているんだから、今日は泣かない
しっかり可愛い柚も目に焼き付けておかなくちゃ
うれしくて、おかしくて、柚に聞かれないようにくつくつと喉の奥で笑った。
「と、取り乱してごめん…なんか恥ずかしいところ見せちゃった」
すっかり涙も気持ちも落ち着いた柚が顔を真っ赤にしてばつが悪そうに苦笑する。
そんな柚も可愛くて笑いそうになってしまう。
「いいよそんなの。寧ろよかった。柚の泣くところはじめてみれたもん。ふふふ」
すっごく可愛かったし!
私が堪えきれずに笑うと柚は可愛く口を尖らせた。
「な、なによもぅ。」
結局私があの後どうなったかと言うと、無理やり体を動かしたせいで体が限界を迎えてしまったらしく、丸二日眠ったままだった。
とはいっても今度は意識不明などではなく、ただ疲れて眠っていただけで、おやすみといった私は嘘をつかずに済んだのだ。
そして今回は柚がいる前で目が覚めて、
「おはよう、寝坊助め!」
って怒られて、
くたくたで動かせない体と左腕のギプスにびっくりして、二日後には輸液から病院食に変わって、母や柚に食べさせてもらって、少しずつリハビリをはじめて、取り敢えず鉛筆を握れるまでになって、ヒョロヒョロの文字を書けるようになって、それらしい文字を書けるようになって………
今に至る。
「泣き虫はサナギになって眠っていました。だからちょっと寝坊したのです」
私は目が覚めて直ぐに言われた事の返事をまだしていなかったことを思い出した。
「今はね、羽化しているところなんです。これから、まだしおしおな羽をひらいていくんです」
私の頭のなかで話が繋がっていても、柚は何も知らない。
いきなり話し始めた私に柚は目を真ん丸にして首をかしげた。
「私、変わりたい。これからも柚と一緒にいられるように変わりたいの。だから知りたい。私がしなくちゃいけないことは何なのかとか、変わるべきところは何処なのかとか。柚が私のことをどう思っているのか全部知りたい。わたし、頑張るよ。がんばるから、また、これからも、私と友達でいてくれる?…私に友達でいさせれくれる?私、柚と一緒にいたい。柚は特別なの」
突然始まった私の話は意味がわからないだろうに、柚は真剣に耳を傾けてくれる。
そして笑いかけてくれた。
「聞かなくても決まってるじゃない。私だって友達でいたいよ。仲直りしたいって言っていたばかりじゃないの。私も、私が泪のことをどう思っているのか伝えたい。本当のことを聞いてほしい!私だって泪と友達でいられるように変わりたい!」
今度は私を傷つけないようにそっと抱きしめてくれた。
あたたかい
「ごめんね、私が上手く出来ないばっかりに…」
柚の申し訳なさそうな声は、かなしい
「ううん、違うよ、私が…――むぐっ?」
私の言葉を遮るように手で口を塞がれた。
「それよ、泪が変わらなくちゃいけないのは」
それ?
それって、どれ?
口を塞がれたまま首をかしげると柚はやれやれ、と嬉しそうに言った。
「泪は謝らなくていいの。今回は私が悪いんだから。泪ったらひたすら私に謝ってばかりじゃない。……私にもちゃんと謝らせてよね」
言われて、ひとつ、わかった。
私は申し訳なくて、許してほしくて、見放さないでほしくてひたすら謝ってた
それはある意味自分の不安を柚にぶつけていただけで、本当に柚のことを信頼できていなくて、柚の気持ちに耳を塞いでいたんだ
聞かないことで逃げようとしてた
そのせいで柚は自分の気持ちを出せなかったんだ
「ご、ごめ………じゃなくて、ええと、えっと……」
何て言ったらいいんだろう
わたしは、謝ることしか知らない?
そのことが怖くて瞳が潤む。
そんな自分が嫌で、嫌いで、変わりたいのに!!
「ゆっくりでいいの」
柚の言葉がすとん、と胸に落ちた。
「ゆっくり?」
「そう、ゆっくりでいいのよ、変わるのは。すぐには変えられないところだってあるんだから。無理に変えなくていいこともあるんだから」
変えなくてもいいところ?
どういう意味だろうか
「さっき、泪がサナギとか羽化とか言っていたでしょう?それと一緒よ」
「へ?」
まさか自分の言葉が出てくるなんて思ってもみなかった私は余計に悩んでしまう。
「泪はきっと、羽化して新しい自分に変わりたいんだっていう意味で言ったんだと思う。泣き虫だって羽化するはずだって。あってる?」
あ、柚は分かっていたんだ
流さずに意味を考えてくれたんだ
「うん…」
「私はね、こういう考え方もできると思うの。そうね、例えば……」
言葉を切って視線を窓の外に向けた。
今日は晴天で蒼い空が広がっている。
違う考え方ってなんだろう?
早速柚の考え方を聞く機会ができて思わず身を乗り出しそうになった。
けれど結局ベッドに手をついてぐっと力を入れたところまでで勢いは体をおいていってしまい、起き上がることも出来なくて、そんな自分に小さく笑いながら柚の言葉を待った。
柚が窓の外から視線を戻した。
「例えば一匹の紋白蝶(モンシロチョウ
)の幼虫がいたとするわ」
柚は手で器の形を作って見せた。
私はそのなかに幼虫がいるのを想像する。
「その芋虫がサナギになって、やがて眠りから覚めて羽化する。じっと羽が開くのを待って、そして飛び立っていく……」
柚が手の上から目線をゆらゆらと上へ移していく。
それを追っていくとその先をひらひらと紋白蝶が飛んでいるのが見えた気がした。
「いま、一匹の紋白蝶の幼虫が羽化して一羽の紋白蝶の成虫になったけど、同じ紋白蝶だったでしょう?」
私は飛んでいった紋白蝶を思い浮かべてひとつ頷く。
「飛んでいったその先でも、その紋白蝶は他の紋白蝶になったりはしないでしょ?姿形は変わっても、根は変わらないのよ」
その言葉に私は曖昧に頷く。
「……泣き虫は羽化しても泣き虫だってこと?」
「そう、そういうことよ」
「なんか、納得いかないよ。私は変わりたいんだよ」
どんな考え方かと思えば、私は変われないと言われたのかと思って悲しくなる。
けれど柚はそんなこと少しも思っていなかった。
「ふふっ、泪、それは泪の大切な個性だと思うの。無理に、苦しんで変えなくていいのよ。そんな、泪が自分を隠すような変わりかたなんて、私は嬉しくないわ」
そう言って、笑いかけてくれた。
「他にも変えられるところがあるはずよ。さっきの事もそのひとつ。泪は泪。どんなに変わったって泪。だから泪らしい変わりかたでいいの。泪のペースでいいの。泪は泪でいてほしいって思うの。なんか難しいけどね」
泪は泪
私は私
その言葉はすとんと私の胸に落ちて、必死になって間違えてしまいそうだった私を止めてくれた。
「うん、うん。私は私、柚は柚。大事なこと。すごく大事なことだと思う。……ありがとう、教えてくれて」
うれしくて、うれしくて、私の胸は張り裂けそうな気さえした。
でもそれは苦しさから来るものではないことが、叫びたくなるほど嬉しかった。
「ありがとう。ありがとう、柚。やっぱり柚はすごいや。色んなことを教えてくれるし、気づかせてくれる。わたし、私とっても幸せ!あの日、柚と友達になりたいって思ってよかった。大切な友達に出会えてよかった!」
うれしくて、涙が溢れる。
だけと、今はちっとも苦しくない。
自分が病室のベッドの上にいることなんて忘れてしまうくらいに心が満たされていて、ついてきてくれない体に呆れてしまうほど。
そして柚は、いつも私をびっくりさせるのだ。
新しいことをたくさん教えてくれるのだ。
「何言ってるのよ、泪。私たちは親友でしょ!!友達なんて言って、“達”でくくらないでよ。ね、そうでしょ!!」
誇るように、拗ねるように言う柚。
そんな彼女が可笑しくて、可愛くて。
「うんっ!!」
私は心の底から笑顔になれた。
幼い私がこっそり夢見たように。




