伝えられない
手紙も書き終えてお風呂の準備も明日の着替えの準備も全て済ませてベッドに飛び込む。
まだ少し夕食まで時間があるので暫く部屋で待機しなくてはいけない。
ルームメートの小野さんは知らない間にいなくなった。
恐らく隣の部屋だろう、友達が隣にいると言っていた。
見つかって怒られたりしないといいのだけれど。
ちなみに私が使うことになったベッドは窓側。
高い窓で景色は眺め放題だ。
空がほんのり紅に染まり始めて、そこにうっすらと青や紫が混ざっているのがとても綺麗だ。
建物が立ち並んでいて地平線がなかなか見えなくてもこれはこれでいい景色だなと思う。
「おーい、そろそろいくよー」
窓に張り付いて外を見ていると扉が開かれて声が聞こえてきた。
「あ、はい!」
慌てて向かうと今日一緒に自由行動した絵里たちがいた。
「時間に気づかないだろうなーって思ってたんだよね。来て正解だった?」
「せ、正解です。ありがとう」
みんなが言う通り時間を確認するのをすっかり忘れていた。
「柚ちゃんたちはもういってるよ」
一人がぼそっと耳打ちしてくれた。
それに小さく頷き返して一緒に食事会場へと向かった。
食事会場となるホールに着いた。
中に入る前からざわざわと会話や笑い声が聞こえくる。
ホールに入るとひんやりとした冷気に包まれた。
それはいつもの寒気と似ているようで違って少し鳥肌がたつ。
「そんなに冷房つけなくてもいいのに…」
そんなことを呟きながら私は腕を擦りつつ指定されたテーブルに向かった。
テーブルにはフォークやスプーン、取り皿などがすでに並べられていた。
そして中央にはターンテーブルが置かれている………
「 っ!? 」
突然不安が膨れ上がる。
その不安はあれ(・・)が起こる前触れだということがすぐにわかった。
なんで、今になって……
けれどいつもと違う。
もうひとつ分かることがある。
これから起こることがぼんやりとだが分かってしまったのだ。
見たことがない、これから起こるだろう出来事に以前立ち会ったことがあるように思われるほどに。
ただの想像だと思おうとしてもどうしてか頭の中でこれから起こるのだと確信してしまっている。
「なんでっ…どういうこと?…」
兎に角私は耐えなければならない。
この確信がその手助けになればいい。
なってくれと願うことしかできない。
柚は今隣にいない。
少し離れたテーブルで楽しそうに話している。
柚に嫌な思いをさせてはいけない。
迷惑はかけられない。
「「「「 いただきます!! 」」」」
食事が始まり料理が運ばれてくる。
目の前に運ばれてくる小皿のおかずや個々で取って分けて食べる大皿のおかずの数々。
「うっ、」
その匂いを嗅いだだけで胸がつまる。
ドクドクと脈打つ心臓のおとを感じながら気をそらそうと料理を口に運ぶがすぐに喉を通らなくなった。
料理からはよく分からない強い匂いが周りに充満するほど香っているのに口に入れた途端に味が風味が消えてしまう。
もうずっと、周りの声は聞こえなくなっていた。
どんどん胸が苦しくなっていく。
だめ、我慢しなくちゃ
どっ、
とテーブル中の聞き取れない会話の音が大きくなって押し寄せた。
何かと思って必死に顔をあげると隣の誰かがターンテーブルに手を伸ばした。
「こっちの、とって―――」
勢いよくそれを回した。
「あっ、まっ…」
「ちょっと!」
「あぁっ!!」
ターンテーブルに乗っていた何かのグラスや食器が倒れるのがみえた。
ガシャンッ……
その音が強く頭に響く。
反響
嗚呼、やっぱりこうなった
分かっていたのに私はパニックに陥ってしまった。
頭の中が真っ白に、真っ黒に、ぐちゃぐちゃになっていく。
「…ぁ……」
くるしい、くるしい、胸がくるしい
いたい、いたいよ、体かいたい
だれか、どうしよう
柚、ゆず、こわいっ…たすけてっ!!……
すぐそばで息を呑む気配がした。
「えっ、泪ちゃんっごめん、もしかして制服汚れちゃった!?どうしよう、泣かないでっ」
隣の人がそう言った。
「ちが、うの…」
言いながら涙はとめどなくあふれ続ける。
テーブルメンバーが焦って私と汚れたテーブルを交互に見た。
「本当に、あの、びっくりして、それで」
くるしい、みないで
「あ、て、手洗ってくる。だいじょうぶ、だから」
俯いてふらふらと後ろに下がる。
そのままなるべく下を向いて逃げるようにホールを出た。
途中先生や他の生徒に見られている気がして余計に怖くなった。
トイレに駆け込んで顔を洗う。
何度流しても涙がとまらない。
「なんでっ…いや、だっ……あぁっ!」
声をあげて泣きそうになる。
胸の苦しさも体の痛みも酷くなるばかりで立っていられなくなる。
壁に凭れ掛かって、そのままずるずると座り込んでしまった。
「ぃゃ、だ、よぅっ…ぅぅ、…」
息が苦しくなって、呼吸の仕方を忘れていた。
必死に肩で息をする。
床を這うように移動し、水道でハンカチを濡らして目を覆った。
幸い人は来なかった。
この時は人が来たほうが良かったのかもしれないが、トイレの床が汚いことなど考える余裕すらなかった。
頭がズキズキと痛み視界はぐにゃりと歪む。
座っているのに体がぐるぐる揺れる感覚がとまらない。
少しでも落ち着くまで待とうとそのまま座っていた。
気づくとホールのある方向から先生の声が聞こえてきた。
自分は気を失っていたのだろうか。
なんとか立ち上がりホールに戻って席に座ると、優に一時間を越えるであろう食事は全て終わっていた。
私が席を立ったのは始まって十分もしない頃のはずだった。
「大丈夫?」
隣からの問に頭を縦に振り返した。
それから先生たちの話を聞いて記念撮影をしている間中ずっと苦しさも痛みも恐怖も体が揺れる感覚も治まることなく襲い続けた。
こんなにも視界や体が揺れる感覚がするのに誰も私の変化に気づかない。
私は怖くて誰にも声をかけることが出来なかった。
今までのものとは違いすぎて、苦しすぎて、もう何がなんだか分からなかった。
部屋に戻るとルームメートが何か言って部屋を出ていった。
私は何もせずにいるのも怖くて取り敢えずお風呂に入った。
ふらふらと浴室を出る頃にはすでに浴室での記憶は曖昧だった。
その事に驚愕していると部屋の外からルームメートではない人の声がした。
目を開いて音も聞こえているのに頭に入ってこない。
そのままベッドの傍までいくと、足がもつれてベッドに凭れ掛かるようにして座り込んでしまった。
「桐原さんっ」
ルームメートではない誰かが名前を呼んだ。
その誰かは先生らしかった。
「こっちに来なさい!」
先生は怒っていた。
「…どうし、て」
混濁する頭をどうにか働かせて口を開く。
「小野さんが他の部屋に行っていたんですよ。あなたのルームメートでしょう!?」
「え……」
意味が分からない。
「え、じゃないでしょう。伝えたと言っているわ。どうして止めなかったの」
しかしすぐに思い返すと出て行く前に何か言っていたような気がした。
「すみませ…、ちゃんと…きき、とれなく、て…」
うまく呂律が回らない。
先生はそんな私に気づかず、早くこっちに来なさい、と言う。
手と足に力を入れるが体が上手く支えられない。
半ば体を引き摺る様な動きになってしまう。
「あの、せんせ…立てな…」
「なに言ってるの、早くっ!」
何故か私の様子に気づかない先生の言葉に必死になって体に力を入れ、なんとか数歩歩いてしかしすぐに壁に凭れ掛かった。
もうこれ以上は歩けない……
ぐにゃぐにゃと歪みを増す視界の中に柚の姿が映った。
「…ぅ、ゅ、ぅ……たすけっ…」
「泪っ!?」
向かいの部屋から顔を出していた柚の焦った声が聞こえた。
柚が走ってくるのがみえた。
止めようとした先生の腕を思い切り振りほどいてこちらに向かってくるのがみえた。
柚だけが、はっきり見えた。
「泪っ!!」
うん、聞こえてるよ
「…ゆぅ……っ……」
ほっとしたと同時にどっと疲れが押し寄せて体が沈んだ。
薄れゆく意識のなかで柚ががっしり抱き止めてくれたのが感じられた。
*** ***
「るいっ!」
硬い床に体を打ち付ける既の所で泪を抱きとめた柚は泪を軽く揺さぶる。
しかし泪が目を覚ます気配はない。
力が抜けきってぐったりとしたその体は頼りなく揺れた。
呼吸は浅く今にも消えてしまいそう。
改めてその顔をみると泣いたあとで腫れていた。
「うそ…いつの間に、こんな」
これは柚が今まで見たなかで一番酷かった。
蒼白い顔で、体は恐ろしく冷えきっているのに滝のような汗をかいている。
こんなことは今までになかった
「先生!早く、病院…救急車をっ!!!!」
柚は泪の体を抱き締めて震えた。
こんなに目が腫れるほど一体いつから泣いていたのだろう。
こんな体になって一体いつから苦しんでいたのだろう。
考えたところで泪の苦しみは分からない。
旅行先の不馴れな場所で、理解者のいないなかで、私にも声をかけられずに…。
いや、それだけじゃない。
泪はきっと私の為にと声をかけなかったんだろう。
泪はそういう子だ。
昨晩のあのとき、無理に明るく振る舞う泪がくれた機会に謝っておくべきだったんだ。
傍にいて気づいてあげられれば良かったのに。支えてあげられていればこんなことにはならなかったかもしれない。
泪がこんな目にあわずに済んだかもしれないのに。
「ごめん、泪、ごめんっ…ねぇ泪?」
今の柚はもう、こうして声をかけることしかできないのだ。
「おきてよぉ…お願い…るいぃぃっ!」
そうしているうちに周りには先生や救急隊員が集まっていて、柚から泪を引き離した。
「あぁっ!るいっ!……」
あっという間に救急車で搬送され、柚は付き添うことも許されず一人立ち尽くした。