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再会して、この世を去る。

作者: RGA
掲載日:2026/06/20

僕の名前は北口天野きたぐちあまの。今日から高校一年生……になるはずの男だ。


だが、僕には一つ大きな問題があった。3年前から、極度の不眠症に悩まされているのだ。あまりにも重症で、これまでどの医者に行っても治すことができなかった……。


――入学式の朝、我が家のリビングでのこと。


「お兄ちゃん……」


声の主は、妹の彩瀬あやせだった。せめて今夜だけでも家でゆっくり休んでほしいと言いたげな目で僕を見つめている。


「お医者さんも、お兄ちゃんはたくさん休まないといけないって言ってたでしょ? そんな体調で学校に行って大丈夫なの?」


「大丈夫だよ、彩瀬。お兄ちゃんは強いからね」


僕は力を振り絞って笑ってみせる。だけど、顔は青白く、目の下にはパンダのようなひどいクマができていた。心の奥底では、日に日に悪化していくこの病気のせいで、もう生きることに疲れてしまっていた。


二人の会話を聞いていた母の愛美まなみが、心配そうな声をあげる。


「彩瀬の言う通りよ、天野くん。もし途中で倒れたりしたらどうするの?」


「大丈夫だよ、お母さん。僕は強いから」


「……分かったわ。でも、絶対に無理はしないでね、天野くん」


どんなに僕が強がってみせても、彩瀬と母の顔には、僕を心から心配する色が濃く浮かんでいた。


二人の心配そうな顔を見るたび、僕はいつも、あの日の重苦しい記憶を思い出してしまう。


三年前――穂波ほなみ病院の、白く静まり返った病室でのこと。


「お母さん、落ち着いて聞いてください。天野くんの病状ですが……通常の不眠症とは、根本的に異なります」


担当医である赤崎あかさき医師は、沈痛な面持ちでそう告げた。


「先生、それってどういう……? 息子の病気は、ちゃんと治るんですよね……?」


母、愛美まなみが縋るように尋ねる。


「……申し訳ありません。現代の医学では、彼の脳がなぜ眠ることを完全に拒絶しているのか、原因すら特定できないのです。このまま眠れない日々が続けば、彼の身体がいつまで持つか……」


「そんな……っ!?」


その言葉を聞いた瞬間、母の顔から血の気が引いていった。


母にとって僕は、これまで二人三脚で寄り添い合って生きてきた、かけがえのない一人息子だ。


「先生、嘘ですよね……!? 本当に、息子を救う方法は他にないのですか!」母は震える声で懇願する。


「お母さん……」


僕はベッドの上から、ただ弱々しく母を呼ぶことしかできなかった。


赤崎医師は苦渋に満ちた表情で黙り込み、それ以上の言葉を紡ぐことはなかった。


やがて母は両手で顔を覆い、しゃくりあげるように泣き崩れてしまった。


――そう、僕の死へのカウントダウンは、ここからすべてが始まったのだ。


………


「お母さん、行ってきます!」


「行ってきまーす!」


元気な声を残して、パタン、と玄関の扉が閉まる。


その直後、誰もいなくなった家に残された母、愛美まなみの目から、堪えきれなくなった一粒の涙が溢れ落ちた。


子どもたちの前では絶対に弱音を見せないと決めているのだろう、母はすぐにそれを手で拭い去る。


そして、静まり返った玄関に向かって、祈るようにそっと呟いた。


「……行ってらっしゃい。天野くん、彩瀬」


………


校門の前で足をとめ、僕はしばらく学校の看板を見つめていた。


新しい生活への不安を飲み込み、一歩を踏み出そうとしたその時――突然、右肩をぽんと叩かれた。


「――え?」


驚いて振り返ると、そこには一人の少女が立っていた。


「もしかして……天野くん?」


「えっ、嘘……香織、なの?」


そこに立っていたのは、僕の幼馴染である森戸香織もりとかおりだった。何年ぶりの再会だろう。あまりの衝撃に戸惑いながらも、僕は彼女の顔を凝視してしまう。


「うん、香織だよ。また天野くんに会えて嬉しいな」香織は優しく微笑んだ。


だけど、僕は嬉しさよりも先に、一つの疑問が口をついて出た。


「あ、うん、僕も会えて嬉しいけど……よく僕だって分かったね? 今の僕、相当ひどい顔してるのに」


不眠症のせいで、今の僕は目の下にひどいクマがある。化け物みたいに思われても仕方ないはずなのに。


「それはね……天野くんの後ろ髪の癖で、すぐに分かったんだよ」


香織はそう言って、くすくすと小さく笑った。その懐かしい笑顔に、僕の緊張も少しだけ和らぐ。


――だが、次の瞬間。彼女の顔を間近で直視した僕は、息を呑んだ。


「……って、香織。どうしてそんなに顔色が悪いんだよ!?」


彼女の尋常じゃない青白さに気づき、僕は思わず声を荒らげていた。


彼女のくすくすという笑い声を聞いていると、不意に、古い記憶が脳裏をよぎった。


それは、まだ僕たちが何も知らなかった、純粋で無邪気な子どもだった頃の記憶――。


大きな大樹の木陰に座り、僕は香織と一緒に一冊の絵本を読んでいた。


『――そして、男の子のアリさんは大好きな幼馴染の手を引いて、遠い、遠い別の世界へと旅立ちました。二人はそこで、いつまでも幸せに暮らしましたとさ。めでたし、めでたし』


生まれ育った場所を離れて、二度と戻らない旅に出た二匹の物語。香織が優しくそれを読み終えた瞬間、僕は堪えきれずに涙をポロポロとこぼした。


「うわぁぁん! 香織、もうそのお話は読まないでよぉ!」


「ええっ? どうして? ハッピーエンドだよ?」


「だって……だってお家を離れて遠いところに行っちゃうなんて、すごく寂しくて悲しいんだもん……っ!」


幼い僕は、襲ってきた寂しさを振り払うように香織に抱きついた。絵本の結末が切なくてワンワン泣きじゃくる僕を、香織は困ったように受け止める。


チラリと彼女の顔を見ると、読んでいた香織本人も瞳を潤ませていて、溢れそうになる涙を必死にグッと堪えていた。


「香織は……悲しくないの?」


僕はそのままコロンと横になり、香織の膝を枕にして彼女を見上げた。


幼い香織は、さっきまで持っていた絵本を慌てて背中へと隠す。


「悲しいよ。あんなお話、読んで悲しくならないわけないじゃん」


「そっか、そうだよね……」


僕の髪を愛おしそうに優しく撫でながら、香織はふと、遠くを見つめるような目で僕に問いかけた。


「ねえ、もし私たちの運命が、この絵本と同じになったらどうする?」


「うーん……香織と一緒に行くなら、どこに行ってもきっと幸せなんじゃないかな、へへっ」


「へへ、そうだね」


膝の上の僕の髪を見つめながら、香織はどこか儚げに、優しく微笑んでいた。


「あはは、そっか。言われてみれば、僕の髪型って昔からずっと変わってないや」


香織の言葉にハッと我に返り、僕は脳裏をよぎった幼い頃の記憶を振り払うように不器用な笑みを浮かべた。


「でも……目は変わっちゃったね」


香織はさっきから、僕の目をじっと見つめていた。まるでパンダのように真っ黒な僕の酷い目のクマを、彼女は強い不安の混じった眼差しで見つめている。


「本当に大丈夫なの……天野くん?」


「う、うん……」


香織のその言葉をきっかけに、二人の間に急に気まずい空気が流れ込んだ。


「あ、あのさ、香織。そういう君こそ、すごく顔色が白いよ。本当に……大丈夫?」


「えっ……」


再び、重苦しい沈滅が僕たちを包み込む。


ふと周りに目を向けると、登校してきた生徒たちが、僕たちの姿を見てひそひそと囁き合っていた。その視線はまるで、学校に紛れ込んだ二人の幽霊でも見ているかのようだった。


『ねえ、あの二人、顔色ヤバくない……?』


『体調悪いなら、初日から無理しないで保健室に行けばいいのに』


『新入生かな? 幽霊みたいでちょっと怖いんだけど……』


すれ違う生徒たちの容赦のない雑談が、僕たちの耳に刺さる。


「……この話は、休み時間にでもしよう」僕は声を潜めて香織に提案した。


こんな風にみんなに見られるの、ちょっと嫌だしさ。これ以上騒ぎが大きくなる前に、ここを離れた方がいい。


「うん……そうだね」香織は小さく頷いた。


僕たちは自分たちが作ってしまった妙な注目から逃れるように歩き出し、クラス分けの掲示板を見るために、校舎の廊下へと向かった。


廊下に進むと、新入生向けの案内やクラス分けの用紙がびっしりと貼られた、大きな掲示板が目に飛び込んできた。


「さあ、僕たちがこれからどこの教室に行くのか、見てみようか」


僕は人込みの隙間から、掲示板の文字に目を走らせた。


【1年B組】

29.森戸 香織

30.北口 天野


「あ、香織。ほら、僕たちの名前があるよ。よかった、同じクラスだね」


「うん、本当だね、天野くん」


香織もホッとしたように微笑む。


「次は……席がどこか探してみよう」


今度は香織が、1年B組の用紙の下の方にある座席表へと指先を動かした。そこには、クラスの生徒たちの名前が書き込まれた机の配置図が描かれている。


「あった! 天野くん、私たち席が隣同士みたいだよ」


「え、どこどこ?」


「ここだよ。一番後ろの、窓際の席」


「本当だ……。じゃあさ、さっそく教室に行こう」


「あの、さ……天野くんも気づいてる? ここの空気……さっきの校門前と、全く同じ気がするんだけど……」


「えっ……」


言われて周囲を見渡すと、やはり他の生徒たちからの奇妙な視線が、チクチクと僕たちに突き刺さっていた。


「あ、本当だね。……じゃあ、早く行こう」


僕たちは逃げるように掲示板の前を離れ、急いで自分たちの教室へと向かった。


……


教室に着くと、僕は窓際の一番後ろの席に腰を下ろし、香織はその隣の席に座った。


そこでもまた、僕たちの間にどこか気まずい沈黙が流れてしまう。


「か、香織。さっきの、途切れた話の続きをしよう。僕から先に話すから」


なんとか空気を変えようと、僕は声を絞り出した。


「う、うん。いいよ、天野くん」


「よっ、やっほー!」


突如、何の前触れもなく、エネルギーの塊のような男子生徒が僕たちの会話に割り込んできた。


「ちょっと日暮ひぐらしくん! いきなり人の会話に割り込まないの」


後ろから歩いてきた女子生徒が、すかさず彼の頭を軽く小突いて注意する。


「あはは、ごめんごめん、ついさ」


日暮と呼ばれた少年は、悪びれもせずにへらへらと笑った。


「はぁ……これだから男子は。あ、初めまして! 私は朝ヶ崎万里花あさがさき まりか。よろしくね!」


彼女はひまわり文様の弾けた笑顔で自己紹介をしてくれた。


「で、このうるさいのが日暮勇也ひぐらし ゆうや。こんなんだけど、一応運動神経だけはいいんだよ」


二人が現れたことで、それまで僕たちの周りを包んでいた重苦しい空気が、一気に明るく塗り替えられていくのがわかった。


「あ、うん……僕は北口天野。こっちは幼馴染の、森戸香織」


「よろしくね」


香織も小さく会釈する。


「わぁっ! 二人って幼馴染なんだ? どうりでさっき校門前にいた時、すごく仲良さそうに見えたわけだ!」


万里花は楽しそうに、僕たちの顔を覗き込んできた。


「でもさ、北口くん。なんでそんなに元気なさそうな顔してんの? 目の下のクマもパンダみたいに真っ黒じゃん」


日暮がすっと素朴な疑問を投げかけてくる。


「森戸さんも顔色が真っ白だけど……二人とも、どこか具合悪いの?」


「えっと……」


「う、うん……」


日暮のストレートすぎる質問に、僕と香織は再び言葉を詰まらせた。一瞬にして、その場の空気が凍りつく。


「ちょっと日暮くん! いきなりそんなデリカシーのないこと聞かないの!」


万里花が日暮の腕を強く引っ張ってたしなめる。


「おっと、悪い悪い! 本当に悪気はなかったんだって」


日暮は慌てて両手を合わせた。


「もう、しょうがないなぁ。今の話はナシにして、もっと別の楽しい話をしよ?」


万里花が明るいトーンで場を和ませてくれる。


それから、主に万里花と日暮が喋り倒す形にはなったけれど、僕たちは他愛のない雑談を交わした。彼らの眩しい明るさに救われつつも、僕たちの体調について触れる者は誰もいなくなった。


……あの瞬間が来るまでは。


――キーンコーンカーンコーン……


授業の始まりを告げるチャイムが響き渡り、クラスの生徒たちが一斉に自分の席へと戻っていく。


「香織、お昼休みになったら、屋上で一緒にお弁当食べよう。そこでさっきの続きを話すよ」


僕は周囲に聞こえないよう声を潜めながら、静かに提案した。


「うん、いいよ」


香織は小さく頷いた。


先生が教室に入ってきて、生徒たちが机の上に筆記用具を並べる。


こうして、僕たちの高校生活最初の授業が始まった。


………


キーンコーンカーンコーン――。


待ちに待った昼休みのチャイムが響き渡る。


クラスの生徒たちは一斉に騒がしくなり、机の上の筆記用具を大急ぎで片付けると、我先にと食堂や売店へ向かって走り出していった。


「北口くん、森戸さん。よかったら私たちと一緒に食堂行かない?」


荷物をまとめながら、万里花が僕たちを誘ってくれた。


だけど彼女の視線は、すでに教室のドアの外へと向いている。廊下を歩いていく日暮の後ろ姿を追っていて、今にも走り出しそうな様子だった。


「ううん、朝ヶ崎さん。僕たちは弁当を持ってきてるから、屋上で食べる予定なんだ。誘ってくれてありがとう」


僕は柔らかく断りの言葉を返した。


「もし用事があったら、屋上に来てね。そこにいるから」


隣の香織も、薄く微笑みながら言葉を添える。


「そっかぁ、残念。じゃあ私、先に行くね。北口くん、森戸さん、バイバイ!」


万里花は手をひらひらと振って歩き出そうとした。その瞬間、廊下から日暮の大きな声が響く。


「万里花、早くしろよー! 遅いと本当に奢ってやんないからなー!」


「あ、もう! 待ってよ!」


待ちきれない日暮に急かされ、万里花は慌てて声を上げながら教室を飛び出していった。


そんな二人の賑やかなやり取りを見送って、僕と香織は顔を見合わせ、思わず小さく吹き出した。


「ふふっ」


「ふふふ」


嵐が去ったように静かになった教室で、僕は香織に向き直った。


「それじゃあ……屋上に行こうか」


「うん、行こう」


僕たちはそれぞれ、ずっと出番を待っていたお弁当箱を手に取ると、並んで教室を後にした。


目指すのは、この学校で一番空に近い場所――屋上だ。


………


屋上に到着すると、生暖かい昼の風が僕たちの頬を撫でた。


僕はすぐに振り返り、唯一の出入り口である鉄の扉を閉める。そのまま扉に背をもたれかけるようにして、コンクリートの床に座り込んだ。


「ここ、僕の隣に座りなよ」


僕は隣の床をぽんぽんと叩いた。


「うん、わかった。天野くん」


香織は僕の言葉に従い、静かに歩み寄ると僕のすぐ隣に腰を下ろした。


僕たちは持ってきたお弁当箱をすぐ脇に置く。


――けれど、それを開こうとする者は誰もいなかった。


ここに流れる静寂は、さっきの教室のものよりもずっと重く、息苦しく感じられた。


「そ、それで……香織」


僕は意を決して口を開き、彼女の横顔をじっと見つめた。


「一体どうしたの? なんでそんなに顔色が青白いの?」


回りくどい言い方をやめ、胸の奥にずっと燻っていた疑問をストレートにぶつけた。


香織はしばらく沈黙し、深くうつむいていた。


やがてゆっくりと顔を上げて、その儚げな瞳で僕を見つめ返す。


「実はね、天野くん……」


………


香織はゆっくりと瞳を閉じ、一年前の記憶を語り始めた。


――それは、静まり返った伝承病院の一室でのこと。


白い部屋の中で、僕の知らない彼女の家族と、一人の医師が深刻な面持ちで向き合っていた。


「――変申し上げにくいことですが、お父さん、お母さん。娘さんの命は、持ってあと二年というところでしょう。彼女の身体はすでに、末期の腎不全を起こしています」


白衣をまとった担当医、雨宮あめみや さとる医師は、沈痛な声を絞り出すように告げた。


「そんなの嘘よ、先生! 信じられません!」


母の奈津なつが、激しく涙を流しながら医師に向かって叫んだ。


「あの子はまだこんなに若いんですよ!? いつも元気で、悪いところなんてどこにもなかったのに……っ!!」


「そうだ、先生! 何かの間違いじゃないのか!?」


父の鏡臣あきおみも、取り乱した様子で医師の机に詰め寄る。


雨宮医師は静かに首を振り、絶望に打ちひしがれる家族に対して、苦渋の表情のまま説明を続けた。


「お父さん、お母さん。お気持ちは痛いほど分かります。ですが、病というのは時と場合を選ばず、突然訪れるものなのです。現代の医学では、彼女の進行をこれ以上止めることは……」


「お父さん……お母さん……」


ベッドの上から、香織の震える声が響いた。


「香織……!」


奈津と鏡臣はすぐさまベッドに駆け寄り、香織の小さな身体を壊れそうなほど強く抱きしめた。二人は香織の胸に顔を埋め、声を上げてむせび泣いた。


――それが、彼女が背負わされた残酷な現実のすべてだった。


………


「っ……う、うう……香織……っ」


僕はあふれ出る涙を止められなかった。彼女に訪れた残酷な現実を知り、胸が締め付けられるように痛む。


「えっ、ちょっと、天野くん!? もう、泣かないでよ」


香織は、自分よりも激しく泣きじゃくる僕を見て、慌てて声をかける。


「だ、だって……っ……僕は昔から、こういう悲しい話に一番弱いんだよ……。聞いてるだけで、胸が張り裂けそうになるんだ……っ」


僕は制服の袖で涙を拭いながら、必死に息を整えようとした。


香織は困ったように、でも愛おしそうに目を細めた。


「うん、そうだね。ごめんね、悲しい思いをさせちゃって。……じゃあ、お詫び代わりに私の膝で横になる? 昔、よくやったみたいにさ」


「う、うん……お言葉に甘えるよ、香織……っ」


僕は少し身体を動かすと、香織の柔らかい太ももの上にそっと頭を預けた。


「天野くん、逆に自分のほうはどうなの?」

香織は優しく問いかけながら、僕の髪をゆっくりと撫で始めた。その指先の温もりは、僕にとってたまらなく懐かしいものだった。


「今の天野くん、私よりずっとひどい状態に見えるよ。顔色は真っ白だし、目の下のクマも、パンダみたいに真っ黒だし……」


僕は彼女の膝の上から昼間の空を見上げ、目尻に残った涙をにじませながら呟いた。


「……本当に、知りたい?」


「うん、知りたい」


香織は真っ直ぐに僕を見つめた。


髪を撫でてくれる彼女の心地よい手の感触に包まれながら、僕はぽつりぽつりと話し始めた。


自分が病院で告げられたこと。そして、今も僕の命を削り続けている、あの重度の不眠症インソムニアの真実について――。


………


「――とまぁ、これが僕の隠し事のすべてだよ」


医師から告げられた言葉、そしてこれまで僕を苦しめ続けてきた、眠れない夜の真真をすべて話し終えた。


「……う、うう……天野くん……っ」


すると今度は、香織が激しく涙を流して泣きじゃくり始めた。彼女は指先で何度も目元を拭いながら、肩を震わせている。


「えっ? ちょ、ちょっと香織!? もう泣かないでよ」


僕は慌てて彼女の顔を見上げた。


「それは僕の話だからさ。もう大丈夫だよ」


「だって……だって、すごく悲しいんだもん、天野くん……っ」


香織は涙をにじませながら、切なそうに呟いた。


そんな彼女の姿が愛おしくて、僕は彼女の膝の上で小さく笑った。


「もういいって。それにさ、不思議なんだけど……こうして香織の膝の上にいると、今ならすごく安らかに眠れそうな気がするんだ、へへ」


香織は一瞬目を見開いた。僕の髪を撫でていた彼女の手が止まる。


「……本当に?」


「うん、本当」


香織の瞳から涙が消え、代わりにどこまでも優しい光が灯った。


「それなら……私のこの特等席で、好きなだけ眠るといいよ、天野くん」


「本当? ……本当に、いいの?」


限界を迎えたかのように、猛烈な眠気が僕の意識を塗りつぶしていく。ろれつが回らなくなる僕の頭を、彼女はもう一度優しく撫でてくれた。


「もちろん。天野くん以外には、絶対に使わせないんだから」


その言葉を最後に、僕の身体からすべての緊張が抜けていった。何ヶ月も僕を苛んでいたあの不眠症が嘘のように、まぶたが自然と閉じていく。


「じゃあ……おやす……み……っ」


――すぅ、すぅ……。


規則正しい寝息が、屋上の静寂に溶けていく。


香織は僕の寝顔をじっと見つめ、愛おしそうに口元を緩めた。その表情には、切なくも温かい、優しい微笑みが浮かんでいた。


「ふふっ……おやすみなさい、天野くん」


………


――天野が眠りについてから、十五分ほどが経過した頃。


「天野くん、起きて。もうすぐ授業が始まっちゃうよ……?」


香織は優しく声をかけ、自分の膝の上で眠る天野の手をそっと握りしめた。


しかし――触れた瞬間、香織の背筋に冷たい戦慄が走った。


天野の手は、まるで氷のように冷たくなっていた。


彼の顔色はさっきよりもさらに青白く、そして何よりも恐ろしいことに――。


天野の胸は、もう上下に動いていなかった。


彼の呼吸は……。


完全に、止まっていた。


「天野くん……?」


「天野くん!! 嘘でしょ、起きてよ、天野くん!!」


香織は激しく取り乱し、彼の冷え切った手を強く握りしめた。天野の頭を抱きしめるように、強く胸へと引き寄せる。


大粒の涙が彼女の瞳から溢れ出し、天野の動かない青白い顔を濡らしていく。


「天野くん、私たち、やっと再会できたばかりなのに……どうして……っ」


叫びかけたその時、香織の腹部に、まるで無数の刃物で突き刺されたかのような激痛が走った。


天野の身体を抱きしめたまま、香織の目は猛烈な痛みの波によって大きく見開かれる。末期症状の拒絶反応が、容赦なく彼女の命を蝕んでいく。


「あま……くん……」


「私……天野くんのことが……大す……き……だよ……」


香織の顔から、完全に血の気が引いていく。


その呼吸は次第に小さく、細くなっていき、かつて鮮やかだった彼女の瞳の光彩は、ゆっくりと色を失い、濁っていった。


吹き抜ける風だけが知る屋上の片隅で、彼らの姿を見る者は誰もいない。


二人の最期の言葉を聞く者も、誰もいない。


二人の時間は、静かに、そして永遠に止まった。


………


昼休みが終わる予鈴の、わずか一分前。


食堂や中庭から生徒たちが戻り始め、にわかに騒がしくなった教室の中。


日暮と万里花は、未だに主の戻らない二つの空席の側で、不思議そうに話し込んでいた。


「もうすぐチャイムが鳴るっていうのに、北口と森戸のやつら、どこ行っちゃったんだろ? まだ教室に戻ってこないじゃん」


日暮は首を傾げながら教室の入り口を見つめた。


「万里花、なんか知らない?」


「うーんと、確か屋上でお弁当を食べるって言ってた気がする。……ちょっと様子を見に行ってみる?」


万里花は少し考え込むように、指先を顎に当てた。


「おっ、そうだな、見に行こうぜ! 普通、この時間になったらみんな大急ぎで教室に駆け込んでくるはずだろ?」


「うん、行こ!」


胸に小さな違和感を抱えたまま、二人は騒がしい教室を飛び出した。


そして、屋上へと続く階段を大急ぎで駆け上がっていった。


………


屋上へと続く鉄の扉の前に到着すると、日暮はすぐにドアノブを掴んで引いた。


「ん、しょ……っ」


――ギィィィ……。


扉の向こうに、何か重いものが引っかかっている。完全に開く前、日暮はわずかな隙間から向こう側を覗き込んだ。


その瞬間、日暮はドアノブを握ったまま、まるで彫刻のように凍りついた。


全身が激しく震え始め、その瞳にはみるみるうちに涙が込み上げていく。


「どうしたの、日暮くん……?」


後ろにいた万里花が、不穏な空気を察して不安げに声をかける。


日暮は何も答えず、震える手で扉を力任せに押し開けた。そして――。


「ひっ……あ、あああ……っ!」


万里花は恐怖のあまり、両手で自分の口を覆い隠した。


顔から完全に血の気が引き、絶望に染まった表情でその場にへたり込みそうになる。


吹き抜ける風の中で、二人の目に飛び込んできたのは、あまりにも残酷で、あまりにも静かな光景だった。


すっかり青白くなった香織が座り込み、その膝の上には、天野が力なく横たわっている。


天野の頭は、香織の冷たくなった両腕の中に、今も愛おしそうに抱きしめられたままだった。


二人の間からは、もう何の呼吸の音も聞こえない。


ただ、永遠の静寂だけがそこにあった。


――……。


――……。


キーンコーンカーンコーン――!!!!


——……。


【完】

最後までお読みいただきありがとうございました。


本作はあくまでフィクションであり、皆様に少しでも楽しんでいただける娯楽として執筆いたしました。もし至らない点や誤りなどがありましたら、深くお詫び申し上げます。


改めまして、最後までお付き合いいただき、本当にありがとうございました!

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