忘れものの明るさ
忘れものの明るさ
夜の終わりに近い時刻、玄関の電球だけが点かなかった。
部屋の他の灯りは、どれも普通についた。台所の蛍光灯も、机のスタンドも、洗面所の少し青白い照明も、いつものように何事もなく明るくなった。けれど玄関だけが、スイッチを入れても沈黙したままだった。
球が切れたのだろうと思った。
そう思って、私は一度うなずいた。たいていのことには理由がある。夜の小さな異変のほとんどは、朝になれば説明できる種類のものだ。たとえば電球なら寿命。時計なら電池。床の軋みなら湿気。そういうふうに、世界にはおおむね納得できる言い訳が用意されている。
でも、その夜の玄関は、ただ暗いという感じではなかった。
明るさだけが、少し手前で立ち止まっているように見えた。
扉の前に立つ。靴箱の輪郭は見える。傘立ての細い影も見える。暗闇というほど濃くはない。むしろ、明るくなる寸前の薄い灰色が、そこだけ長く続いているようだった。
私は靴を脱いだまま、しばらく玄関を見ていた。
帰ってきたとき、ここに何かあった気がする。
そう思う。けれど、それが何なのか思い出せない。郵便受けから取ったチラシかもしれない。コンビニの袋かもしれない。駅からの道で考えていたことの続きかもしれない。物だったのか、気分だったのかも分からない。ただ、玄関でいったん手に持って、それからどこへ置いたのか分からなくなった何かがある、という感触だけが残っていた。
私はリビングへ戻り、机の上とソファの周りを見た。買ってきたものは全部ある。財布も鍵もスマートフォンも、いつもの場所に置いてある。忘れ物など何もないように見えた。
なのに、玄関だけがまだ明るくならない。
私は妙な気持ちになって、もう一度スイッチを押した。無音。壁の向こうで、何かが息を潜めたような気がした。
「何を待ってるの」
誰に言うでもなく、そう呟いた。
返事はなかった。
でも、返事の代わりのように、玄関の暗がりがほんの少しだけ揺れた。風ではない。目の錯覚かもしれない。それでも、その揺れは、向こうにいる誰かが姿勢を直したときの気配に少し似ていた。
私は喉の奥で息を整えた。
怖くはなかった。むしろ、よく知っている種類の沈黙だと思った。何かが怒っているときの沈黙ではない。言いそびれたことが、そのまま形を持ってしまったときの沈黙。
私は台所で水を一杯飲んで、また玄関へ戻った。
暗いままの扉の前に立つ。金属のドアノブが、外の冷たさを少し残していた。
帰り道のことを思い出そうとした。
改札を出て、コンビニに寄って、パンと牛乳を買って、横断歩道の手前で一度立ち止まった。そこまでははっきりしている。その先に、誰かとすれ違った気がした。いや、すれ違っただけではない。たぶん、目が合った。たぶん、向こうは何か言いたそうだった。たぶん私は、気づかないふりをした。
でも、それが誰なのか思い出せない。
知っている顔だったのか、知らない顔だったのかも曖昧だった。
私は靴箱の上に手を置く。
その瞬間、玄関の暗がりの中で、何か小さなものが光った気がした。
しゃがんで見る。床に、細い水の筋のようなものがあった。水ではない。濡れていない。でも、街灯を踏んで帰ってきた夜道の反射だけが、そこに一本だけ置き忘れられているみたいに、淡く光っていた。
その光は、玄関の中央から扉の前まで続いていた。
私は息を止める。
足跡だ、と思った。
誰かのではない。たぶん私の。けれど、今夜ここへ入ってきたときのものではなく、もっと前の、帰ってきたのにちゃんと帰りきれなかった夜の足跡。
そんなものがあるわけがない。
そう思いながらも、私はその光の筋を目でたどった。扉の前で、それはふっと途切れていた。まるで、そこに立ったまま、内側へ入ることを少しためらった人がいたみたいに。
私は静かに言った。
「まだ外にいるの」
今度は、返事があった。
耳ではなく、玄関の空気が少し明るくなる形で。
忘れたままにされたものは、先に部屋へ入れません。
私はまぶたをゆっくり閉じた。
忘れたままにされたもの。
それは物ではなかったのだと、ようやく分かった。
私はたぶん、今夜の帰り道で、誰かに似たものを見たのだ。昔、ちゃんと別れられなかった人。あるいは、別れたあとで何も言い足さなかった関係。その誰かに本当に会ったのではない。ただ、似た背中か、似た歩き方か、似た沈黙が、夜の交差点に一瞬だけあって、それで十分だったのだ。
思い出すには。
置いてきた言葉が、まだどこかにあると思い出すには。
私は玄関のたたきにしゃがみ込んだ。冷たい床に手をつく。床はただの床で、特別なことは何もない。なのに、その無表情さが少しだけやさしかった。
あのとき言えなかったことを考える。
ごめん、だったかもしれない。 ありがとう、だったかもしれない。 あるいは、そんなにきれいな言葉ではなく、ただ寂しかった、だけだったかもしれない。
でも、今となっては文の形が分からない。
分からないまま、感情だけが残っている。名前をなくした荷物みたいに、受け取り手もなく、長い時間をうろうろしている。
「ごめんね」
とりあえず、私はそう言った。
それが正しい相手に向けられた言葉かどうか、自信はなかった。でも、玄関にはたぶん、正確さより先に必要なものがある気がした。届かなかったことを、届かなかったまま終わらせないための、小さな明かりのようなものが。
しばらくして、玄関の電球がふっと点いた。
眩しいほどではない。いつもの、少し黄ばんだ明るさ。靴箱も傘立ても、なんの秘密も持っていないみたいな顔で照らされる。床にあった光の筋はもう消えていた。
私は立ち上がる。
点いた電球を見上げる。球切れではなかったらしい。接触不良かもしれないし、本当にただの気まぐれだったのかもしれない。
けれど、今はそれでよかった。
私は玄関のスイッチを一度消して、もう一度つけた。今度はすぐに明るくなる。待たせる理由がなくなったように。
靴箱の上に、鍵を置く。
帰宅は、扉を閉めた時点で終わるわけではないのだと思った。体だけ先に部屋へ入って、言葉や感情はあとから追いついてくる夜がある。明るさも同じで、全部が同時に届くとは限らない。
私は少しだけ笑って、部屋の奥へ戻った。
玄関の灯りは、しばらくつけたままにしておいた。誰かのためではなく、たぶん、ようやく入ってこられたもののために。




