四 紙屋ノ裏
人間は、人間として産まれ、人として生き、そして、人間として死ぬ。
人間には、見えるものと見えないものがある。
見えるもの。それは、信号機、ビル、スマホ、オムライス、コーヒー、スプーン、蝶、花、猫。
見えないもの。それは、空気、時間、音楽、価値、心、嘘、神様、幽霊。
人には、ミエル者とミエナイ者がいる。
ミエル者。それは、幽霊が見える者。
ミエナイ者。それは、幽霊が見えない者。
浦辻 洋介 (うらつじ ようすけ)
馬上 絵里子 (まがみ えりこ)
西見 友里恵 (にしみ ゆりえ)
森崎 (もりざき)
楠見 (くすみ)
押切 (おしぎり)
3
店を閉めてから、百三十五年の月日が流れた。
俺、ーー浦辻洋介はこの世を去った今でもこの紙屋の店主であり続けている。
もう姿もない幽霊の俺には、人前で紙を刷ることもできないのに。
最も俺たちみたいな存在は、生者に存在を知られても気付かれてもいけないというかたい掟がある。
だから本来、死んだらすぐにあの世へ連れて行かれる。
だが、この世で一定の得を積んだ者はそれをボーナス期間に換算されて与えられた期間だけこの世に居続ける権利を得る。
俺はそれを希望した。あの世には、まだ行きたくないから。
あの世に行けば、あいつに会えなくなってしまう気がするから。
店の扉を開ける音がした。
またあいつがきたのだと、浦辻は思った。随分前に店に来た、赤い紙を渡してきた案内人と名乗ったあいつ。
しかし入ってきたのは、あいつではなく、生者だった。大学生くらいの青年で、迷う様子もなく客用の椅子に座った。
生者が店に来るのは、百三十五年ぶりだった。
浦辻が向かいの丸椅子に座って様子を伺っていると、その青年は言った。
「名刺を二十枚お願いしたい。名前は、深留レオ」
「・・・え?あの」
「深い浅いの深いに、ボタンを留めるの留める。レオはそのままカタカナ」
「・・・はい。そのほかには?」
「いらない」
「はい。お待ちを」
浦辻は驚いた。久しぶりの生者のお客人だった。
お客人の注文に合わせて、浦辻は慣れた手つきで作業を開始した。
浦辻は、ほんの少しだけなんとなく、生きた心地がした。やりがいを感じたし、気分がよかった。
昔はよく、お客人とたわいも無い話をした。近所の犬がうるさいとか、年齢で目が霞んできたとか。たまには、恋路の話も。
「お客人、どこからきたんですか?」
「とおくから」
「こりゃまいったな。俺の声が聞こえてるみてぇだ。そんなはずはねぇ。俺はお客人には見えねぇはずだかんな。どっかのだれかさんの頼まれものですか?」
「言わないように言われている」
「驚いたな。きっと赤い紙のあいつの仕業だな」
「知っているくせに」
浦辻は笑った。最後の台詞は、青年が言ったようで、あいつが言ったような気がしたからだ。
「おもしれぇことするじゃねぇか。じゃあ、青年。この浮かれたおじさんの話をちょいと聞いてくれねぇか。幽霊だけにな!」
店内は、スマホをいじる青年と静寂だけがあった。
浦辻は続けた。
「おじさんはね、好きな女がいたんだよ。まぁ、出会いは近所のスナックなんだけどな。
女の親父さんも俺の気持ちを受け止めてくれてさ、クリスマスにプロポーズしようって決めてたんだ。
でもクリスマスは予定があるって断られちゃって、前前日の二十三日に会う約束をした。
当日、俺は予定通りプロポーズしたぜ。女には、俺以外に好きな奴がいることを知っててな。
そう。
気になった俺は、女のプライベートをストーカーしたんだ。女は古坂で男と同居してた。
それだけ知ってたなら、俺は引き下がってたさ。でも、俺はたまたまみちゃったんだよ。船戸水の酒場でその男が、浮気してんを。
そんなん知ってさ、俺、そんな男に好きな女と結ばれてほしくなくてよ。
船戸水に通って、あの男に言ってやろうとしたんだ。俺の方があいつを幸せにできるって。はっきりとな。
でもな、いつになってもあの男が船戸水にも同居してるはずの古坂にも現れなくてさ。ついに、当日になっちまった。
そしたらさ、女が言ったんだ。振られたよって。
プロポーズしたその夜、俺は女を抱いた。
その時、女が泣きながら言ったんだ。私を殺してって。
好きで好きで、たまらないって。泣きながらいうんだ。
ごめんよ、ごめんよって。泣きながらいうんだ。
受け取ってもらえなかった指輪はその辺の川に捨てたよ。結構したんだけどな。でも、おかげでスカッとしたぜ」
刷った名刺を整えて、棚の隅に置いた。
奥の台所で珈琲を淹れて戻ると、青年は出来上がった名刺を見つけていた。
青年は「うん」頷くと、「ありがとう」と言った。
「おう。こっちこそ、つまんねぇ長話に付き合わせちまったみてぇで、すまねぇな」
浦辻は見えるはずのない笑顔で青年を送り出そうとしたが、青年はテーブルに何かを並べ始めた。
テーブルに並んだのは、造花が一輪と、金が入った金袋。
「やっぱりあいつの仕業じゃねぇか」
洋介は愉快に笑った。
青年が店から出て行った後、残された洋介は一枚の写真を見つめて思い出に浸っていた。
「選んで欲しかったな。なんて。でも、それも俺の自己承認欲求だったのかもしれねぇな。
うまくやり直せよ。俺の惚れた女」
閉店後の喫茶店は、非常口を示す緑色のライトだけでぼんやり明るかった。
カウンターで焼酎を傾けるのは、馬上絵里子。百六十五年前にスナック店員をしていた元スナック店員の女。現在、幽霊。
「ずいぶん、小綺麗になっちゃったわね」
この喫茶店は元々スナックだった場所で、世代交代でオーナーが代わり今の喫茶店となった。
照明が付いていない店に、来客があった。
「いらっしゃい」
「お邪魔しまーす」
喫茶店はとっくに閉店しているのに、おかしな客だ。セコムを鳴らしてやろうか。
「あのー、もしもーし。もう閉店してるんですけどー?」
青年に馬上の声が聞こえるはずもない。馬上はすでに、死んでいるのだから。
「あら。よく見ると、いい面してるじゃない」
馬上はまじまじと青年の顔を見つめたが、青年に馬上の姿が見えるはずもなかった。
「ま。いい男だし、一緒に乾杯しましょうよ。今、おかわりを作るわ」
馬上がキッチンへ向かおうとした時、青年は言った。
「調子はどうだい?」
馬上は青年に振り返った。
「・・・今、私に言ったの?」
青年はガサゴソとテーブルの上に酒を取り出し、それを飲み始めた。
「嘘よ。そんな。あなた、ミエルの?」
青年は煙草をふかした。煙は宙を漂った。女は煙に触れないよう、自然に華麗に避けた。
「意地悪しないで?ねえ、あなたお酒好きなの?私も好きよ。私たち気が合いそうね」
「素敵な店だね。マスターのこだわりを感じるよ」
青年は、カウンターを眺めながら言った。
「ね!そうでしょ?」女は立ち上がって、カウンターに向かった。
「お父さんの自慢のお酒なの!お父さんはね、好きなものにはとことんこだわるから」馬上は踊るようにして、カウンター内を歩いた。「でも、それがたまにうるさい時もあるんだけどねー」
「海外のものも多いね。いやー、趣味を仕事にできることは羨ましい限りだよ」
ごく自然な会話のテンポだと、馬上は感じた。
「そうでしょ?そうでしょ?さすが、お兄さんわかってるじゃーん。ねね!乾杯しよ乾杯!かんぱーい!」
馬上は青年が持っている酒缶にグラスを重ねると、向かいのソファに座った。
そのあと、青年はしばらく話をしてくれた。酒の話に煙草の話、大学の友達の話。たくさん笑い話をしてくれた。
「ねー、その友達おもしろすぎー。もう、笑っちゃって酔っ払ってきちゃったー」
馬上は立ち上がって、カウンターに酒を注ぎに行った。
「でもまだ飲むもんねー!マスターの娘は酒に強いで有名なんだからー!」
「いい夜だね。酒がうまいよ」
馬上はグラスに入った酒を一気飲みすると、ソファに倒れるように座った。そして時計をみて、青年に顔を近づけて小声を作った。
「ねね?あと少ししたら、照明が落ちるの。そしたらその時、キスしない?」
酔いのせいか、馬上は青年と目が合った気がした。
二十二時ちょうど。店の外にある信号機の点滅が消え、店内は闇に包まれた。その時、馬上はテーブル越しに青年に顔を近づけた。
”・・・香水?”
それは、瞬きをする間もないくらい一瞬の出来事だった。
突然、青年はテーブルを乗り越えて馬上の背後に回ると、抵抗する余裕も与えない速さで抑えられた。
「まって。あなた、何を」
「さあ、悲劇と絶望を繰り返す人生に挨拶を」
首筋に冷たい何かが触れて、店の天井の中に、苦しみと悲しみと、お父さんの顔がフラッシュバックした。
痛みがあった。久しぶりの痛みだった。それは身体の痛みか。それとも、心の痛みか。
お父さんと喧嘩をしたこともあった。ひとの恋愛に口出ししてきたから。
殴られた。痛かった。怖かった。
家出してからは、いいことなんか何にもなかった。
男もいなくなって、お金も無くなって。
生きてる意味なくなったって、それで。
それで、勇気を出したんだ。
ああ。そうだ。それが、人間の人生だった。
”ーーただいま”
馬上の姿は音もなく、灰になって消えた。
青年はその灰の山の上を見つめて言った。
「見えねぇ」
*
「おい、西見。前」
西見は、並んだ列で一歩前に進んだ。
昼時には、長蛇の行列ができるほど人気な個人経営のラーメン屋。
講義のスケジュールによっては度々足を運んでいて、餃子無料のスタンプカードも溜まりつつあった。
「醤油三つと、味噌一つ。全部Aセットで。ライス大盛りで。ドリンクは先で。烏龍茶が二つと、メロンソーダ、アイスコーヒーで。お願いします」
森崎は、注文をとりに来た店員にスラスラと言った。
各テーブルに備え付けのセルフサービスの水を、楠見は四人分コップに注いだ。注がれたコップを手際よく、押切はそれぞれの手元へ近づける。毎度、馴染みの光景だった。
「味噌だれ?」湯気がたつおしぼりで手を拭きながら、押切が訊く。
「西見」西見より先に、森崎が応えた。
「醤油が人気の店なのに?」押切は、山盛りの辛もやしを小皿に乗せた。これもセルフサービスだ。
「おう」森崎は、押切が乗せた山盛りの辛もやしを奪って食べた。楠見はスマホをいじっている。
「なんで?」押切が訊く。別の小皿に、また辛もやしを山盛りに乗せた。
「醤油、味しない」今度はそれを、西見が奪って食べた。
「・・・こいつ何言ってんの?」押切は、また別の小皿に辛もやしを乗せる。
「気にするな」
「そういうあれだ。そういう、障害だ」
スマホをいじっていた楠見と森崎は交互に言った。
「あ?ちがぇし」
「あ、西見。ありがと。返すわ」楠見がカバンから取り出したノートを、西見に差し出した。
「おう」
「まじで助かった。なんなら、多分期末もこれでいける気がする」
「がんば」
「おれも貸して」口いっぱいの辛もやしを食べながら、森崎が言った。
「むり」
「なんで」
「なんかむり」
「は?」
「お待たせしましたー」四人前のラーメンが到着した。
購買人は、提供された商品やサービスへの代金をテーブルの上に提案する。
店主は、商品の代金を選択できる。
購買人によってテーブルに置かれる品は、造花と金が入った金袋。
では店主に提案する代金は、造花か金か。実はそうではない。
それは、人間が見える情報であるだけ。店主は、人間ではないかもしれない。
代金として提案されるのは、みっつ。
一つ目は、生者の殺し。
ふたつめは、亡者の殺し。
三つ目は、金。
このみっつの選択から、店主は代金を自由に選択する。
金を選ばなかった店主を、以降、依頼人と呼称する。依頼人は、最も恨む人間の殺しを依頼する。
それは生者でも、もしくは、亡者でも。
生者の殺しは簡単。暗殺するだけ。
でも亡者の殺しは、どうするか。亡者はその通り、もう死んでいる。
亡者を殺しは、蘇生だ。
生き返るんだ。人間として。
浴びせられるような悲劇と絶望を伴う豊かな人生を、また最初から始めてもらう。
そうだろ?この自殺願望で咲き乱れた世界で、亡者にとってそれが一番の殺しだろ?




