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ひらがな、カタカナのドリルを買ってから、家事の合間や大学のない時間、単語を書いたり教えたりしていた。
乃地は一生懸命覚えて書いて、一つの語をその関連する単語に広げていって、覚えやすいみたいで楽しそうにしている。
乃地がなんだか好きなボールで遊んでいる、ぽちに似ているように思えて、思わず笑ってしまった。
家事も私だけがするのではなく、必ず一緒にしてくれて、やり方のわかったお皿洗いや洗濯干しやたたむのは、大学に行っている時にやってくれたりしていた。
休みの日は私が朝寝過ごすと、朝ごはんを作ってくれる。·····とは言っても、はじめの3、4回は、鶏肉を茹でたものと、パンが焦げたりセーフだったりするトーストだったけど。
お味噌汁の美味しさを知ってからは、作り方を知りたがり、作るとなれば必ずお味噌汁とご飯、鶏肉の茹でたものになってた。
ぽちをお世話してた名残なのか、鶏肉は外せないらしい。やっぱり心の中では、ぽちのこと気になってるんだ。
時間のある時や休みの日に、乃地と一緒にぽちと行ってた場所や周辺を探したりしてるけれど、ぽちが現れた様子はないようだった。
乃地は保健所に行って、交通事故とかの連絡がないのだから、どこか誰かに飼われてるんだろうと言った。 昔、乃地がそうしたように·····確かに珍しい犬種だから買ってもらえる確率は、雑種犬よりは遥かに高いだろう。
それよりも乃地は私の体を心配した。
休める時間がなくなって倒れたりしたら大変だろうからと。
今の乃地は、本当に優しくて私を気遣ってくれる。
·····もし記憶が戻ったら、今の乃地じゃなくなるのかな。なくなってしまったら·····
このまま戻らないでほしいと思ってしまった自分を戒めた。
乃地はすごく心細くて不安で怖いはずなんだから、自分のことばかり言ってちゃいけない。
乃地の覚えが早く、カフェに顔を出す日が思ってたより早く決まり、二週間後になった。
「頑張ったなぁ。読めるし、書けるし。漢字無理だったんだろう?」
「はい、今でも漢字はまだほとんどダメですが、りんが身の回りや日常よく使われている漢字を、まず覚えた方がいいからと教えてもらったものは分かるようになりました」
「葉山さんも大変だったわね。色々やりながらでしょ?」
ゆりさんは私のことを労うように、気遣ってくれている。
「はい。でも簡単なものばかりでしたし、乃地が覚えるのが驚くほど早くて、ただ私は書き出しただけのようなものです」
「そう。それでも負担はあったと思うけれど、よかったわね。無理しないでね。何かあれば教えて。一緒にできると思うの」
ゆりさんはすごい·····
何かあれば言って、じゃなく教えてと言うし、助けてあげるとかじゃなく、一緒にできるという、同じ目線というか、立場でいるということをアピールしてくれている感じがする。····· してあげる方が、どうしても上という意識になりがちなのを感じさせないために、私が特に恐縮してしまうのを知ってるから。
人を頼ることに慣れていなくて·····
「いつもありがとうございます。しんどいと思ったら、ゆりさんに話したいと思ってます。よろしくお願いします」
「もちろんよ!あなたの友達よりも話し易い時はあるでしょうから」
「お待たせしました。こんにちは溝口さん。ゆりさんは一昨日ぶり?」
「ご無沙汰してます。今日はありがとうございます。お忙しいかと思いますが、よろしくお願いします」
溝口課長は仕事モードになっているらしい。
「ええ一昨日ぶりね、芹香さん。よろしくお願いします」
ゆりさんとカフェのオーナーの東条芹香さんとは仲がいいらしい。
急用で会社に直接、茶葉を分けて欲しいと訴えに来た東条さんの相手をしたのが始まりだとか。
素敵な関係なんだなとわかる雰囲気だ。
「こんにちは、澤井乃地と言います。今日はありがとうございます。よろしくお願いします」
「こ、こんにちは。葉山りんです。よろしくお願いします」
「オーナーの東条芹香です。よろしくね。大方ゆりさんから聞いてるわ。意思疎通ができるなら問題ないの。あとは、人間的に私と合うかが一番大事よ」
「もちろんだな、今日はどんな感じで?」
「ええ。まずカフェメニューを見てもらうわ。理解できるか。その後接客の仕方。ドリンクはホールの人が作るの。機械だから使い方さえ学べば大丈夫だけど、あなたがどこまでできるのかわからないから」
そう言いながら、メニューを乃地に手渡した。
ざっと目を通した。乃地は、読めるし説明があるからわかるけど、飲んだことがないから分からない、それはいいのかと聞いた。
「飲んだことがないの?記憶がないからわからない?」
「多分コーヒーしか飲んだことの記憶がありません」
乃地は基本ブラックだ。でも時々カフェオレやラテを頼む。その記憶がないのが、なんとなく不思議だった。 私と一緒にいる今は、コーヒーは苦いから私と一緒の紅茶がいいと言って、紅茶を飲んでる。渋みは大丈夫らしい。以前は嫌がってたのに·····
「そう…料理も知ってるけど、食べた記憶はないのね」
乃地は、フードメニューを見て読めるけれど、ほとんど味は分からないらしい。
パスタは見て知っていると思う·····とも。
でもオムライスはわかる·····
「なんだか記憶のない部分に一定がない感じだから、あなた自身も大変よね、きっと。まぁ、ここで働く分には大丈夫よ。他の子達もそうだけど、このお店の味を知って、お客様に説明できるように休憩や食事時間にうちのものを食べてもらったりしてたから、採用条件はここのメニューを食べることがOkな人よ。量は少なくても多くてもいいの。あなたはどう?」
「食事出してくれるんですか?」
思わず私が聞いてしまった。
二人とも働いていない状態では、ものすごい重要ポイントだ。
「ふふ。ええ、昼夜の食事時間に入ってくれる子には、嫌じゃない限りドリンクやフードメニューから選んでもらうわ。休憩時間は好きなドリンクを、勤務外で来てくれた時は、代金の30%引きにしてるの」
「すごいっ。ね、乃地」
「あ、ああ。多分食べられるとは思います·····覚えてないから、何が食べられないとか分からないですけど」
「好き嫌いを治すいい機会かもね。じゃあ、決まりね。いつから来れる?」
「働かせてもらえるんですか?」
「ええ。今日会ったばかりだけど、ちゃんと働いてくれそうだしね。それに、この二人からの紹介だもの。大丈夫と確信してるわ」
「ありがとう、芹香さん。よろしくお願いします」
「ありがとうございます。僕もできることがあれば、お手伝いさせていただきます」
「ありがとうございます。時々様子を見に来てくれると嬉しいわ。ゆりさんはそれとは別で、私の相手をしてもらえると。今までのようにね」
「ええ。それはもちろん!」
「ありがとうございます!よかったね、乃地。大丈夫?」
「ああ。大丈夫だよ。ありがとうございます。よろしくお願いします。働くのは来週からでお願いします」
「こちらこそよろしく。3日後ね。わかったわ。お店は11:00オープンだけど、初日だから10:00には来て欲しいわ」
「分かりました」
少し緊張している感じの乃地。
でも少しほっとしているようだった。なんだか私も緊張した。
それから東条さんのご好意で、ランチメニューの茶美豚のトマト煮セットと、鮭とほうれん草のクリームパスタセットをご馳走になった。
乃地が味を知るためでもあるから、遠慮せず他のも注文していいと言ってくれた。
豚肉は柔らかく、トマト煮だけど豚肉の味もしっかりしていて、脂もしつこくなく甘みがあって美味しい。
クリームパスタも美味しくて、ちょうどいい塩加減。こんなに幸せな時間·····本当に幸せだな。
みんなと笑いながら食べて。
乃地は、はじめの一口ずつは警戒している感じだったけど味わった途端、うますぎると言ってバクバク食べた。私は少食だけど乃地は最近よく食べるので、全部食べてくれた。
私がお願いしてカフェオレを乃地に、私はブレンドティーを頼んだけど、乃地はやっぱりカフェオレをスプーンにすくって飲んでみると、苦いと言って無理だった。 私の紅茶と交換するつもりだったけど、溝口課長がダージリンと交換してくれた。
乃地が緊張しないよう、東条さんとゆりさんと、女子トークを広げ私も混ぜてくれて、男子のこういうところが困る談義を、少しの間繰り広げられていた。
乃地はポカンとしていて、溝口課長はだからどうした、それでも溺愛はやめられない的な反論していた。
ゆりさんは、東条さんと溝口課長のやり取りに苦笑いして、私に平和ね、みたいなのを目で合図を送ってきた。
「まぁ、この意見の対立は後日決着をつけましょ。乃地くんにちょっとカフェでの接客話をしておいていい?」「はい、お願いします」
「·····今度は東条CEOもいるところでしようじゃないか」
「ノーよ!あの人とあなたが組むと訳が分からなくなって、後々私達が大変になるのよ。ね、ゆりさん」
「フフフフ。まぁ、少し困るかも。」
東条さんのご主人も、溝口課長と同類ってことみたいだ。
この後、東条さんは接客のごく一般的な対応の仕方を説明し、乃地の対応力と性格を知るため、時々こういう場面はどうしたらいいと思う?と、質問形式をとって進めていった。
対応力はある程度あるものの、敬語をもう少し勉強しましょうと言われると、乃地はポケットから手帳とシャーペンを取り出して、お願いしますと言い、面倒がることもふさふてくされることもなく、素直に受け入れていた。
その様子を見て、ゆりさんが私に
「だいぶ変わったんじゃない?聞いていた彼の人柄とは全く違うわよね」
「はい、そうなんです。だから、すごくびっくりしてて····乃地が乃地でなくなったような·····以前の乃地も優しいところはあったんですが分かりにくくて。
でも今の乃地は常に優しくて、私を気遣ってくれて、感謝してくれます」
「そう、ふふ。幸せそうね。少し安心したわ、これからも何か困ったことがあれば聞かせてね。強制じゃないのよ。その·····迷惑かもしれないけれど、娘のように思ってしまうから。心配で、笑っていて欲しくて」
「ゆりさん·····嬉しいです、ありがとうございます。これからも仲良くしてほしいです、聞いてほしいです」
ゆりさんの言葉が嬉しくて、ちょっと興奮気味に言ってしまった。
「本当に別人のようだな、聞いてた人物像からすると」
ランチ後私達と別れた後、ゆりさん達の間で記憶が戻った時、どうなっているかわからないから、乃地の様子を注視できるように、カフェで働いてもらうのが一番だという結論に至ったことは、随分後になって教えてもらった。




