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入院してから1ヶ月半ほどして、退院許可が下りた。
記憶のことがあるから、二週間に一度は米倉先生に診てもらうことになり、必要に応じて神経科の先生のところにも行くということになった。
本当は神経科の先生に診てもらうのが一番いいと言われたけれど、なぜか乃地が米倉先生に診てもらいたいと言って聞かなかったので、米倉先生が主治医ということになった。
神経科の先生が言うには、米倉先生は神経外科医としても優秀らしい。
そして、生活の面では今までのマンションを出ることにした。
乃地が心機一転やり直しをするためと、かなり噂が広まり居づらいこともある·····それに記憶もない部分が結構あるから、どの人が誰でどういう関係というのを知るのが面倒だと、乃地が言ったのもある。
確かに、精神的にも辛いだろうから·····
斗真さんに頼んで(斗真さんの実家が不動産会社なので、)頼ることができた。
今のところとは離れた、私の就職先の近くでもある場所に変えたいと相談した。
セキュリティもしっかりした駅近で、家賃も3ヶ月は無料というものすごくありがたい物件、何でも斗真さんの会社では、デザイナーズマンション展開をしていくことになったそう。で、モニターとして住まわせてくれる代わりに、アンケートや頼まれごとに応じるという条件·····というのは理由付けで、私たちのためにそうしてくれたんだと思うけど、正直ありがたいので甘えさせてもらう事にした。
できる限り早く家賃を払えるように、乃地は仕事を見つけ、私はアルバイトをしようと決意しあった。
部屋の内装は、薄いピンクの壁に白を基調とした家具付き、キッチンカウンター式は憧れていたからテンションが上がった。
本来の家賃を知ったら落ち着いてすめないかも····そして·····私もここに住むことに。
本当は、実家からと思っていたけれど、乃地が全くご飯が作れず、ぽちに作っていたはずのササミや、鶏胸肉を茹でるだけのことすらできなくなっていたことが分かってたので、体のことを考えて私が住み込みの家政婦として住むことになった。
米倉先生も体を作る食事は、とても大事で特に傷の治りや記憶のことに関しても、ちゃんと栄養を取った方がいいと言ったのもある。·····悩んだけれど、受け入れた。
乃地が退院して初めてのこの部屋に二人で入る。
斗真さんはマンションの下まで車で送ってくれたけれど、何の気遣いか今日は俺がいない方がいいだろうからと言って、部屋に入らず帰って行った。
「そうだな」
と、乃地が言ったのにも閉口した。
「ほんと何回来ても素敵な部屋。本当に住んでいいのかなぁ、タダで」
「ああ、すごいな。前の家が犬小屋に思える」
「犬小屋·····ふっ·····それは言い過ぎ。でも倍以上の広さね」
前の家は2Kでもワンルームマンションに近い狭さだったから、この2LDKは豪華だ。新築だし全てが備わってるし。
「ありがとう、りん」
「えっ?」
「この部屋、入れるように掃除とか色々してくれたんだろう?」
「あ·····でも新築だし家具もついているから、ただ前の家から服とか小物や食器持ってきただけだよ。涼子も手伝ってくれたし」
「涼子か·····」
「え、呼び捨て·····」
「あっごめん、涼子さんも手伝ってくれたのか、今度お礼を言わないとな」
「う、うん·····」
やっぱり、今だに驚く。
お礼を言うなんて言葉、本当前までの乃地にはなかった。それに涼子のこともあまり好きじゃなかったから、あいつとか、お前呼びだった。
どちらにも相手のことを話しづらかった。
今回事件のことで涼子は、ものすごく驚いてもう関わらない方がいいと強く言ってくれたけど、結局振り切れない私に散々悪態をついた後、引っ越しのお手伝いもしてくれた。
『いい⁉️ちょっとでも昔のような奴に戻ったと思ったら出るのよ、私に言うのよ!』
心強い味方だ。いつも本当に私のことを心配してくれている中学からの親友。
「·····それに俺のそばにいると決めてくれてありがとう」
「乃地·····」
「もちろん、恋人としてじゃないってわかってる。でも俺を好きだと言ってもらえるように、俺変わるから」
「··········」
「よろしくお願いします」
そう言って、頭を下げた。ドキドキする。本当にびっくりだ。
でも乃地だ。
正直、乃地の今までをなかったことにはできないけど、少なくとも少し違ってきていると認められる。
出会った頃のように、笑い合えたらいいなと思えるようになった。
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「ん·····」
窓から日差しが入り、朝の訪れを教えてくれたから、目覚めたのかと思ったけれど違ったみたいだ。
私の部屋の向こうから、音が聞こえる。
声·····?
「あっ·····」
「うわっ!」
「何だっ⁉️」
·····どれも朝に聞こえる、当たり前の言葉ではない。
まだ、だるさの残る体を何とか起こし、扉の向こうへ歩き出たら·····
「はぁーーーあっ、りん!·····おはよう」
「おはよう·····何してるの?」
キッチンにいる乃地は、びっくりしてこちらを振り向いた時、顔がしまったという表情をしており、乃地の周りに目をやると鍋から溢れた為に、コンロ周りに流れている水分·····匂いからして出汁?
大根一本、包丁の隣に置いてあり、その皮を剥いていた感じで、えらく分厚い皮のなくなった大根が六角形くらいになっている。
すぐそばの炊飯器の蓋が開いているけれど、そこから湯気が出ている。·····焦げた匂いは鍋からかと思ったけど、どうやらこの炊飯器からのようで·····
「何して·····?」
いや·····聞かずともわかる。多分おそらく、朝ごはんを作ろうとしてたはず·····
「ごめん·····なんか、起こしてしまったか·····」
いや、そこじゃなくて·····
「それはいいんだけど·····そこ、大変なことになってるんじゃあ?」
「ーそうかもしれない」
ゆっくり近づき、キッチンを覗いてみる。
うん·····すごいことになってる。
出汁は吹きこぼれてる、やっぱり。
隣に何か細長い·····これは·····ささみ。うーん、これは茹でれたのね。ささみはぽちのご飯だった。ドッグフフードとは別であげてた。ご馳走じゃないけどしっかり栄養いるかなと思って。
もういないってわかってたけど、スーパーでいつもの癖で·····それに、ぽちがいつ帰ってきてもいいように·····
前のマンションの大家さんや近所の人には、ぽちを見かけたり戻ってきたら、すぐ教えてほしいとは言ってあるけれど、今日までぽちのことに関わる話は何もない。
ぽちには茹でるだけのささみを出していた。人間が味付けなしで食べてもきっと美味しくない。特に乃地はジャンクフードとか濃いめの味付きが好きだったし。
他のはめちゃくちゃなのに、ササミだけちゃんと茹でられていたのが、なぜかすごく面白くて笑えてきた。
「ふふふっ、どうしてささみだけちゃんと出来てるの?ハハハハハハッ―」
「そうだな·····ほんと·····ハハハハッ」
顔見合わせて笑いあった。
「ごめんな、何か俺もりんにしてあげたいと思って·····ご飯作れる気がしたんだけど、見るのと実際やるのとでは全く違うな。スマホで調べようと思ったんだけど·····」
「ん?」
「字が·····わからない·····」
「え·····?字が·····分からないの?·····読めない?·····まさかそんなこと·····」
信じられなかった。記憶だけじゃないってことなのかと、かなり動揺してしまって何も言えない。
「幻滅したか?」
「えっ?幻滅?ううん!そんなんじゃないよ·····記憶だけじゃなくて·····他の部分も脳が何かあるんじゃって、怖くなって·····」
そう·····怖かった。
もしかして死んでしまうようなことになったらって·····
「りん·····良かった·····嫌われたんじゃないのか·····」
「嫌になるとかじゃないでしょ!明日米倉先生のとこ行ってみよう?他の部分が何か異常があったりしたら·····内出血とかしてたら·····」
「 きっと·····何もないよ。MRIどこも異常ないって言ってただろう。字が読めないだけだよ。勉強すればすぐ覚えられるよきっと·····」
「読めないだけって·····それが一番大変よ?これから生きていくのに働かなきゃいけないのに」
どうしていいかわからず、これからどうなるのか不安で·····乃地の体も本当に大丈夫なのかと混乱してて、涙が溢れてきてしまった。
「りん!どうした⁉️」
「·····どうしたじゃないわ‼️なんで乃地は平気なの?もしかして、もっと他に重大な病気が隠れてたらって、怖くないの?」
涙が止まらない。どうして当人である乃地は落ち着いていて、それぐらいっていう感覚でいられるのか。
なんで私が泣いているのか。
怖い·····
「わあ!りん!泣かないでくれ!泣かすつもりじゃなかったのに·····喜んでもらおうと、ご飯作ろうと·····」
「ひっく·····う·····」
「ごめん、ごめんっ。りん·····」
涙が止まらなくなった。そんな私の顔を心配そうに覗き込み、涙を両手で拭って私を抱きしめた。
私の頭に口付けしながら、ごめんと言い続けてる。
興奮してた頭の中が次第に落ち着き、乃地の温かさを感じて落ち着いてきた。
短く息を吐き、乃地の服を押して、抱きしめられてる腕を解いた。
「りん、これは大丈夫だから。先生も知ってる。だから行かなくても大丈夫だ。字はとりあえず勉強するよ。I tubeとかでもきっとやってると思うから」
「本当に先生知ってるの?」
「うん、本当だ。退院関係の書類をりんのいない時に持ってきて。それで」
「あ、そっか·····」
入院の時は意識がなかったから、私が記入したけれど、退院書類も持ってこられて一瞬あれって思ったけど、付き添ってるから私なのかなって思って、深くは考えなかった。
「····私も手伝うよ」
「えっ?」
「平仮名教えてあげるから。あとドリルみたいなの買ってくるわ」
ひらがなから始めて年相応の知識を得るのに、どれぐらいかかるのか気が遠くなる·····。
乃地はちゃんと生きていけるのかも、不安にならずにいられない。でも·····でも今出来ることからするしかない。
私が就職するまでに、簡単な読み書きができるようにしとかないと。あと半年ぐらい·····
私が不安になってると、乃地もきっと不安になるかもしれないから、気持ちを持ち直そうと大きく深呼吸をした。
「自分でやるよ、なんでもりんに頼ってたらどんどん甘えてしまいそうだし、りんに負担かけすぎて、今度はりんが入院なんてことになったら、俺は·····一緒だ·····」
「一緒?·····何も根詰めてやろうって言ってるんじゃないよ。こうやって話したりはできるから間で私が見たりして、基本は乃地がドリルでやってみればいいと思うの。ただ、ひらがなは最初読めないと困るから、私が教えるけど。もし無理と感じたらちゃんと言うわ」
乃地が納得しない感じで、私の話を聞いていたから、最後に無理なら言うと付け加えた。
「分かった·····約束だぞ。ありがとう」
「う、うん·····まだやってみないとわからないから」
乃地の優しい雰囲気と声にドキッとしてしまった。
以前の乃地のよう。
乃地が冷たくなる前は、ちゃんと優しさを持って接してくれてた。·····でもこんなにしっかり感じるほどじゃない。
今の乃地は本当に柔らかい感じだ。
でも知らない人に対しては、今も警戒心を感じるけれど·····乃地がまとわせていた、とげどげしい感じが全くない。
アルバイトしていた時、重い荷物を私が持っていると、何も言わずに奪うように持ってくれたり、お客さんで私に絡んでくるような人がいたら、かばってくれ、裏の仕事に行くように指示してくれたり·····そんな特別と感じさせない、さりげない優しさが嬉しくて、好きになって、家にぽちを見に来ていいと言ってくれるくらい話せるようになって·····初めて家に行った日にキスされた。
そうして付き合うことになった。
2年目くらいまでは、ぶっきらぼうでも機嫌が悪い時がよくあっても、ちゃんと私達は普通のカップルだったはずなのに。
ある時から·····私が友達と夜ご飯行った夜、迎えに来てくれた次の日から乃地の態度が徐々に変わっていって、私達の関係も悪くなっていった。
どうして、何か気に障ることしてしまったか、言ってしまったなら教えてほしいと言っても、『別に何もねえ』としか言わず、どうすることもできなくて。
だから今でも怖い。
いつまたそういう態度に変わってしまうかと思うと、心を許してしまうのが怖い。
また傷つきたくない。
「りん?」
「あっ、ごめん、何?」
「·····いや。ドリル買いに行く時は、一緒に行きたいから」
「あぁ、うん、わかった。何か思い出したりするきっかけ見つかるかもしれないしね」
「·····ああ」
新たに分かった事実にすごく不安になったけど、乃地の言葉でなんとか落ち着けて、朝ごはんの用意をすることにした。
「俺も手伝うよ。手伝いたい」
·····手伝うって言っても一体何ができますか?
この信じられない惨状を起こしておいて·····
でも、まぁ、この初めを乗り越えなければ道は続かないよね。
「じゃ、まずお米研ぐの見てて。あと野菜の切り方、出汁の取り方、その後は、お皿並べてもらおうかな」
そう言うと、満面の笑みで、まっすぐ私を見て頷いた。
どきっとしてしまった。
·····30分程で朝ごはんの用意ができた。
ご飯と具だくさんのお味噌汁。だしには茹でたささみの茹で汁を使った。ささみは裂いてお味噌汁に入れた。 初めてだけど、きっと鶏だしで美味しいはず。
その出汁を少し取って、作っただし巻き卵。
三回に分けて流し入れて巻いた、その様子を横でじっと見ていた乃地は、巻くのにひっくり返す時、一緒になって首を横にしていた。笑ってしまった。
巻き終わってお皿に乗せたら、ほーっと安心のため息を吐いていた。
お米を研ぐ時も、野菜を切る時も、じっと一生懸命見ていた。
逆に緊張してしまうくらい·····。
今までの乃地にはないことだから、違和感が残ってしまうけど嬉しそうで、それを見る私も嬉しくなったりしてた。




