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「いち、にっ、さん!」
救急隊員の人が乃地を担架に乗せる。
ぴくりとも動かない彼を·····
「ご家族の方ですか?乗ってください!」
何を言われてるか、わからない。
家族?
乃地にはいない。
乗る?何に?どこに?
違う世界から見ているような·····
「ねぇ!しっかりして!」
早川さんにパシンと両頬を挟まれ、私を現実に戻した。
「車に乗るのよ!ついててあげなきゃ!」
「·····あ·····」
早川さんに手を引かれ救急車に乗せられた。
「あのっ、私も一緒に乗ります!同じ職場です。事情もわかってるので」
「わかってる?」
「ええ。そうよ、だから早く乗って」
そのまま引かれ、彼女と一緒に乗った。
動かない乃地が目に入る。息をしていない·····心臓マッサージをしているけれど·····
「出血が多い。息が戻らない」
「もっと近い病院に連絡を!」
隊員の人達の言葉が現実のものとは思えない。
·····そんなはずない。さっきまで普通にカフェで働いて話して、一緒に帰ろうと言ってくれて。
隊員の人の手が止まる。
「どうして?どうして止めてしまうんですか?諦めないで!」
二人の救急隊員は顔を見合わせた。
「いや!」
嫌でも現実を突きつけられる。でも受け入れたくなくて、信じたくなくて·····
「りんさん」
早川さんが後ろから、私の両肩にそっと手を添える。 彼女も泣いてる。なぜ泣くの?あなたは乃地と関係ないでしょう?本当に好きだったの?
「だいち?·····目を覚まして?まだ·····何も·····やっと二人で幸せになれると·····思って·····ねぇ、どうして·····」
涙が止まらない。
どんどん、ぽろぽろと流れてる。
でも乃地は何も言わない。少しも動いてくれない。
いつもならすぐに私のそばに来て、抱きしめてくれるのに·····してくれるようになったのに。
記憶戻らないでって思ってたのがいけなかった?
私が今日、カフェに行ったのがダメだった?
私と出会ったことが·····
何か理由を、乃地はやっぱり私のそばにいるべきじゃなかった·····もう息をしていない彼を、反省すれば取り戻せるかのように。·····色んな後悔やこうすべきじゃなかったと·····
それでも·····
「乃地言ったよね·····私をもう悲しませないって·····一人にしないって·····幸せにするって·····嘘ついたの?うぅ·····もど·····って·····ちゃんと·····あなたがいないと·····私·····っく·····幸せになれない·····よ?」
わ──っ
大声で泣いた。
乃地の胸で。心音の響かない胸の上で·····
ダメ·····だ。もう私、生きれない·····
「り·····ん·····」
「おいっ!息を吹き返した!」
微かな声で、私の名前を呼んで·····
うつ伏せてた顔を上げ、涙で視界がぼやけている。
けれど、声が聞こえる。顔ははっきり見えないけれど、優しい声、もう聞けないと思った声が。
幻聴?
「り·····ん」
さっきよりも大きく聞こえた。
聞き間違いではない。
「だいち?」
「りん·····ごめん·····約束·····した。幸せに·····」
「乃地─生きてるの?帰ってきてくれたの?」
乃地の腕のあたりに手を置き、温もりを感じながら、乃地がちゃんといることを·····夢じゃないことを確信した。
私には、乃地の姿と声しか入ってこなかったけれど、周りでは生き返った事にびっくりしていたようだ。
救急隊員が急いで応急処置をして病院と連絡を取り合っていた。
乃地はゆっくり頑張って、私に微笑み、『いるから』という一言を残して、ゆっくり目を閉じた。
一瞬、びっくりしたけれど、ちゃんと呼吸をしているとわかる胸が、上下していたのでほっとした。
病院に着くまで乃地の手を握っていた。
米倉先生のいる病院を伝えていたので、乃地の体の事情が分かっている分、手術処置への対応も通常より素早く行われたようだ。手術室へと入っていき扉が閉まったと思ったけれど、少しして再び開き、『僕はかなりの腕前だから大丈夫だ』と、米倉先生が優しく話してくれてた。私の悲愴な顔を見て少しでも安心させてあげようという配慮なのだろう。
やっと少し落ち着けた気分だった。
椅子に腰掛けた時、早川さんがいる事に気付いた。
「あ·····」
「よかったわね。怖かったわ·····」
「·····はい」
「·····あの男子にカフェで言われたの。澤井くんが帰るのを引き止めといてほしいって。私が澤井くんのこと好きなのわかってたみたいで。そうしてくれたら、彼が私のものにできるかもしれないぞって·····」
「何でっ」
何でそんなことを·····。
責めてしまいそうになったけど、でも乃地が来たのは早かった?·····来てくれた時は、まだ終わる前だったはず。
「·····どうして?」
「私の入る隙はないってわかったから·····前に彼に言われたの。『あんたを覚えてないし、好きでもない。もし覚えてたとしても俺の好きなのは、りんだけだ。もう絶対悲しませないって思ってる。これ以上何か仕掛けるなら、こっちも容赦しない』って」
「覚えてない?知り合いだったんですか?」
「聞いてないのね。心配させたくなかったのね·····私は澤井くんに、前暴力を振るって警察に捕まった人と付き合ってた·····浮気相手よ」
「·····!あの時の·····」
乃地が浮気した人。
この人の彼氏だった人が、乃地を恨んで·····
「もちろん、何もないわよ。あ、前はあったけど·····一度。でもそれから私なんて、相手にしてくれなかったし、事件があってからはもちろん会ってもなかった。連絡も取れなかったしね。でもカフェでアルバイトで入ってきて驚いたわ。もしかして、私のとこにって思ったけど·····ふふ、ありえなかったわよね。記憶がない、なんて初めは、その場しのぎの嘘かと思ったわ。
様子を見て少しでも私を覚えてるとわかったら、絶対手に入れると思った。でも、だんだん以前のあの人と違ってるって思ったの。·····英語を話せるし、イタリア語もできるみたいだった…何より私が好きになった人じゃないような…」
「イタリア語?そんなの聞いたことない·····」
「·····そうなの·····どうして隠すかは知らないけど、確かにカフェの帰り、一緒に帰ろうと思って追いかけた時、イタリア語で話してるのを聞いたの。道を聞かれたみたいで、初めは何語かわからなかったけど、最後にさよならっていう言葉を聞いた時わかった。私も海外行く時ちょっと本で勉強したことあったから·····」
頭が混乱する。
死んでしまったと思った乃地が、奇跡的に息を吹き返した。
英語、イタリア語がわかること。
····乃地が乃地ではない。
「持ってる雰囲気も、もう前とは違うのね·····脳が何か異変を起こすと、人格も変わるのかしらね。さっき·····息を返したの·····びっくりしたわ。あの人も言ってた·····」
「言ってた?あの人·····?」
「·····思い出したくないだろうけど、乃地を刺した·····」「あ·····」
「確かに死んだはずだったって·····でも何が起こったのか分からないけど、それが怖くて逃げたって。ただ後で気づいたけど、そばにいて吠えてたはずの犬がいつの間にかいなくなってたって·····不思議なことばかり起こって、現実か空想かわからなかったって」
「いなくなった?その人が逃げた時に、戸を開けたからじゃなくて?」
「·····さあ、私は見てないから。彼の中で混乱して記憶が違ってしまってる可能性はあるけど·····」
何が何だか分からなくなった。ぽちが姿を消した。どこかに逃げたんじゃなくて·····消える·····そんなこと、この世界でありえない。
口から出まかせを言って、彼女を自分に引き付けたいからじゃ·····?
ぽち·····乃地の最期に·····ずっといた·····でも、同じ部屋にいたのに、乃地を刺した人が出る時にはいなかった?怖くてどこかで隠れたんじゃないの?
ありえないことが、頭を駆け巡る·····
ご褒美に頭を撫でて·····
私とぽちしかいないところで、してたことを知ってた·····
ぽちが家から飛び出したはずだけど、ぽちはどこにもいなかった。いつもの散歩コース、買い物コース、お花を見てた花壇のあるところ、乃地が急に友達や浮気相手の所に行くことになって、散歩中なのにぽちをほったらかしたことが何度かあった。後から知って私が探しに行けば、必ずそのどれかの場所にいた。もしくは帰ってきた·····
そう、私がぽちのお世話をするようになってからは、必ず帰ってきてた。だから、必ずまた帰ってくると思ってたのに·····
色んなことを考えていたら、早川さんがまた話してきた。
「乃地は、あなたが好きだったわよ」
「それは違います。私と別れるって言ったんです。あなたがいるからだったはずです」
「何も見えてないのね·····彼も臆病ね·····そういうしかなかったのよ。乃地が私とそういう関係になったのは、私が酔いつぶれていた乃地を誘惑したから。彼言ってたわ。あいつは、俺と別れたいって。でも嫌だって·····でも俺じゃ、色んなものを買ってやれないし、いい会社に勤めることもできない·····でも好きだって。酔っ払って泣きながら、私はあなたのふりをして、彼を介抱して目が覚めたら、私が横にいることに驚いてたわよ。その時だけだったけど·····だから、きっと私以外の女もいたなら、同じ状況だったと思うわよ。·····そんなに好きなら、もっとちゃんと向き合えばよかったのにね」
顔を歪めて、ふっと笑いながら横を向いた。涙が浮かんでいたように見える。
彼女の言うことが、本当なら·····そうなら言ってくれればよかっただけのことだ。きっと誤解は解けて、また戻れたはず·····戻れただろうか。
彼は自分の状況にコンプレックスを持っていたのは事実。たまに私にも拗ねた感じになってた。大学に行ってることが、彼に負い目を感じさせていたのは事実。
それに、私ももっと乃地にちゃんと向き合って、どんなに喧嘩になっても聞けばよかった。ちゃんと好きなのに、別れたくないのに、女の人のとこに行かないでって言えば良かったんだ。
喧嘩になったら·····女の人のとこに行くなって言ったら、乃地がもっと離れていく·····別れるって言われるかもって。
結局そういうところが別れを導いてしまった。
そのまま付き合っていても、いずれは別れていたのかもしれない。
でも今の乃地なら、向かってきてくれていた。
気持ちをぶつけてくれてた。
私も彼のそばにいられるよう、いてもいいんだと、自信を持てるように頑張ろうと思えた。
前にはなかった気遣い。
前よりも、はっきりと感じる優しさ。
私を待ってくれて、手を差し伸べてくれる。
私の心を考えてくれる。
あんなにもう疲れて、好きだったことも忘れてしまったくらいだったのに·····
今はまた乃地に恋をしている。·····違う、新しい乃地に恋をした。違う人のようで·····
ぽちを置いてきてしまった。あの公園にせっかく見つかったのに。でもなんであんなところに·····偶然?
あの辺りに住み着いてるの? 飼われてる?
でもカフェで働くようになってから、私たちに気づいて、匂いとか頭のいいポチなら、何か気づいて現れてもいいはずなのに·····
乃地の息が止まる。
ぽちがいなくなる。
ぽちが現れた·····
乃地が死んで·····
なでなでが好き。
魚が好き、ぽちは·····乃地は好きになった·····
私とぽちしか知らないことを知ってた。
記憶があること·····記憶がないこと·····
そんなことあるわけないし·····
前の働いてた会社のことや人を覚えていない、知らない。
親友の斗真くんはわかるけど。でも斗真くんのことも、ここ最近のことしか、ぽちがいるくらいから·····
「·····丈夫?ちょっと大丈夫?」
はっと現実に戻された。答えが出かけた·····ありえない。
「あ·····はい·····」
「分かってただろうけど、やっぱり事実だと突きつけられれば、ショックよね。でも何回も言うけど、それっきりだから。カフェに来てからは全く知らなかったっていう態度だったし、話したことあったかぐらいの感じだったしね。ふ·····」
私が言えることは何もない。
本当に好きだったのかもしれないけど、早川さんのことで傷ついたのは確かで、別れるきっかけの一つだったし。
何より、乃地が刺されてしまった·····早川さんが付き合ってた人に·····
でも、それがあってこその今の乃地と私なんだけれど·····あの時の私の恐怖、乃地の痛み苦しさ辛さ恐怖、どれほどのものか。
手術室の前での静けさが一層気持ちを暗く縛り付ける。
しばらくして手術室のランプが消え、終わったことを知り緊張が走る。
米倉先生が出てきた。
「先生っ」
早く聞きたいけれど、怖くて·····足がすくんで、その場から動けなかった。




