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乃地がカフェで働き出して半年───記憶はそのまま。でも日常生活は、ほとんど問題ないようだ。
覚えていない、わからないとなっても、少し覚えたり 教えたりすると、ほぼ1、2回で覚える。
時々、カフェで教えてもらったという魚介の料理を私に作ってくれるようにもなった。それも一回作るところを見ながらメモしてくれば、完コピ状態でとても美味しい。こんな才能あるんだから、料理人になれるんじゃないと食べながら興奮して言うと、そういうところは帰りが遅いのが当たり前だから嫌らしい。何でも私といる時間が削られるのが嫌だと。(大地が言ってるから!)
正直嬉しい。
でも最近は、ランチタイムが終わったら帰ってきてたのに、夕方くらいまで残っている。週5勤務のうち4日はそんな感じだった。
夜ご飯には必ず帰ってくる。私が大学の時やインターンの時は乃地が作ってくれる。そんな感じだと疲れるだろうから私がすると言っても、私に作ってあげたいからと·····
どうして遅くなるのか聞いたら、カフェの夜の準備とか、他の知らないことを知りたくて教えてもらったり、学んだりしてると。
お給料は変わってない。初めは勉強熱心になったんだと嬉しく思ったけど、最近なんだか様子がおかしい気がしてて。
ブンブンブン!
思いっきり頭を横に振る。
余計なこと考えない!
乃地は変わったんだし、もっと社会に触れてほしいと思ってたのは私だし。
昔の乃地は被害妄想的なところもあって、誰でも敵のような感覚を持っていたと思う。·····それだけ小さい頃から愛情を貰えてなかったということでもあるから、無理もないけれど、少し心を開けばもっといい人もいるって、知ることができるのにと、いつも思ってたのに·····
外の世界へ行こうとするのに、寂しいと思ってしまうなんて·····
でもやっぱり、またあんな風になる前に変えられるなら、早くに動き出すことで何か違うなら·····
少し、少しだけ見に行っても大丈夫よね?
乃地はもうあの時とは違うし、間違えないと言ってくれたから。
不安な時は聞いてくれたらいいとも言ってくれた。スマホもチェックしてもいいと。だから、ロックナンバーを教えられ、指紋は私のも入れてる。
だから大丈夫だと、杞憂に終わると、自分に言いかせてるような気持ちになりながら、カフェに向かう。
「あ、乃地」
ガラス張りの店内に乃地が座って、何かを読み書きしている様子が、向かい側の歩道にいる私から見える。
真剣な顔してる。
やっぱり本当に手伝ったり、学んだりしてるんだ。
ほっとして暖かく胸がじんわりするのを感じた。
声をかけに行こうかどうしようか迷っていた。
すると、乃地のテーブルに近づいてきた女の子が、乃地の方に肩に手を置き、飲み物を持ってきて何か本を覗き込んでいる。·····乃地に寄り添うように。
何なんか親しそう·····
すると、女の子は私に気づいた。少し驚いていたけれど、すぐに何でもないように乃地に話を始め、そこから目を離さなかった私の前で、乃地の唇に自分の唇を重ねて·····
「え·····?」
一瞬何が起こってるかわからなかった。
でも、でも体の血が引いていくのが分かった。
いや!いや!なんで!?
その場から走り出した。来た道を走った。やっぱり!?
でも、4、50mほどで止まった──
でも·····乃地はどうしてた?
彼女に腕を回した?笑ってた?拒んだ?
分からなかった·····あの女の子しか見えてなかったから。
本当に?
乃地を信じたい、見えてたものを否定したからからじゃ?
ううん、そうじゃない。本当のこと。
あの女の子がとった行動しか私は見てない。
なら、ちゃんと確かめないと。乃地の意思はあったのか。
毎日のように遅かったのは、バイトでのキャリアアップのためではなかったのか。
今このまま帰ればいくらでも言い訳はできる。
乃地が私に対しても、私が自分に対しても·····
もう逃げるのはダメだ。見てないふりはダメだ。
もし乃地がまた前のように、浮気をしているとしたら·····私はもう無理だから。
自分をもう傷つけたくない。
自分を大切にしたいから。
だから、ちゃんと向き合う。
それに乃地は、多分·····違う。
·····キスはしてたけど、私があの日からの乃地を見てきて言えるのは、乃地は·····私を傷つけない。こんな風に。
(ちゃんと話さないと)
私は戻って、今決着つけようとくるりと回り、またカフェに向かう為、一歩を踏み出すと向こうから、乃地が走ってきていた。
「りん!!!」
「大地!?わっ·····」
私の近くに来ると同時に抱きしめられた。
このいつの間にか慣れた乃地の香りと暖かさに、じんわりと心が暖かくなった。
「ごめん!りん、ごめん!傷つけないって言ったのに!」
「だい、ち·····傷つける事したの?私を·····」
「やっぱり見たんだな!ごめん、まさか、キスされるとは思わなかった!」
血の気が引きかけたけれど、その言葉で思っているのとは違うのだと理解できた。
ゆっくりカフェの方を見ると、あの女の子がこっちを見てた。·····少し不服そうな、悔しそうな·····悲しそうな…
このままではいられない。
「私がいるのわかったの?」
「ああ、キスされて、びっくりして·····振り切って顔を横に向けた時、目の端に何か過ぎ去るのが写って、それを追うとりんが見えた。本当に申し訳ない·····油断した。でも誓って俺は彼女とは何もない!」
「毎日残ってるのは、バイトでの仕事をもっと覚えたいとか、夜の手伝いだと言ってたよね?」
「うん·····うん、言ってた」
「あなたは、嘘言ってないよね?」
そう聞きながら分かってた。·····きっと嘘はあるって。
彼女のことではなくて、何か·····
違和感があるから、勘というのか。
乃地の顔色が一層悪くなる。目を伏せ、小さく息を吐きゆっくり私の目を見て、口を開いた。
「·····言ってた、ごめん·····りんを裏切るようなことは、決してないけど、嘘は言った」
血の気が引きそう·····でも裏切るようなことはしてないと言った。·····でもそれは乃地にとってだ。
私にとっては·····覚悟を決める。
「何を·····?」
少し震えた低い声。
「バイトのための残りじゃない。勉強してた」
「勉強?」
意外な答え。
「うん·····英語」
「英語?どうして英語を?·····家じゃできなかったの?」
疑問だらけだ。
そもそも家ではダメなのかが一番大きい。
もしかして家は息が詰まる?そう考えてしまうと、怖かった。今更やっぱり無理だったと言われてしまうのか·····
でも聞かずにはいられない。
「俺、少し話せたんだ。自分ではそんな大したことないと思ってたんだけど、話せることを知ったみんなや、オーナーが読みかきができるようになれば、もっと仕事の幅が広がるし、給料も良くなるって。
そしたら、りんも喜んでくれるかなぁとか、色々買ってやれるし、ご飯も連れて行ってやれるかと思って·····」
「話せたの?すごい·····ね。いつの間に?」
私と付き合いだした時は、少なくとも英語は全くできてなかった。乃地が試験勉強していた時、英語は全くわからないと言ってたし、ある時アルファベットを見てちょっとやってみようかと言い出し、教えていたら蕁麻疹を出してた·····なのに話せるなんてあり得なかった。
「さ·····あ、お客さんが英語を話してるのは理解できた。でもそれが英語っていう言葉だとは、言われるまで知らなかった」
「··········」
そんなことあるのだろうか?
記憶を司る脳と違うところも、何か衝撃を受けて急に違う言葉がわかるなんて。
──本当のことを言ってるの?疑ってしまう。
「信じてもらえないよな·····でも本当なんだ。読み書きができるように、ドリルを買った。あっ、それは早川·····あの人が選んでくれると言ったから任せたんだ。でも本屋に行っただけで、すぐ別れた」
「·····どうして隠す必要が?」
それが一番心に引っかかってる。
「サプライズで·····」
「サプライズ?」
「女の子は、サプライズが好きだと教えてもらって。
俺が全て出来た時りんに披露したら、めっちゃ驚いて感動してくれて、もっと好きになってくれるかなって·····もう別れるかもしれない、なんて思わはなくなるかなって。
牧野や他の男よりできるって思ってくれるかと·····」
「えっ、そんな風に考えてたの?」
乃地がいつか、また私が別れようと言うか不安に思っているような感じはしてた。
でも最近は、二人の気持ちが通じあってからは、だいぶ薄れていったように思えていた。
それに、それは私の方が不安だった。
どんどん自分に自信をつけて、表に出ていっている乃地が私なんかよりいくらでも可愛い人や、素敵な人がいるってわかって、気持ちが変わってしまうんじゃないのかって·····
「私だって、不安だったよ·····どんどん乃地が今までと違う社会を受け入れて馴染んで、できるようになって·····私なんかよりもっと·····」
不安な気持ちが、どんどん溢れて止まらなくなりそうだったけど、乃地に抱きしめられて言葉が出せなくなった。
「りんだけだ。りんじゃないとダメなんだ。頑張れてるのは、りんがそばにいてくれてるからだ。
愛してるんだ」
「乃地·····」
こんなにも私にストレートに言葉をくれる。
なんの打算もなく。
ずっと、ずっと私が欲しかったもの。
でも·····
「だ、乃地·····あの、もう大丈夫だから離して·····」
「·····」
「乃地?」
急に恥ずかしくなった·····というか、気づいた。
ここは公道だった。
·····バカップルだ、恥ずかしい。
「みんなに見られてるでしょう?」
乃地の胸に顔を伏せ、もどうしていいかわからない。
「見たい奴には見せとけばいい。りんは俺のだってわかってもらえるし」
「えっ·····と、お願い·····」
「·····わかった」
渋々、私から離れた。
離れられたら、それはそれで周りに顔見られるし、私も周りが見えるから、ものすごく恥ずかしかった。
それに·····あの女の子は·····
カフェの方を見たけれど、彼女の姿はなかった。
その代わり他のスタッフの人達が、なんとなく笑ってる感じで、私達を見ていた。·····っていうか、他にも人がいたんだ。
乃地とスタッフの人の目が合うと、なぜか親指を立ててくれてるし·····
「りん、キスしてしまったのは、本当に申し訳なかった」
もう一度乃地は頭を下げてくれた。
「もう分かったから、大丈夫。乃地もされてしまった方なんでしょ?」
「ああ、正直腹は立つ」
「ん、とりあえず、私はもう帰るわ。乃地はまだ残るなら·····」
今までの癖のようなもので、気を使いすぎてしまう。
自分の本当の気持ちを置いて、無理に相手にいいように譲ろうとする·····
でも本当は嫌なんだと思った。
「·····やっぱり一緒に帰って?」
またあの人のいるところにいて欲しくないから。そう告げてみると、乃地の顔はみるみる嬉しそうになった。
「もちろん帰るつもりだった。帰ろう一緒に。荷物取りに行くから、一緒に行こう」
そう言って、私の手を引いてカフェへと向かった。
乃地に引かれながら背中を見て、とても幸せだと思えた。
半ばぼーっとしていたら、不意に乃地が止まって振り返り、『嬉しかった、そう言ってくれて』
と少し赤い顔をして、それを見られたくないかのように、すぐ前を見て歩き出した。
·····道端で抱きしめるのは大丈夫なのに、こういうのは恥ずかしいの。
恥ずかしポイントはどこ?
「ふっ」
可愛い、この人は。
二人でカフェに戻ると、周りにとても茶化され、もっと恥ずかしい思いをすることになった──




