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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

原始の太陽

作者: おばば

これは「小説家になろう Thanks 20th」参加作品です

 糸のように細い雨が降る日だ。

 霧のように纏わり付いて、肌の上で結露する。

 産毛に霜が降りるように水滴が浮き出ると、音も無く流れ落ちていく。


 粒の小さい雨が、葉に当たっては砕けて更に細かくなっていく。

 森の中にあって、それは雨と言うよりも兎角に濃い霧のよう。

 鬱蒼たる緑に、薄く濃く斑に白が掛かる。

 余りの音の雑多さに、いっそ静謐とさえ言えるような静けさが充ちていた。


 獣が獲れるのは、決まってこんな気持ちの悪い日だと、最近になって分かってきた。


 水は好かない、と置物の様に炉端に居座る同居人を、説得することにも飽きて、結局一人で出てきてしまった。

 

 手垢で汚れてきた腰帯には、石斧が一振りと石槍が二本。

 血止めに用意している革帯が二本と、3mの細縄が5本。

 背負った籠に窮屈な心地はするけれど、中身は軽く、動くことに支障はない。

 左手に持った杖で、申し訳程度に草露を払いながら進む。


 程なく、見覚えのある薄汚れた木箱が、藪の中に半ば埋もれるように設置してあるのが眼に入る。


 注意深く観察する。


 動きは無い。

 昨日の記憶と照らし合わせながら、擦れた跡がないか、位置に変化はないか、様々な角度から舐め回すように様子を探る。

 耳を欹てる。細雨が葉を叩く音の一粒一粒まで知覚する。

 筺の中から細かな羽音。呼吸音も心音もない。


 多分、大丈夫だ。


 右手が腰帯から石槍を引き抜く。

 肩を引き絞り、肘を折り畳んで小さく構えながら、左手の杖で筺をゆっくりと開ける。

 予想通り、と言うべきか。

 筺の中に獲物の姿は無く、入れて置いた生肉に細かく蝿がたかっているのみだった。

 昨日の内に仕掛けた罠は計五つ。最初の一つ目は見事に空振りだ。


 その結果を残念に思う自分と、どこかで安堵している自分がいる。

 ふぅ、といつの間にか止めていた息を、意識して大きく吐き出す。



「さってと、じゃー、次に行きますか」

 

 努めて明るい声を上げ、次の狩り場に向かって歩き出す。

 右手に持った石槍を腰帯に挿し直しながら。



 当たりを引いたのは、それから更に二つの罠を見回った後だった。


 遠目にも分かる傾いだ筺。

 風雨に洗われて褐色になった筐体の一部が、毟り取られた様に欠けている。

 断面から生木特有の鼻を刺す匂いが立ち込める様だった。

 

 反射的に身を伏せる。

 伏せてから、罠を壊した獣がまだ近くにいる可能性を思い当たる。

 自分の体の髄まで、同居人からの薫陶が染み付いている気がして複雑な心地になる。

 思わず溜め息が零れ。



 左。


 伏せた体を更に深く沈める。

 視界の端で捕らえた印象から、半ば以上当て推量で裏拳。

 濡れた毛皮を叩く感触と共に杖が弾き飛ばされる。

 耳の真横で牙がかち合う高音がする。

 それまで潜めていた呼吸を再開する吸気音に、首筋が鳥肌立つ。


 左手の僅かな痺れを無視して石槍を引き抜く。

 次撃の体当たりを槍の柄で受ける。

 ミシリ、と乾いた音。


………衝撃を受ける時は、斜めにズラす様にする。上でも下でも横でも良い。兎に角、方向を分散すればそれだけ受け止める力は少なくて済む。


 右前脚。伸びた爪が迫る。

 地面を転がる。腰から下を回して足から接地。横方向の力を縦に流して立ち上がる。


 目視する。

 霧に烟る森の中。

 残照にも似た黄色い瞳と暗灰色の毛皮を持つ四足獣。


 狼。


 跳ねた。

 此方の視線を切る様に右へ。

 首を捻って追う。

 

 低い威嚇音。

 頭突きと共に牙が迫る。

 僅かに開いた口を狙って右の貫手を差し込む。

 腕帯に牙が突き立つ。

 指先が熱くぬめった口腔に包まれる。

 触覚を頼りに、相手の舌を掴むために全力で力を籠める。


 狼の後ろ脚が接地する。

 右後ろ足が沈み込んで、背骨から腰までが深く沈む。

 咄嗟に舌から手を放して、右に転足。


 巻き取られかけた右腕が、鈍く痛む。

 呼吸が五月蝿い。

 心臓が破裂しそうだ。

 急激な負荷に全身が抗議している。

 

 苦しい。

 苦しくて仕方が無い。


………目を逸らさないこと。常に相手との距離、相手の動作速度と自分の速度を計算し続ける。目測を誤るか、楽観視しなければ、早々に当たりはしない。


 何故か同居人の言葉を思い出す。

 或いは、この場を生存するために私の頭が弾き出した最適解が、同居人の声で再生されるのか。 


 再度の噛み付き。

 視線から狙いを推測する。

 首では無く、此方の右腕。

 先程の接触がそれ程不快だったのか、と醒めた部分がせせら笑う。

 

 肘から先を折り畳んで躱す。

 土産とばかりに撃ち込んだ肘を、蛇の様に身をくねらせて躱していく。

 

 なんて賢く、靭い獣だろう。


 頭の中が澄んでいく。

 雨音が遠く、だけど、とても近く聞こえる。

 彼我の距離を一定にしているのに、視界が広がっていく。

 まるで鳥が然うするように、遙かに高い所から見下ろしている様な感覚。


 雨が止んだ。

 空に浮かぶ雲が、風に流される。

 これは何なのか。

 何故こんな事が判るのか、自分でも分からない。

 ただ、明滅する視界が、教えてくれる。


 獣の右前脚に重心が移る。

 左前脚の根本がぶれて見える。

 

 刹那、夜闇よりも暗い爪が飛ぶ。


 上体を撓ませたまま、後ろに跳ぶ。

 距離は稼げない。

 それでも。


………必要な事は多くは無い。しかし、その必要なことが出来なくなる。恐れた時、怯えたとき、体が強張る。相手を過大評価し、自分を過小評価する。それを恐怖と人は呼ぶ。


 初撃を躱す。

 獣と視線が交わる。

 衰えぬ闘志。

 次が来る。


 振り下ろされた左前脚。

 交差した体躯から捻りをそのままに、反転。

 右前脚が伸びる。


 前髪を持って行かれる。


 雲の切れ間。注ぎ込む陽光が木漏れ日となって斑に視界を彩る。

 数本の髪が風に流される。


 見えている。

 まだ、見えている。

 視界が、思考が、研ぎ澄まされる。

 

 相手の呼吸。

 その挙動すらも読み取れるよう。


………もし、怯懦に染まっていても、「いつも通り」が出来る。そんな様を、勇気と、そう呼ぶのでは無いかな。


「………いちいち説教臭いのよ!いつもいつも!」


 再度、爪の一撃を髪数本の所で見切る。

 軸足を交差させた相手。

 重心は前のめり。

 弾き出されるのは、刹那の硬直。

 「いつも通り」なら、迷わずドタマに石斧を打ち付ける。


 上等だ。

 やってやるとも。


 心意気は、けれども肉体に追い抜かされる。

 覚悟を決めた時には、既に右腕が腰から石斧を抜いている。

 何千と繰り返した所作をそのままなぞる。

 抜く、振りかぶる、振り下ろす。

 

 当たり前だ。

 普段なら、獲物を仕留めるときに、いちいち覚悟を決めたりしない。

 だから。


 覚悟を決めたときには、もう終わっていた。

 右手に眼球と鼻梁を砕く感触。

 まずい、と思った。

 頭蓋に石斧が流される。

 籠めた力が方向を違えて、宙を彷徨う。

 力みすぎた此方の体勢を立て直す余力が足に残っていない。


 死ぬ。

 ここで終わる。

 このまま喉笛を噛み切られて絶命する自分が見える。


 思わず瞼を閉じそうになったその時。

 何故か、溜め息を付く同居人の姿を夢想した。


……………

………


 下衣に泥水が染み込んで来る。

 冷たい。

 尻から上がってくる冷気が背骨を撫でて、身震いとともに全身に鳥肌が立った。

 雨はすっかり止んで、洗われた空に眩しい太陽が浮かんでいる。


 生きていた。

 覚悟した噛み付きは、終ぞ、放たれなかった。


 思わず、首筋に手を当てる。

 感触すらも予感したのに。

 片眼と鼻梁を砕かれた狼は、聞いている此方が情けなくなるような鳴き声を残して逃げてしまった。

 あんなに強く、美しい獣だったのに。

 あと一息で、アイツは全部を勝ち取れたのに。

 

 不思議だった。

 生きている事も、狼が逃げてしまった事も、それを何とも思わない自分も。

 ただ、命の取り合いの余熱が体に籠もっていた。

 ヘトヘトに疲れているのに、全力で走りたいような。

 その暴力的な衝動に、思わず叫びを上げそうになって。


 ひっくり返った。

 上体が泥濘んだ地面に浅く埋まる。

 見れば腰から下、とくに膝から踝が自分でも驚くほどに震えていた。


 見上げた先。

 幾重に重なる葉の隙間に、燦々と陽が燃える。

 陽光を透かして緑の光が柔らかく視界を埋める。


 どうでも良くなった。

 いいや、とりあえず生きてるし。

 

「……………ねぇー、いるんでしょー。歩けないから連れて帰ってよー」


 森に向かって話し掛ける。

 あのお節介なヤツは、どうせその辺に居るに違いないのだ。

 何度か繰り返しているうちに、葉擦れの音が近付いてくる。

 またお説教かなぁ、と思う。


 まぁ、いいか、生きてるし。

 とりあえず今日を生き抜ける程度に、私は強くなった。

 今はそれで満足しよう。


 何時かもっと大きい望みを叶えるために。

 今はまだ、ただ生きていることに感謝しよう。

 明日もまた、あの太陽が見られそうだ。

 当たり前の様な奇跡に、ありふれた感謝を捧げるのも悪い気はしない。

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