皇太子コルネリウス・ユーヴェルベーク
「やっと来たか」
コルネリウスは、この大陸一と言ってもけっして過言ではない美貌に勝ち誇った笑顔を浮かべて書斎の入り口に立っていた。
腹立たしいかぎりである。
「アイ、かならず来てくれると思っていたよ」
「コルネイ、大した自信ね」
腰に手を当て、小さく溜め息をついた。
「ああ、おれは自信家だからね。さあ、入れよ」
「お断りよ。はやく休みたいの。それに、こんな時間にあなたと二人きりで一つの部屋にいるなんて、このことがシュナイト侯爵夫人の耳に入ったらとっちめられてしまう」
「はっ! きみがか? どうせすでにやり込めたんだろう? アイ。とにかく、こんなくだらないしきたりをぶっつぶしてくれ」
皇太子妃候補を集めてしごき、皇太子本人以外が皇太子妃を選んでしまうというのがしきたりである。そこに皇太子や皇太子妃候補の気持ちや心情の入り込む余地はない。
こんなバカバカしいしきたりはない。
せめておたがいに愛し合っている上で、結婚前にマナーやしきたりの勉強をさせればいい。
まあ、皇太子や上位貴族になったら、結婚は政略の方法の一つでしかないし、ご令嬢はそれの道具でしかないのかもしれないけれど。
それにしても、ほんとに面倒くさいわよね。
「それと、きみがいないからカサンドラ・ヴァレンシュタインがやりたい放題だ。彼女、要領がいいからね。シュナイト侯爵夫人のお気に入りさ。その一方で、取り巻きとともに他の候補をいびっている」
その彼の言葉に、なぜか心臓が震えた。
彼がわたしを呼びつけた真の理由が、いま彼が言ったことである。
そして、それこそがわたしがここに来た真の理由でもある。
「わかっているわ。カサンドラは、アポロニア・シュレンドルフを虐めているのでしょう? それをやめさせたいのね」
「カサンドラは宰相の娘だし、公爵家筆頭の家系だからね。始末に負えないよ。とにかく、カサンドラをどうにか出来るのは、『孤高の悪女』であるきみだけだ。だから……」
「不愉快だわ。わたしには関係ないんですもの。話ってそれだけ? だったら失礼するわ。フリッツ、行くわよ」
コルネリウスが口を開くまでに彼に背を向け歩き始めた。
心臓はまだ震えている。三か月の余命が、いますぐにでも尽きてしまいそうなほどに。
「アイ、なにかあったのか?」
背中に彼の心配げな声があたった。
「その、大丈夫なのか?」
さらにあたった。
「なにかあるわけないわ。それと、あなたも他人任せではなく、自分でどうにかすべきよ。あなたのことでこんなことになっているのだから。あなたの妻のことなのだから、あなたの好きな相手にすべきだわ」
振り向きもせず、そんな可愛げのないことを投げ返していた。
そう。彼には意中のレディがいる。そして、その彼の意中のレディもまた、彼を愛している。
つまり、彼らは相思相愛というわけ。
だからこそ、皇太子妃候補を集めて修行をするとか選考するとか、そんなものは必要ない。
それはともかく、わたしがここにやって来たのは、その彼の意中のレディを守る為、そして、二人をくっつける為。
これまで散々他人の嫌がることをやって来て、いまからさらに嫌がることをする。その上で、唯一自分では「いいこと」をやって、死ぬのもいいかもしれない。
もっとも、その手段が嫌がられることだけど。
それでもコルネリウスがしあわせになれるのなら、やり甲斐があるというもの。
「おいっ、アイッ」
彼の呼ぶ声が何度も背中にあたったけれど、それに応じることはしなかった。
これ以上、心臓が震えない為に……。