災難
「あらー、ずぶ濡れね。そんなところに突っ立っているから、通りにくかったの」
先程、大廊下にまできこえてきた彼女の台詞と同じように言った。
「いったいなにごとですか?」
そのとき、背中に鋭い声があたった。
この険のありすぎる声は、シュナイト侯爵夫人に間違いない。
振り向くと、あいかわらず古風なドレス姿で腰に手をあてこちらをにらみつけている。
「簡単なことですわ、侯爵夫人。場所を移動しようと花瓶を持って歩いている際にぶつかってしまい、花瓶の中のお水がかかってしまったのです。偶然にも、それが二度起きたというわけです」
シュナイト侯爵夫人は、わたしのバレバレの嘘には耳を貸さないよう決めたらしい。全力で無視されてしまった。
「ヴァレンシュタイン公爵令嬢、シュレンドルフ伯爵令嬢。はやく自室に戻って拭きなさい。今朝の絵画のレッスンはここまでにいたします。お昼以降については、昼食時に通達します」
シュナイト侯爵夫人は、わたしをにらみつけたまま宣言すると踵を返して広間を出て行った。
彼女の靴の響きがきこえなくなると、だれかがホッと溜息をついた。
もしかすると、自分の溜息だったかもしれない。
「さて、アポロ。部屋へ戻りましょう。あなた、ずぶ濡れよ」
また体ごとうしろへ向き直り、すぐ目の前のカサンドラ越しにアポロニアに声をかけた。
まるでカサンドラの姿が見えていないかのように。
「アイ」
アポロニアが駆けてきたので、カサンドラに一瞥くれてからアポロニアと歩き始めた。
「災難だったわね。いつどこで花瓶の水が降ってくるかわからないから、おたがいに気をつけましょう」
「そうよねー。ほんと、災難だったわ」
うしろで沈黙を守っているカサンドラへの皮肉に、アポロニアがほんわか応じた。
あいかわらず空気を読まないというかわが道を行くというか、とにかく彼女は独特で天然すぎる。
二人して広間を出た瞬間、「なんなの、あいつ?」とカサンドラの金切り声が大廊下に響き渡った。
「『孤高の悪女』、アイ・バッハシュタイン様よ。そんなこと、いまさらきく?」
だから、うしろを振り向くことなくそう叫び返してやった。
そうして、アポロニアと去った。
アポロニアは、わたしが推測していたよりもかなりひどく虐められていた。
彼女から彼女自身の身に起こってた様々なことをきいた瞬間、すくなくともわたしはそう感じた。
だけど、彼女自身はそう感じてはいないみたい。
「わたしってグズだから、ぶつかられても仕方がないわよね」
「わたしは、要領が悪すぎるから叱られて当たり前よね」
「みんなの足をひっぱっているんですもの。カサンドラなんて器量も頭も性格もいいのに、わたしのせいで評価が悪くなっているかもしれない。だから、だんだん気の毒になってくるの。先生たちもわたしだけ特別に教えたり熱く語ったりして、苦労をかけているし」
ちょっ……。
アポロニア。あなた、人のよさにさらに磨きがかかっているんじゃない? というか、前向きでいいようにとらえすぎていない?
さすがのわたしも唖然としてしまった。
どこをどう感じたらそんな解釈になるのかしら?
謎すぎる。
世の中のヒロインってこんな感じなのかしら?
よく考えたら、ヒロインってたいてい「良い人」ですものね。前向きで物事をいいようにとらえて、自分にも他人にも明るくやさしく接する。ついでにちょっとか弱くて。
そのか弱さは、同性からは虐めや蔑みの対象になるけれど、異性からは「おれが守ってやらねば」と思わせるようなもので、ついつい助けたりかばったりしてしまう。
小説やお話に出てくるヒロインの半分くらいは、そんな「良い人」ではないかしら。
そうよね。だからこそ、コルネリウスも彼女に夢中なのよね。
わたしも彼女みたいに「良い人」だったら、コルネリウスもすこしはわたしのことを……。
そんなことを考えながら、紅茶をすすっていた。
アポロニアの部屋のテラスでのことである。