プロローグ―罪の知覚と罰の執行―
天気のいい昼下がり、彼女、若原歩は友人の谷井史帆と一緒にショッピングをした後、映画を観に来ていた。
今日観に来たのは、歩が気になっていた洋画で、魔法がある世界で落ちこぼれの主人公が成長しながら仲間を集め、親の仇を倒すというものだ。
歩はファンタジーものが好きで、ファンタジー小説や映画、アニメ、漫画をよく見ていた。
今回この映画を選んだのは、CMを観て、その映画が気になった歩が、史帆を誘ったのだ。
2 人が入ったシアター内には、入場を開始したばかりなのか誰もいなかった。
そもそも、この映画は公開されてからそれなりの日にちが経っていたため、他の入場客が少ないともいえた。
「やっとこの映画見に来れたね。公開されてから結構立ったからお客さん少ないけど、むしろこっちのほうが観やすくてよかったかも。」
「そうだね。このほうが周りのことあんまり気にしなくていいから。」
そのように話しながら、2 人はシアター内を進みチケットに書いてある席へと向かっていった。
まだ映像が流れていないシアターは明るく、2 人は奥の方へ軽快な足取りで歩いた。
「えーっと、J-11 と 12 はここかな。私が 12 で、史帆が 11 ね。」
「うん。ありがとう。……ねえ、この間貸した小説、もう読んだ?」
歩は史帆の話を聞きながら席に座り、手に持っていたポップコーンをひじ掛けについているホルダーへと差し込んだ。
「読んだよ。王道のファンタジー小説って感じで、面白かった。私も結構ファンタジー小説を読んできたつもりだったけど、典型的だけどこんなに面白いの読んでなかったなんてちょっと悔しいな。」
「フィアドーネは?」
「ん?」
唐突に、史帆が声のトーンを変えて歩に問いかけた。
先ほどまでの楽しそうに話してた様子とは、打って変わって暗いものだった。
「フィアドーネに対しては、何もないの?」
「フィアドーネって、小説のタイトルで物語の中でも国の名前になってた花のこと?確かに、物語にいいアクセントを加えてるとは思ったけど、それがどうかしたの?というか、いい加減に座ったら?いつまで立ってるのよ。」
歩は、ひじ掛けに置いたポップコーンを少しつまみながら史帆へ座るように促した。
しかし、それでも史帆は座ろうとせず、ただ歩の横の席の前に立ったまま動かなかった。
「……と………な。」
「え、何て言ったの?」
歩はポップコーンを食べた手を止め、隣に立っている史帆の方へと顔を向けた。
史帆は、顔を俯かせていた。
そして、ゆっくりと顔を上げ、史帆と歩の目が合った。
「なんと愚かな。」
史帆がもう一度その言葉を言った瞬間、シアター内の照明が消え、辺りは暗くなってしまった。
目が合っていたはずの歩は、ついていた照明が消え、暗くなったその明暗差で目の前の史帆が見えなくなる。
目が暗さになれず見えない状態のまま、歩は史帆に話しかける。
「愚かなってどういうこと?!急に何を言ってるの!」
次第に目が暗闇に慣れてきた歩が、史帆がいた場所をもう一度見る。
そこには、史帆の姿はなかった。
先ほどまで隣に立っていた友人が、何の音も立てず居なくなっていたことに歩は驚き、あたりを見回す。
その時、スクリーンが白く光り、歩はスクリーンの方を見た。
スクリーンに、人影があるのが見えた。
しかし、その人影はスクリーンに映っている人影ではなく、誰かがスクリーンの前に立ち、影になっているものであった。
しかもただの人影ではなく、スクリーンの中央に浮かんでおり、よく見るとその人物は史帆であった。
「……何これ、ドッキリ?なんでこんな盛大ないたずらするの。やめてよ、もう。」
ありえない状況だと頭の片隅では分かっていながらも、その状況を歩はドッキリだと思うことにした。
歩は苦笑をしながら、気持ちを落ち着かせるためもう一度席に着いた。
その言葉を聞いても史帆は動かず、冷めたい目でまるで観察するかのように歩を見下ろしていた。
史帆は浮かんだ状態のまま、少し歩の方へ滑るように移動し近づいた。
「あぁ、愚かな。本当に何も覚えていないというのか。お前の行動には、痕跡が残っているというのに。」
「さっきからなんなの、いい加減にして!」
歩は怒り、立ち上がって史帆の方へ近づこうとした。
——しかし、それはできなかった。
歩の脚の膝から下が、まるで固定されたかのように動かなかった。
勢い良く立ち上がろうとした反動で、歩はまた座席へ座ってしまう。
「何これ、どうなってるの!?……あ、足が、椅子に埋まってる!」
歩は座った後自身の脚を見ると、椅子に脚が埋まっていることに気づいた。
何とか引っ張り出そうと脚に力を入れたり、手で引っ張ってみたが脚は抜けることはなかった。
むしろ、どんどん沈むスピードが速くなっていった。
――ついには椅子と接していた太もも辺りも、沈み始める。
先ほどまで見えていた膝下は、もうつま先しか見えていなかった。
急に増していくスピードに、歩は焦りを募らせていく。
足を手で引っ張ることができなくなった歩は、肘掛けに手を置き必死に立ち上がろうとした。
その様子を史帆はただ見るだけで、声も掛けない。
そして、とうとう歩の上半身も沈み始めてしまう。
沈むスピードは緩むどころか、さらに速くなっている。
しかし、沈んだ下半身は消えた訳ではなく、肘掛けを掴んで抜け出そうと手に力を入れると足が引っ張られる感覚があった。
歩はパニックになりながらも、頭の隅でまるで底なし沼に沈んでいくようだと考えた。
気づけば歩は、すでに胸のあたりまで沈んでいた。
歩は泣きながら、史帆の方へ右手を伸ばし助けを求めた。
「史帆、助けて。お願いっ。」
「……そう言って助けを求めた無関係の者たちを、お前は見殺しにしてきたのだ。」
「えっ。」
史帆の言葉を聞き声を上げた瞬間、歩は椅子に完全に沈み、シアターから居なくなった。
それを見届けた史帆も、一拍置いてシアターから消えた。
――2 人が消えたシアターには、映画が始まるのを待ち望む人の喧騒で満たされていた。
歩には他の人にはない、おかしな“癖”があった。
その“癖”のせいで、両親や学校にも迷惑をかけていた。
“癖”とは、怒ると周りの物に当たり、壊してしまうという悪癖であった。
そんな“癖”を持ちながらも、彼女の優しさを知っている人たちは彼女から離れていくことはなかった。
そんな人たちを、彼女も大切に思っていた。
彼女のそばにいてくれた人たちのおかげで、歩は怒りが頂点に達した時だけ周りのものを破壊する程度まで自分を抑えられるようになった。
史帆もその中の一人で、大学で出会った数少ない友人であった。
その友人の豹変に、歩は困惑しながら暗闇の中を沈んでいき、意識を失った。
数人の声が聞こえ、歩は目を覚ました。
目の前に見えた光景と体の感覚から、歩はどこかの床に横たわっているということに気づいた。
歩は起き上がり、あたりを見回した。
自身が触れている床の周辺は大理石のような模様が見え、少し先の方は暗く、床があるのかどうかわからない。
正面には 13 人の人物が壇上に座り、こちらを見下ろしていた。
しかし、背後に光源でもあるのか逆光になっており、その人物たちの顔は影になり表情は全く見えない。
その手前に、横たわっていた時に見えた足の人物――史帆が立っていた。
「史帆っ!何でここに。……いや、そもそもここは何処なの?」
「漸く目覚めたようだな。」
突然、壇上の中央から歩に向けて声がかけられた。
歩は壇上を見たが、顔が見えないので声が聞こえた方向はわかってもだれが話したのかは全く分からなかった。
「あの、ここは一体何処なんですか。どうやって私はここに?それに、さっきまで私は映画館にいたはずで、そこで、急に体が椅子に沈んだんです!あれは一体何だったの!」
歩は誰かに話しかけられたことで、今まで心の内にたまっていて不安を吐き出すように問いかけた。
「貴様っ、御前でなんという物言いをっ。」
「よい、ヘンリエッテ。その様子を見ると、なぜそなたがここに連れてこられたのか理解していないようだな。……本当に何も覚えていないとは。」
「仕方がないのでは?彼女が行ったことは、それほどに影響を与えるものだったのですから。」
「だからと言って、彼女の罪が消えるわけではないだろう。」
「それは分かっています。」
史帆が歩を注意した後、檀上の1人が話し始めた。 それに応じて、ほかの壇上の者たちも話し始める。
歩はその言葉を聞いて、余計に混乱した。
「まっ、待ってください!何も覚えていないって、どういうことですか。罪って何のことなんですか?それに、ヘンリエッテって、その子は史帆じゃないんですか。」
「ヘンリエッテは、逃亡したそなたを見つけるために地球へ送った捜査員だ。捜査を始めて、そなたが日本にいることが分かったので、そこで不審がられないよう、『谷井史帆』という名前でそなたに近づいたのだ。ヘンリエッテは、谷井史帆の本当の名だ。」
「そんな…。」
歩は、今まで仲の良かった友人のことが全て嘘であったことに絶望し、自身が逃亡したという身に覚えのないことで捜査されていたことに疑問を抱いた。
「私、逃亡なんてした覚えありません。なんで捜査なんてされなきゃいけないんですか。」
「たとえお前が自身の罪を覚えていなくとも、罪を犯したことに変わりはない。若原歩。いや、エリディカ・ランドール、そなたへの罰を下す。」
「自身が罪を犯した世界で、不調和が起こっている。」
「それを、お前が食い止め修正を行うのだ。」
「失敗することは許されない。」
矢継ぎ早に、歩が言葉を発する暇もなく壇上の人物たちが交互に歩へ告げた。
まるで歩むに押し付けるように。
まるで歩に刷り込むように。
まるで歩に逃げられないように。
「私は、若原歩です!エリディカ・ランドール何て名前じゃない!だから、私はそんなことはしません。元の場所に返してください!」
歩は叫ぶ。彼らの言葉による見えない拘束から逃れるように。
また、この場所から逃げるために。
——しかし、檀上の者たちはそれを許さない。
「そなたは若原歩であり、エリディカ・ランドールでもあるのだよ。」
「だから、お前は罰を受けなければならない。」
「あなたがその罰を終えた後の処遇も、もう決まっている。」
「冥界の王が、あの世への案内人から逃げ切った君のことを気に入っている。」
「ゆえに、そなたには罰を終えたら冥界の王のもとで働くことになる。」
「そこで、今回与えた罰で清算しきれぬ分の罪を償え。」
「冥界へ行くときも、前回と同じように案内人がつく。」
「以前と同じように、ヘンリエッテから逃げることはお勧めしない。」
「逃げれば、冥界での永久の苦しみを味わうこととなる。」
彼らは歩の問いかけに答えはしたが、新しく与えられた情報で歩はさらにわからないことが増えた。
しかし、歩は今置かれている状況について少し知ることができた。
自身がエリディカ・ランドールでもあり、罪を犯しているため罰を受けなければならず、それを終えると冥界で働かされるということ。
そして、あの世への案内人である史帆――ヘンリエッテから逃れているということも。
だが、何に対しての罪なのか、なぜ逃亡したのか、私がいた世界とは一体何処なのかということについては分からなかった。
さらには元の場所には返してもらえず、ここから逃げられないことも彼女は理解した。
歩がもっと情報を聞き出すため、もう一度口を開こうとしたとき――
「それでは、エリディカ・ランドールへの刑罰を執行する。」
言葉の後に、足元が光る。
その瞬間、歩の足元にあった床が円状になくなり、黒一色となる。
そして、歩は突然できた穴に落下していった。
落下した場所から差し込んでいた光が見えなくなった後、あたりは真っ暗になった。
周辺の様子が分からない状態で、歩は水へと着水する。
突然水の中に落ちた歩は、衝撃に驚き、息を吐き出してしまう。
慌てて水面に上がろうと必死にもがくが、全く水面につかない。
むしろ、体がどんどん沈んでいくことに、歩はより一層パニックに陥ってしまう。
(なんで、どうして!嫌だ、死にたくないっ!お父さん、お母さん…)
歩は苦しさを感じながら、今までの記憶が走馬灯のように蘇ってきた。