三話
「ですから、旦那様」
声が間近に聞こえ、物思いに沈んでいたフォルラートは思わず顔を上げた。すぐ隣に小男が、料理の乗った皿を持って立っている。
「今日は魚料理でよかったですか? と聞いたんですが」
「あ……ああ、それで構わない」
むっつりと不機嫌そうな小男が、音を立てて皿を置く。それだけでフォルラートの食欲は減退した。
「あ、それと明日からお暇をいただきとうございます」
思い出したかのような小男の言葉に、フォルラートはスプーンを持ち上げる手を止めた。
「明日から? 随分と急な話だな。どれくらいだ」
「さぁ。しばらく故郷に帰って静かに土でもいじろうかと思ってまして」
「まだそんな歳じゃないだろう」
小男は一度台所へ引き下がり、手に果実酒を携えて再びフォルラートの隣に立った。
「旦那様。大きな声ではいえませんがね、あの人は大変なことになってますよ」
「……あの人?」
「セレナ様ですよ。ほら、一月以上前にこちらにおいでになったでしょう。あっしはその日、外に出てましたがね」
名前を聞き、フォルラートは心臓が跳ね上がるのを感じた。
「どういう意味だ?」
「旦那様は何にもご存じないでしょうが、どうにもあの人の近くにいた者が近々処刑されるようでして。噂じゃ王の圧政に耐えかねたとかなんとかで、よりにもよって軍議中を襲ったんだとか。当然すぐ取り押さえられたんですが、そいつがセレナ様と通じてるって話が出て、まぁさすがにセレナ様をどうこうするわけにはいかなかったんでしょうが、フォゼアの領主様のところに嫁ぐよう命じられたって話ですぜ。フォゼアの領主様がどんな人か、旦那様でも知ってるでしょう?北の沼カエルなんて言われてる奴ですよ」
フォルラートは皿を見つめていたが、その実何も頭に浮かんでこなかった。小さな声で語っていた小男はどこか満足した様子でグラスに酒を注いで、肩を竦める。
「ルイス王に歯向かうなんて馬鹿な奴がいたもんですなぁ。しかしセレナ様も何をお考えなのやら。なんでも、嫌疑がかかったというのに言い訳も嘆願も一切しないで、無理な結婚を二つ返事で承諾したんだとか……いやぁ、美女の、というか女の考えることはわからんですな」
「承諾しただと?」
独り言のように呟いた主人の顔を見ることなく、小男は続ける。
「城の女たちも、あんな気持ちの悪い奴と結婚するくらいなら、本物のヒキガエルと床を共にしたほうがマシだと言ってますからね……だけど噂を否定しないところを見ると、本当によからぬことを企んでいたのかもしれませんが」
フォルラートははっと顔を上げて、何度も唾を飲み下そうとして失敗した。舌がカラカラに乾いているというのに酒を飲もうとも思わない。
「この国ももう持たないでしょうな。自分の姪にあんな仕打ちができる王なんてそうそういませんよ。それでなくとも王は身近な人間を殺しすぎました」
「お前、仕えるべき王になんてことを」
力なく窘めるフォルラートを、小男はどこか醒めた微笑みを浮かべて眺めた。
「旦那様、ここを見張ってる奴なんてだぁれもいませんよ。どいつもこいつも今日を生き残ることに必死なんですから。そう考えるとここでの生活は気楽で良いものだったんですがね、それももう限界でさぁ。旦那様もあの暴君に目をつけられる前に、どこかに雲隠れしたほうがいいんじゃないですか」
小男は小さく息を吐くと、台所から持ってきていたグラスに酒を注ぎ、フォルラートではなく自分の為に高々と掲げた。
「王様万歳!ルイス新王とこのクソッたれの国に栄光あれ!」
言うなりぐいと杯を傾けて一時の至福に酔う小男を見ながら、フォルラートは頭の中でがらがらと音を立てて崩れる国を想像した。
いや、国はとっくの昔に壊れていたのかもしれない。フォルラートが見ようともしなかっただけで、既に残骸のような有様だったのだ。
中庭の木々や草花の茂みは、おぼろげな月の光を浴びて夜に沈んでいる。鳥の鳴き声ひとつしない静かな庭に立つと、フォルラートは背筋を伸ばした。
一月前、セレナ王女は確かにここにいた。
会話を終えた二人は玄関へ向かって歩いていた。
廊下を歩いていたセレナ王女が、花壇の隅に群生していた紫色の小さな花に目を留める。フォルラートを振り返った王女の瞳はまるで子供のように輝いていた。
「このような花も育てているのか?」
「えぇ、月の光を浴びたトルペティスの花からは質の良いマナ──魔力が採れるもので」
思わず専門用語でまくし立ててしまいそうになるのをぐっと堪える。セレナ王女は庭に続く扉を開けて花の元へ歩み寄った。
「トル……トルティペ?」
「トルペティスです。小さな毒という意味なのですが、この花自体には毒はありません。ただその魔力には毒性を強める作用があるのです」
感心したように頷いてセレナ王女は小さな紫色に手を伸ばす。指先で花弁に触れると、露の片鱗がきらりと零れ落ちた。
「このような小さな花にも魔力は宿るのだな。魔術を活かすことができればこの国も……」
言い淀み、しばしの逡巡の末、セレナ王女はフォルラートを振り返った。
「……王宮魔術師どの、貴方にあの話をしたのは間違っていたのかもしれない。できたらで構わない。私の話は忘れて、今まで通り魔術の研究を続けて欲しい」
何かを振り切ったような笑みを残した彼女の後ろ姿を、フォルラートはただ見送ることしかできなかった。
そしてそれが、セレナ王女を見た最後となった。
♣
一月前と同じ場所に立ち、フォルラートはトルペティスの花を慎重に摘んだ。
ひやりとした光を閉じ込めたような紫色が、ひとつ、またひとつガラス瓶の中に落ちていく。わずかな毒を猛毒に変えるには十分すぎるほどの量だ。
──ルイス王は私のことを覚えているだろうか。
思い出すのは弾けたような若々しい笑みを浮かべる新王の姿だ。あの笑顔に惹かれた者たちがこの国の将来を夢見て、かの王はその夢に応えるだけの力を持っていた。
私もその一人だったからわかるのだ、とフォルラートは唇を噛みしめながら作業を進めていく。
このガラス瓶に、月光と陽光を十月浴びせた湧き水と飛び蛙の血、白枝の柔樹皮等を合わせて煮詰めた水を入れれば、赤く透き通るような水に変化するだろう。知らない者が見れば、恐らく果実酒だと思うはずだ。
作っているものは命を奪う恐ろしいものだとわかっていても、久しぶりにルイス王に会えるのだと思うとフォルラートの心は浮足立つ。しかしすぐに悲しみと嘲笑がとって代わった。俺は今から王を殺そうと言うのだ。
それはもしかすると、セレナ王女の為だったかもしれない。もしくはルイス王に恨みを募らせて死んでいった臣下たちの無念を晴らす為のものだったかもしれない。
だがフォルラートにとって、ルイス王の死は自分の為だけに望まねばならなかった。
──新王よ、俺の生涯で唯一と言っていいほどの友人よ。お前はそんな場所にいてはいけない。
政治のゴタゴタなど、物好きな奴らに任せておけばよかったのだ。しかし生真面目な王は、きっと一つ一つの事柄に心を痛め続けたに違いない。馬鹿な奴だ。人を嫌うことすらできない癖に、でたらめや嘘やおべっかに向き合って壊れてしまった哀れな王。
しかし、とフォルラートは空き瓶に液体を注ぎながら、虚空に向かって笑った。
しかし王よ、そういう役割は元来私がやるべきものだろう。胡散臭く、皆から疎まれ、陰口を叩かれる王宮魔術師こそ、権謀術数の首魁であるべきではないか。お前のせいだと罵られて最期には吊るされる、それが王宮魔術師というものだ。
汚れた窓にうっすらと映しだされている男は、頬に涙の跡をつけながら微笑んでいる。
やがてすべての作業を終えたフォルラートは扉を開けると、二度と戻ることはない部屋を後にした。