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一話

 壁にかかった鏡を何気なく覗き込んで、フォルラートは慄いた。

 曇った鏡の中から、痩せた顔色の悪い男がこちらをぎろりと睨みつけている。頭髪を失い、加えて目の下には色濃いクマがこびりついている。恐る恐る頬に手をやると、鏡の中の男もそれに合わせて動いた。

 こいつが俺なのか。

 フォルラートはいささか不機嫌になってその場を離れた。自分の顔を最後に見たのはいつだったか、おそらく研究に必要ないものと判断して、鏡を見る習慣すら忘れてしまっていたのだろう。

 しかし……とフォルラートは書斎に戻ってうんざりした息を吐く。今更容姿を気にしたって遅いのだ。今日の午後、あと数刻もすればセレナ王女がこの離宮へとやってくる。薄暗く、得体のしれない魔術の研究に没頭する男の家に、何をどう間違ったのか王の姪がやってくるのだ……。

 フォルラートは頭を振って、午後のことを考えないように努めた。噂話が仕事であるはずの女がやって来るとは、まともな用事であるとは思えない。恐らくは質の悪いいたずらだろうと思ってみても、結局フォルラートの思考はセレナ王女のことに戻っていく。そしてその思考は何度目かしれない憂いを帯びたため息に変わっていった。


 王宮魔術師と言えば、口さがない女たちの退屈に少々の刺激を与える、ちょっとした噂の的だった。

 曰く、様々な動物を掛け合わせた合成生物を作っているだとか。

 曰く、死者を生き返らせる研究に日を費やしているのだとか。

 曰く、男女の仲を引き裂き、女という女を手中に収める魔術を開発しているのだとか……その手の噂話を集め始めればキリが無い。

 最後はいつも「王に何か吹き込まなければ良いけれど」と茶化して言うのが決まりになっている。王宮魔術師はつまり、胡散臭い道化と似たり寄ったりの存在なのだ。

 それがわかっているから、フォルラートは王宮魔術師となってから人前に姿を現さなかった。あてがわれた薄暗い離宮から一歩も外に出ることなく、用事があれば小男に言いつけて、自分は研究に没頭した。そんなフォルラートのことを、人々は恐ろしくも興味深い存在として噂し合った。

 自分がどんな風に思われているかくらい知っている。しかし、だからと言ってわざわざ嗤われる場に赴く必要もない。王宮魔術師の名と仕事を与えたのは王なのだから、その名に違わぬ仕事をすればよいだけなのだ……。

 フォルラートは苦々しい思いに囚われながらも自分にそう言い聞かせた。これ以上昔の記憶を呼び起こしても憂鬱になるだけだ。


 気もそぞろに本を開いていると、小男が来客を告げにやって来た。今ではほとんど使われなくなった小さな部屋に待たせているという。

 応接やもてなしとは縁遠い場所とは言え王の近親者を待たせる場所としては不適切ではないかと内心狼狽えながら、フォルラートは部屋の扉を開けた。

 「初めまして、王宮魔術師どの。突然の訪問をお許しください」

 ソファから立ち上がった女性は、フォルラートが知るどの女よりも凛としてそう挨拶した。こちらを見た瞬間笑い出すだろうと予測していたフォルラートは、一瞬どう声をかけていいのかわからず、その場に立ち尽くした。

 セレナ王女は供を連れていなかった。赤みを帯びた髪を一つに束ね、まるでこれから狩りにでも出かけるかの様な軽装だ。その顔に若かりし日の王の姿を見たような気がして、フォルラートは眩暈を覚えた。

 「……いえ、とんでもない。このようなむさくるしい場所にようこそおいでくださいました。お初にお目にかかります、セレナ王女様」

 向かい合って座ると、彼女の凛とした佇まいがより一層明白になった。無理をしているのではない。生まれ持った風格の様なものが王女の仕草や表情の端々から感じ取れる。

 「それで、」とフォルラートは落ち着かない様子で切り出した。「一体今日はどのようなご用件でしょうか? 先に申し上げておくと、私は社交の場で囁かれているような魔術は研究しておりませんが……」

 虚を突かれたように目をしばたかせたセレナ王女は、次の瞬間笑い始めた。

 「まさか! ふふふ、フォルラート様は私が惚れ薬や恋愛成就の呪文を欲しがっているとお思いで?」

 さも可笑しそうに笑う王女の前で、王宮魔術師は困惑して俯いた。ひとしきり笑い終え、目じりを拭ったその瞬間、セレナ王女の瞳はきりりと光を湛えた。

 「そうだな。本題に入る前に、少し人払いをしてもらっても良いだろうか」

 「構いませんが……」

 小男を呼びつけ、いくばくかの金を渡して外で時間を潰してくるように伝えると、小男は上機嫌でその場から去った。恐らく馴染みの酒場にでも入り浸るつもりだろう。扉を閉めて振り返ると、セレナ王女が深く頷くのが見えた。

 「これでこの館にいる人間は二人だけです」

 「よろしい。急にこのようなことを申し付けてすまないが、人の耳に入ると具合が悪い」

 王女は小さく息をつくと背筋を伸ばし、フォルラートを見据えた。


 「要件は他でもない。我がネルヴェダールのルイス国王の暴挙を、王宮魔術師どのに止めて頂きたいのだ」


 

 嘘だ、と小さく口の中で言うフォルラートを、セレナ王女は見逃さなかった。

 「いいや、嘘ではない」と重ねながらも、王女はどこか気の毒そうな表情で青ざめたフォルラートを見る。彼は今にも頭を抱えそうになっていた。

 「しかし、私が知る王は、」

 何度も喉のつばを飲み下しながら言う。

 「己の気分ひとつで兵士を斬首するような、そんな冷淡な方では……。いえ、やはり何かの間違いでしょう。あのルイス王に限ってそのような恐ろしいことをするはずがありません」

 「私が嘘を言うとでも?」

 「滅相もない!」

 フォルラートは凍ったナイフを突きつけられたように震えあがった。

 「脅すような物言いですまないが、私は事実を述べている。ルイス王の暴虐さは日を追うごとに酷くなり、臣下たちも常に疑心暗鬼だ。ある日は下女に言い寄ったと因縁をつけて臣下を拷問し、一家親族まで全員投獄した。ある冬の日は庭の木の手入れがなっていないと怒り狂い、極寒の中、庭師たちに裸で掃除するよう言いつけた。他にも思い出せばキリがない」

 「そんな、そんなはずは」

 フォルラートは顔を手で覆う。そうしなければ体全体が震え始めてしまいそうだった。

 「ルイス王は名君だったはずです。あれほど民から望まれて統治者となった方は、どんな歴史書を読んでもルイス王以外におりません。このようなことを申し上げるのは心苦しいのですが、やはり何かのお間違いかと……」

 「間違いであればよかったのだがな。残念ながら王は乱心されている」

 ばさりと切り捨てるような口調に、フォルラートは絶句した。

 「私も幼い頃によく絵本を読み聞かせてくれた、優しい伯父上のことを信じていた。信じ続け、現実から目を背け続けているうちに、王を増長させてしまっていたのだ。最早後戻りできないところまで」

 飾りの少ない絹の手袋を強く握りしめ、セレナ王女が唇を噛む。

 「つい先日も、度重なる進言に業を煮やした王の命令により、大臣は毒を飲まされた。良心の残っている臣下は少ない……しかし、それも無理はないだろう」

 「そのように恐ろしいことを……ですが私はしがない魔術師です。ご存じのように王宮の波風も耳に入ってこない有様ですよ。まさかあの王が……」

 「驚かせてしまったのは謝ろう。だが時間が無い。こうしている間にも心ある臣下は次々と消され、残っているのは王に媚を売り、民をいたぶる残虐な者たちだけ。一刻も早く仲間を集めなければ王を止めることはできないだろう」

 「……そもそも王はなぜご乱心なされたのですか。私の知る限り、そのように残酷なことをなさる方ではなかったと思いますが……」

 そうだな、とセレナ王女は頷いた。

 「実を言えば私も詳しいことは知らない。噂では色々出回っているが、結局のところ王は政に向いていなかったのだ」

 意外に思ってフォルラートが目を瞬かせる。しかし続くセレナ王女の言葉に納得した。

 「王は純朴すぎた。権謀術数の渦巻く王宮ここで、彼の座を守り続けるにはあまりにも優しすぎたのだ。小さなはかりごとも積もれば山となり、あの王の心ですら腐ってしまった」

 優しすぎるというセレナ王女の評価は、フォルラートにも理解できた。民の苦しみが、痛みが、誰よりもわかってしまうが故に、名君は狂王となったのだ。

 とんでもないことになった、とフォルラートは唇を戦慄かせた。一度強く目を瞑り、絞り出すように問う。

 「しかし私に何ができるのでしょうか」

 「今は機を待つより他に無い。だが、時が来れば魔術師殿にも助力を願いたい。民の為というよりルイス王自身の為なのだ。王の愛した国がこのような形で腐り果てていくのを、私は見たくない」

 きっぱりと言い切ったセレナ王女は、かつてのルイス王によく似ていた。フォルラートは頭を垂れながら、わかりましたと答えるのが精一杯だった。

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