幽鬼潜むデルタ
毎度バカバカしい噺をひとつ。
これは、時を遡ること半世紀以上前の、高度成長期の真っ只中。噺家になる前に某大手私鉄で駅員を務めていた頃のこと。
同僚のあいだで実しやかに噂されていたお話です。
複々線化や新線の開業、時差通勤の普及等により、乗車率は少しずつ緩和されていますが、それでも首都圏の朝夕に走る鈍行列車は、混雑するものと決まっております。
随所で警備員による改札制限が行われたり、ホーム上に旅客整理係の学生が並んでいることからも、快適な移動とは程遠いものであることが窺えますね。
もっとも、現在は多くの路線で電化が進んでおりますし、冷暖房も完備されておりますので、あまりの熱気に失神したり、カーブの揺れで窓硝子を割ったり、車内に履き物を無くしたりする乗客は、ウンと少なくなっていることでしょうけど。
さて。話を先に進めますが、駅員時代にあたくしが勤めていたのは、とあるターミナル駅でした。
駅舎は大型商業ビルの中に位置し、地下鉄の駅にも程近い場所に建っておりますので、通勤通学の会社員や学生はもちろん、お買い物を楽しむ奥様方や、観光目当ての方も多数利用される駅でございます。
と、ここまで申せば、あの駅かしらと見当が付いた方もいらっしゃるかもしれませんね。
三面四線の櫛形をしたホームなのですが、駅を出てすぐに真横を流れている川を渡らねばならない関係で、先へ行くほどカーブを描き、そして細くなっております。
列車の車体は直線ですから、曲がった駅に到着すれば、当然のことながら、弦と弧のあいだに平べったい蒲鉾型の隙間が生じます。
そうなれば、先程も申し上げたように、この駅はいつも利用されている方ばかりではございませんので、駅員としては、線路に転落しないよう、足元に注意して乗り降りすることをアナウンスしなければなりません。
「ホームと列車とのあいだが広く開いております。足元にご注意ください」
とまぁ、このような調子ですかな。
ところが、朝夕の混み合う時間帯になりますと、運転本数も増えてまいりますので、ホームに集まる乗客の数も比例して増加いたします。人数が増えれば、接触する機会も何倍もに膨れ上がりますから、不慮の事故が起きないか細心の注意を払う必要が出てきます。
万が一にも死亡事故を起こせば、遅延に繋がるだけでなく、鉄道会社としての信用問題にも関わってきますので、迅速な輸送を丁寧に行うという高度な対応を求められるわけでございます。
「中ほどまでお進みください。手荷物、お引きください。発車いたします。駆け込み乗車は、おやめください」
何度も申し上げるようですが、駅は先へ行くほど細く、カーブの曲がり具合も急になっております。おまけに大型ビルの中ですので、何本もの大きな柱が聳えています。
そこへホームに立ち並ぶ人影が増えるとなれば、死角が生じるのも無理のない話でしょう。しかも、当時はホームの先端に、今のような転落防止柵がありませんでした。
駅員一人一人、出来うる限りホームの隅々まで目を光らせておりますが、人の子ですので、見落としが無いかと不安にもなります。
大丈夫かなぁ。
あぁ、心配だ、心配だ。
怪談しかり、都市伝説しかり、よからぬ噂話というものは、こうした心の隙を突いてくるものでございます。
「ラッシュアワーの幽鬼は知ってるか?」
「先輩の武勇伝ですか?」
「違う違う。俺の名前じゃなくて、魑魅魍魎の幽鬼だ」
「あぁ、なるほど。それで、どんな話なんですか?」
「ウム。これは新人の頃に先輩から聞いた話なんだが、その昔、足元不注意で線路に転落した妊婦がいて、その幽霊が自身と胎児の命を奪われた怨恨から悪鬼となり、今でもホームの下にある暗闇の中に潜んでいて、幼い子供が乗ったり降りたりしようとする瞬間に足を掴み、そのままホームの下へ引きずり込むそうだ」
「ちょっと待ってくださいよ。何ですか、その奇妙な話は。ラッシュアワーとの関係性は?」
「その幽鬼が現れる時間帯が、決まって監視の目が行き届きにくくなる混雑時だというんだ。それじゃ、お先に」
「お疲れさまです」
まぁ、この時は、先輩があたくしを怖がらせようと思ってありもしない作り話をしたんだろう、というくらいの気持ちで受け止めて、それ以上は深く考えてもみませんでしたよ。
ところが、それから数日後のある夜のラジオを聴いたとき、あながち噓とも言い切れないのではないかという考えが芽生えてまいりました。
「……ペンネーム、本郷のノンポリ男さんからの投稿です。『こんばんは。毎週、下宿で楽しみに聴いております。さて。僕は日々の通学に国電中央線を利用しているのですが、梅雨時期のラッシュアワーは、最寄り駅へ行くのも憂鬱になります。そんな大学生活の中で、ひとつ聞き流せない噂を耳にしました。それは、途中に通り過ぎる×××駅についてです。ご存知かもしれませんが、かの駅は勾配と急カーブのある地点に位置しているため、電車とホームとの隙間が広く空いていることで有名です。この×××駅で終戦から間もない頃、ホームの最前で子供を抱えていた女性が、後ろにいた復員兵に押され、到着したばかりの列車とのあいだに子供を落としてしまい、未だに見つかっていないという話です。これは、本当にあった話なのでしょうか? それとも、デマカセの類なのでしょうか?』ということでね……」
あたくしは、さっさと寝ればよかったと後悔しつつ、すぐにラジオを消して布団に潜り込みました。ところが、そんな話を聞いてしまったばかりに、ぐっすりとは眠れないわけです。
偶然だろう。いや、偶然にしては話の内容が類似しすぎている。いやいや、ひょっとしたら……。ぐるぐると同じ考えが堂々巡りし出して、頭が変に冴えて仕方ありません。ようやくウトウトし始めたのは、窓の外が薄く紫立ち始めたころでございました。
当たり前ですが、翌朝からの勤務には、どうにも気合が入りません。人波が収まった昼頃には、もう、うつらうつらです。
「いやにボーッとしてるな。どうした? 実家から、見合いの相談でも持ち掛けられたか?」
「いえ、ただの寝不足です」
「なんだ、だらしがないな。てっきり、奴を見たのかと思って心配したというのに」
「えっ、誰をですか?」
「決まってるだろう。ラッシュアワーの幽鬼だよ。急行の車掌が、それらしき生白い手を見たって言うんだ」
「またまた。その手には引っ掛かりませんよ、先輩」
「良いから、こっちへ来てみろよ」
先輩へ引かれるままに、あたくしはホームの先へ行きました。
今では柵がしてある場所ですが、当時は、そこも乗り降りに利用されておりました。
停車中の列車とホームとのあいだには、まるで鯨が口を開けたように、ひときわ大きな隙間が空いてました。
「ここが、その現場だ。よく検分してみろ」
「見たところ、何か居るようには思えませんけど」
「もっと間近で見るんだ。ほら、顔を近付けて」
「怪しいものは、何も……うわっ!」
腰を落として薄暗い隙間に目を凝らしていると、突然、ヌウッと細い手が迫ってきました。
驚いて尻餅をついたあと、仄暗い隙間を指差しながら、噛み合わない歯の根をガタガタいわせて後ろを振り向きました。
すると、そこにいたのは、
「ニクイ、クヤシイ、クチオシイ」
「ひいっ、出たぁー!」
先輩ではなく、頭から血を流した妊婦の姿でした。
あたくしは、抜けた腰や笑う膝に鞭打ち、その場から一刻も早く立ち去ろうとします。しかし、思うように走れません。
そういうするうちに、幽鬼の姿が迫ってきます。そして、肩を掴まれたと思った瞬間、
「起きろ、この寝坊助め!」
「ハッ!」
あたくしは、仮眠室で目を覚ましました。同じ時刻に出勤の先輩は、修羅のような形相をしておりました。
はたして、どこから夢で、どこまで現実だったのか? それは今でも、謎のままでございます。
まっ、所詮、噂は噂の域を過ぎないといったところでしょうな。
今日は、ここまでにいたしましょう。お帰りの際は、足元にご注意ください。
でも、絶対にホームの下の暗闇だけは覗き込まないように。
深淵を見る時、深淵もまた、こちらを見ていると申しますからね。
おあとがよろしいようで。