正義の論議
正義の味方について、考察しよう。
そのためにはまず、正義というものの正体について考えなければならない。
正しい道理。人が従うべき正しい道理。辞書を引く限りは、このような回答が得られる。
日常生活についてはどうだろう。日本における日常生活において、正義だの悪だのを論議する機会はほぼないと、人並みに日常生活を送っている身からすると、そう感じる。
これは日本の義務教育の数少ない賜物であろうが、学校、特に初等教育における最も重要な教育とは、正しいことと悪いことの分別をつけさせることだ。だからこそ我々日本人は、むやみに人を傷つけず、盗みも働かず、真面目に日常を過ごしているものが圧倒的多数となる。日常生活において正義とは意識する意味もなく、当然の文化として我々の体に染み付いているものだ。「人を殺すのは悪いことか?」という問いに対し、「理由はわからないが悪いことだ」と、大方の児童・生徒は答えるように。
では、正義とは何か。
それは年齢を重ねれば重ねるほど、その思いを抱く本人の意思に、意味が左右されると言わざるを得ない。
先ほどの児童・生徒に「正義とは何か」を問うたとき、どんな答えが出るか。それは「悪人をやっつけるもの」だと、そう答えるものもいるだろう。
しかし、所謂「大人」と言われる存在にこの問いを投げたとき、その答えは全く一様ではなくなる。なぜなら、自分の信じるものの如何によっては、その定義は人としての悪にも転じ得るものだからだ。
一つ、問いを投げよう。
全世界の人間が500人となったとして、200人と300人、それぞれに分かれて船に乗って航海することになった。
ある日、2つの船の船底に大きな穴が空いた。これを修復できるのはあなたのみ。片方を直している間に、片方は確実に沈没してしまう。互いの船には1人ずつしか、追加の乗船余裕はない。
300人の船のリーダーは言った。「船を直せるのはお前だけだ」
200人の船のリーダーは言った。「船を直せるのはお前だけだ」
「あなたは、どちらの船を助ける?」
あなたの職業は、正義の味方。より世界にとって、人間にとって、文化にとって、正しい選択を選び取ることができる者。
さぁ
「どちらの船を助ける?」
──……。
少し意地悪な問いをしてしまっただろうか。
この場合、その船に家族は乗っているのかや、どちらがより人類の存続に利益ある人材がいるかなどが比較対象になるだろうが、そこまで思案が及ばないものは、大方、300人を助けるだろう。
少ない犠牲を前に、より多くの救済を成し遂げる。これは特に政治にも通づる考え方かもしれないが、例えが些か極端だっただろう。
しかし、この問いで得られる答えこそ、その人にとっての正義とは何かを、より精確に指し示すものではないかと考えている。
家族、信条、数字、義理、合理。つまり正義とは、「自分にとっての優先順位とは何か」を示す方法の一つなのではないだろうか。もし正義に絶対的な定義があり、行動指針があるとするならば、それこそは「個人が何を真っ先に思うか」ではないだろうか。
しかし自身の信ずる道が、他人にとっても信ずる道だとは限らない。最悪の場合、互いは互いを敵と認識し、相手こそを悪だと決めつけ、あらゆる手段を用いて排除、排撃しようと試みるだろう。
だからこそ、正義は悪がいなければ存在できず、またその逆も然りなのである。
正義や悪は、もはや人間が人間らしい感情を持っているからこそ発生する、「人類悪」、「原罪の一」なのではないだろうか。
ところで、国には「主義」というものが存在する。過去、現在において、様々な学者や政治家が、「国を、国民を、文化を、存在を、より繁栄させるための行動指針」として掲げたものだ。
日本は民主主義、中国は社会主義など、馴染み深い言葉だが、この主義こそが「正義のあり方」をより混沌たらしめている元凶とも言えよう。
民主主義における正義とは、雑に言えば多数決の法則だ。より数の多い意見こそが優先される。つまり、「より多くの数が投じられた意見こそが正義」となる。
さぁ、ここでまた、問いを投げるとしよう。
「より数の少ない意見は、悪として排除されるべきか、否か」
これはまた、少し雑な問いかけすぎて答えることはできないだろう。その点わざとであるので許してほしい。
しかし、あなたはこう思ったことはないだろうか。
「他人と違うことは、恐ろしい」と。
恐怖。
自分自身が他の環境と全く溶け込めていないその感覚に、日本人は殊更恐怖を覚えるものだ。もちろん、周囲の環境と溶け込めていない自分以外の存在にも、同じように恐怖を覚えるという。
その感覚を、国単位で持っていたとするならば。
悪の枢軸国。
自国の利益を正当化するために、情報を統制し、軍隊を編成し、自らが悪とした国を滅ぼすことでさえ、人間は「正義」として武勇を語る。
──…………
自身に貫けるほどの正義はあるか。
今の世界だからこそ、自身の意思とはより尊重され、より強い選択を行うことが迫られる。
自身が正義としたものを悪だとする存在と相対した時、自分がそれを貫くことができるのか。
自身でコントロールできる部分は、より強い「正義」として、定めておきたいものである。