失踪と疾走
まるで、死刑執行のようだった。
シェノク、バンドラゴラ、ヴァルクス、クーガ。四人の騎士に四方を固められ、テオは逃走した道を戻っていく。
自室までの廊下で、テオはぼそりと呟いた。
「……その薬、どのくらいの過去まで遡って、記憶を消してしまうんだ」
前を歩くシェノクが首を振る。
「時間としては三十分程度だ。ただ、その間につよく印象に残ったことに特化して、過去どこまででもさかのぼって作用する」
「……どうせ忘れさせるつもりの、書類をわざわざ突き付けたのは、そのためか」
「半分はな。もう半分は、それがやはりお前の権利だからだ。アレイニの義務でもある。たとえ拒否権が無くても、事後報告でも、知らせないわけにはいかない。それがラトキアの法だ」
「しゃらくせぇ。おためごかしだ。クソ犬」
テオの暴言に、シェノクは何も言わなかった。
バンドラゴラが柔らかく囁く。
「アレイニのこと、何もかも忘れるってわけじゃないよ。一年以上の間、一緒に戦った同僚として、友人として、もしかしたらもっと深い関係も、記憶に残っているはずだ」
「……それで、どうなるんだ。『全部終わったこと』みたいになるのか」
答えたのはヴァルクスだった。
「自然消滅した、それなりに楽しい思い出としてうまいこと消化するだろう。ひとは記憶の穴を、己の都合のいいように埋めて、未来へ進んでいくものだ」
「……ああそう。あんたらおっさんどもは、今までいっぱいそうしてきたんだろうな。ガキの初恋物語なんか、キレイに消えるに越したことないって思ってんだろ」
ヴァルクスもやはり、返事をしなかった。
テオは吐き捨てた。
「忘れるもんか。忘れない。絶対に」
「……そう強く思えば思うほど、薬はよく効くぞ」
言ったのは、背後のクーガだった。脅迫じみた台詞に、テオは前を向いたまま毒づいた。
「必ず思い出してやる」
部屋まで戻ると、シェノクが眉をひそめた。続いて覗き込み、自分でもうんざりと気落ちする。
テオの部屋はひどく散らかっていた。もともと自分でひっくり返した雑貨類に加え、騎士たちとの取っ組み合いで足の踏み場もなくなっている。シェノクはやれやれと嘆息し、
「これじゃ目が覚めたときに、なんだこりゃって考え込んでしまうな。記憶を呼び覚ますキッカケになりかねない。薬を打つ前に、片付けるか」
「自分でやるよ。十分で済ませる。みんな出て行ってくれ」
テオは言った。大脱出劇のあとだ、騎士たちは了承しかねたが、クーガが制した。
「四階だ。窓から降りられる位置でもない。ティオドールにも、覚悟を決める時間は必要だろう」
テオは頷いた。
「ついでに、タバコを吸う時間が欲しい。バンドラゴラ、ライターを貸してくれ」
「タバコ? お前喫煙なんかするのか」
「おれがあげたんだよ。シェノク、吸わせてやってくれ」
言いながら、バンドラゴラは胸元からガスライターを投げてよこす。そういえばあのタバコは、アレイニとの恋の進展を祝ってくれたものだったと思い出す。こうして連鎖することが、より深くの記憶を消去させると気づき、バンドラゴラの気遣いに唇をゆがめた。
彼はきっと、真実、テオの味方なのだろう。大切な友人だった。テオは笑顔で、バンドラゴラに礼を言う。
「ありがとう、バンドラゴラ。この借りは必ず、きっと返す」
そうして、テオは部屋の扉を閉めた。
――ひどく散らかった部屋の真ん中で、深呼吸を一つ。そして掃除にかかった。少年兵上がりの雑務は早い。ほとんど押し込むだけではあったが、騎士たちが想定するよりずっと早く、テオは片づけを完了させた。
要らないものをクローゼットに。
必要なものをその手に。
そうして空いた、ほんのわずかな自由時間――テオは、ガスライターを開いた。
――ティオドールが目を覚ました時、あたりは静まり返っていた。
緩慢な動作で、ベッドから起き上がる。
時計を確認すると、どうやら深夜らしい。
テオは頭を抱えてつぶやいた。
「……おかしいな。……さっき、朝飯を食って……着替えに戻って……仕事は?」
どうやら寝過ごしたらしい。それにしても寝すぎだ。
いや、そもそも朝起きたという記憶のほうがおかしいのか。夢だったのかもしれない。
何も思い出せなかった。
「……なんだろう。俺、目覚めはいいほうなのにな。
なんで誰も起こしてくれなかったんだ? シェノクあたりが怒鳴り込んできそうなのに。
……なんで寝坊したんだろう。
……昨日……夜……バンドラゴラと、ヴァルクスと、酒をのんだ……? いやそれはずっと前のことか。でも……あいつらがこの部屋にいた気がする……」
いや、やはり記憶違いだと首を振る。
ずっと前、もう半年ほども前、バンドラゴラ達と飲み明かしたのはあちらの部屋だったはずだ。バンドラゴラの部屋に置かれた、愛妻トロワの写真を覚えている。
――トロワ教官。妻。バンドラゴラは結婚していた。
いつ、したんだったか。
お祝いをした覚えがない。なぜだろう、よく知る二人の結婚に、祝いの品一つ贈らなかったわけがないのに。
――なぜ、自分はあの時、あんな深酒をしたのだろう。このラトキアで飲酒に法的な年齢制限はない。それでも、あまり若くから飲まないほうがいいとは聞いていた。テオにとって、ほとんど初めての飲酒だったはずだ。
――なぜ――あれがバンドラゴラの結婚祝いだった? いやそれにしては色気のない、どこか悲しい酒だった。
悲しい?
――なにが――自分は何を、悲しんでいたのだったか。
思い出せなかった。
何かがおかしい。
何か、大切な用事を忘れているような気がする。すっぽりと穴が開いたような、奇妙な寂寥感せきりょうかんがある。
その穴があまりにも大きすぎて、どこに開いているのかすらわからない。それほどに大きな穴が、テオの身体にあるような気がする――
テオは首を振った。
「まあ、いいか。寝なおそう」
嘆息し、寝返りを打つ。
「――痛ッ!?」
突然の激痛は、胸に走った。
テオは慌てて軍服を開いた。いつの間についたのだろうか、左胸に傷がある。痛みは心臓や内臓からくるものではなく、その傷と服がこすれたせいらしかった。
なんだこれはと唸りながら、恐る恐る、傷に触れてみる。
――ヤケドだ。切り傷や打ち身ではない、確かにヤケドの、皮膚の収縮と水膨れが見て取れる。
軍服には傷一つないのに、肌にヤケドだと? わけが分からないながらも、とりあえず処置をしようと立ち上がる。
軟膏くらいなら持っているはずだ。
クローゼットを開けてみる。何となく、いつもの形より乱雑に詰め込まれているような気がする。それでも応急医療セットの箱を見つけ、左胸の攣れる痛みを気にしながら、テオはそれを取り出し――ふと、手を止めた。
左手の甲に、文字が書かれている。
『鏡』
「……かがみ?」
仕事用のメモを、手の甲に書くことはたまにある。だがこんなキーワードでは意味が分からない。なにより記憶が無い。
それに、なんだか見慣れない色味であった。
事務仕事で使うペンではない。鮮やかな朱色のインクと、しなりのある筆を使って書かれていた。
擦ってもなかなか落ちそうにない。テオは首をかしげながら、軟膏を持ち、洗面所へと出て行った。
ひと気のない、騎士団寮の夜。
テオは軍服の前を開いたまま廊下を歩く。
――こうして、だらしない格好をしていて、怒られたような気がする。
誰に? ――誰かに。
もう、テオったら。本当に子供っぽいんだから。
――誰だ?
騎士団共有の洗面所には、常夜灯に照らされた鏡があった。
テオは軟膏のフタを口に咥え、傷を映す。応急処置をしようと鏡を見た。
そして心臓の上に焼き付けられた、『アレイニ』の名の刻印を見て――
テオは咆哮をあげた。部屋に駆け戻り、軍服を着込む。私物のカバンに上着と野営道具レーション。
少年兵上がりの、準備は早い。
テオはあっという間に旅の支度を完了させて、騎士団寮を飛び出していった。




