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アレイニとキリコ①

 初めて彼と出会ったのは、アレイ二がまだ学生の時だった。


「は、初めまして、キリコ博士。研修生のアレイニと申します。今日から二週間、よろしくお願いします」


 しっかり九十度、腰を曲げて頭を下げる。

 鮮やかな青色の髪が地につくほどの礼を示してから、アレイニは面を上げた。

 美しい女であった。端正な面長の顔に、庇護欲をそそる垂れ気味の眉毛。深い青の瞳を伏せて、アレイニはすでに、感涙しそうになっていた。


(――ああ、やっと、今日この日を迎えた!)


 ずっと憧れていた、天才科学者キリコ。アレイニ達、研究学生にとっての現人神である。

 彼の元にはすでに書類が届いているはずだった。

 ――この者アレイニは当学院において最優秀の成績を収め、あなたの後継者となれる人材である。ラトキア軍科学班に迎え、これより二週間、班長であるあなたのもとで教育実習を行うべし――

 そういった文面の文書が。


 にやけてしまう頬をなんとか隠し、耳まですっかり上気させて、アレイニは視線をあげた。


 そこに、男の背中があった。ラボの扉をノックして、開いた瞬間と同じ、白衣の背中だ。

 胸のあたりまで伸ばし、適当に縛った水色の髪。その後頭部だけをアレイニに向けて、キリコは微動だにしていなかった。


「……あの。博士? あ……アレイニ、です。どうも……」

「聞こえているよ。推薦状は読んだ。私がキリコで合っている。よろしく」


 ひどい早口で、返事が来た。

 そしてそれきり――何も話さない。ディスプレイと書類を交互に眺めながら、こちらを振り返ることもなく、研究を続行していた。


 ――良くないときに来てしまっただろうか。


 アレイニはそう考えて、少し、彼の手空きを待つことにした。普段、たった一人で利用されている研究室は、物が多く、手狭であった。書籍や実験器具がずらりと並べられ、キリコのすぐ後ろに立つしか場所がない。

 キリコの肩越しに、ディスプレイが見える。一応、気を使って、アレイニは視線をはずしていた。それでも見えてしまう物は仕方ない。視界の隅に入り込む――それは動画――モニター中継のようだった。


(……寝ている……病気の、子供?)


 薄手のシーツを体に乗せた、療養着姿の子供である。眠っているのだろうか。だとしたらひどく魘されている。

 頭部にいくつもの脳波測定器をくっつけて、シーツの下で、時折身をよじっていた。口の動きから呼吸が乱れているのがわかる。音声はない。キリコの片耳にある、イヤホンには聞こえているのだろうが。


(なんだろう、治療かな……)


 キリコ博士は、医療にも深い造詣を持つ。戦争で使用する凶悪なバイオ兵器と同時に、いくつもの新薬や斬新な治療法を発明してきている。難病の子供を救う研究中なのかも知れない。


「あの……これは、医務室の映像ですか?」

「いや、すぐ隣の実験室。ここから扉一枚を経た続き部屋に彼はいる」


 キリコは振り向きもせずに答えた。


「実験室に、ベッドですか」


 その相づちは、質問のつもりだった。しかし完全に無視される。モニターの映像は、十分間で目立つ変化はなく、ただただ少年の寝姿を中継しているだけだった。


 ……少年、だろうか。

 もしかしたら少女かもしれない。キリコの背中が邪魔でよく見えない。いずれにせよ、見応えのある動画でもなかった。二十分もすればアレイニはすっかり退屈して、再び、キリコに話しかけていく。


「あの、なにかお手伝いすることはありますか? お役に立てることがあれば」

「無いね」


 早い。アレイニは呻いた。それでも、気丈に食い下がる。


「勉強させてほしいんです。お願いします、なにか指示をください。今、博士はなにをモニタリングしているんですか? 教えてください!」


 キリコは、無言で振り向いた。


 言葉の早さに相反し、キリコの動作は緩慢であった。それでも、彼の体が完全にこちらを向くまでに何秒とかかったわけがない。しかしアレイニには酷く長い時間に感じた。


 大きな男ではない。背丈はアレイニと大差ないだろう。

 アレイニの少々豊かすぎるほど盛り上がった乳房のぶんを差し引けば、もしかすると――いや、もしかしなくても、たぶん間違いなく、あちらのほうが体重が軽い。


 細い首に、くっきりと浮き出た鎖骨。白衣の下には薄いシャツを着ていたが、布越しに贅肉の凹凸は感じられない。引き締まっていると言えば聞こえがいいが、ただ貧相に痩せているだけだ。

 さらに言えば、美男子でもなかった。メガネの向こうにある水色の目は冷たくて、愛嬌のかけらもありはしない。


 だが――


 彼の視線を受けたとたん、アレイニはぞくりと総毛立った。心がざわつく。

 恐怖? いや、甘い眠気が膝裏をくすぐったのだ。アレイニは無意識に、自身の性器を荷物で隠した。内臓の最奥まで覗かれたような気がした。

 視線が合わせられない。

 そらした視界に、キリコの口元にある小さなホクロが映っていた。


 薄い唇が、開いて喋った。


「アレイニ……写真では、男の姿だった。雌雄同体だったか」


 ダイレクトに性について触れられて、また、ざわつく。


 性別への言及――周期的に性別が変容するラトキア人にとって、それは特別な話題ではなかった。同じ言葉はこれまでに何度もかけられているのに、なぜか今日だけは、己の性をひどく陵辱されたような気がした。

 視姦なんて、されていない。ただ観察されただけである。


(……何を変な意識をしているの。処女でもあるまいし)


 アレイニは嘆息すると、鞄を後ろ手に持ち替え、あえて胸を張って見せた。

 こんなものはどうということもない、ただの脂肪だというように。


「ええ、基本は雌体優位。月のうち二十五日間は女の姿です。書類の二枚目、詳細欄にはちゃんと書かれていたはず。このラボは女人禁制? いいえ、何も、問題はありませんよね?」

「問題はない、そう思っているなら、なぜ雄体時の写真を使った」


 妙なところを追及される。


「それは……別に」

「もしかしたら雌体だと査定に響くかも知れない、雄体の方が選考に有利かも知れないと思ったからだろう? キリコのラボへの研修希望は、科学部だけで百人を越えたと聞いている。競争に勝つためのあざとい工夫だな」

「……そんな……つもりは、ありませんでした」

「ふうん? せっかくの雌雄同体を武器にしないなんて、もったいない。君は頭が悪いんだな」


 言い捨てて、キリコはまたモニターに向き直った。そのままで続ける。


「悪いが、私は何も教えないよ。秘匿しようってことじゃない、ただそんな時間と手間を取ってやらないと言うことだ。勉強ならそこの棚のファイルに現行のデータが、過去の実績なら研究所内地下に資料室があるからそちらへどうぞ。八割がたは持ち出し可能だから、学校に戻ってやってくれ」


 ひどい早口である。アレイニが内容を飲み込むより先に、キリコは次の言葉を紡ぐのだ。


「しかしこのキリコが今までにやってきたこと、やっていることを見ていても何もならないよ。それじゃあ私の劣化版ができるだけだからね。私はまだ死ぬ予定はないのだから、そんなものは必要ない。後継者になりたいなら、私がまだやっていないこと、生涯でやる予定がないこと、私にできないことをしなくてはならない。アレイニ」

「は、はい」

「君のやりたいことをやりたまえ。机と椅子と、薬品や機材は自由に使いなさい。放置してやるから、勝手にするといい」

「……そんな……私は、キリコ博士のお手伝いがしたくて……」

「いらないよ。どうせ使えない」

「! ……私は、最優秀成績で、学院の代表として――」

「教科書を脳味噌に写し込んだだけの肉塊が、何の役に立つ。百科事典一冊のほうがコンパクトで便利だね」


 キリコの言葉はあまりにも冷たく、アレイニの肺腑を抉った。唇をふるわせるアレイニを一瞥にもせず、キリコはモニターを見つめる。

 そして変わらぬ早口で、告げた。


「ラボから出て行っても結構、居座るのも結構――だが、アレには手をつけるなよ。コレは私の物だ」


「えっ?」


 素っ頓狂な声がでた。


 キリコは相変わらず、モニターだけを見つめている。アレ、コレと言うのは、この画面にいる少年のことだろうか。

 気後れしそうな自分を奮い立たせ、図々しく、キリコの後ろからのぞき込んでみる。すると、彼も少し、横に避けてくれる。アレイニに見せてくれる――『彼の物』を、キリコは自慢げに晒した。


 やはり、少年だった。十五歳前後、まだ、子供だ。その顔立ちはこれ以上ないほどに整って、作り物のようであった。しなやかな体つきがうごめく様子がやけに、艶めかしい。

 短く切った黒髪を汗にぬらし、苦悶のような表情。目を堅く閉じ、どうやら意識はないらしかった。悪夢にうなされているように、体だけが反応している。


 頭蓋につながれている電極は、ベッド横の機材につながっていた。

 アレイニは眉を寄せた。


「……彼はなんの病で?」

「治療じゃない、ちょっとした実験だ」


 ぎょっと目を剥く彼女に構わず、キリコは続ける。その口調は淡々としていたが、わずかに熱がこもっているのをアレイニは理解した。


「もちろん本人の同意は得ている。ただの少年じゃない、あれは軍人だ。最年少で騎士団入りし、武功めざましく、来期にはとうとう騎士団長になる子だよ。オーリオウルの英雄クーガの名に記憶は?」

「……知っています。建国の三女神の血を引く、武成王(ぶせいおう)家の子――たしかに、黒髪ですね……」

家柄そんなことはどうでもいい。アレは逸材だよ」

「逸材?」


 問い返しても、キリコは回答をくれなかった。


 ちょうどアラームが鳴り、実験終了の時刻を告げる。キリコは手元のパネルを操作した。実験室のベッド横にある、装置のランプが消えた。


「終了だよ。お疲れ、クゥ。私の声が聞こえたら、手を挙げてごらん」


 パネルのマイクに口元を近づけ、囁くキリコ。その声音は、アレイニに掛けられたものと比べものにならないほど、優しい。

 モニター画面の中で、少年はゆっくりと身を起こした。頭痛を抑えるような仕草をしながらも、片手を揚げて降ってみせる。乱れた呼吸を整えるためだろう、大きく深呼吸をしていた。


 また無視されるかもしれない、とは思いながらも、アレイニは果敢に問いかけた。


「刺激による脳反応の測定ですね。陽電極にはどんな電気信号を送っていたんですか?」


 ありがたいことに、回答はすぐにきた。


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 答えを聞いても、しばらく理解はできなかったが。


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